随想録『パラボラ・アンテナ』
★P−18
カントは『実践理性批判』で、「幸福の原理」についてくどくどと贅言を費やしている。だが、ショーペンハウアーはじつに直截明快だ、「今までは、まだ誰一人ほんとうに幸福だと感じた人間はなかったようだ。もしそんな人があったとしたら、たぶん酔っぱらってでもいたのだろう。」(『パレルガ・ウント・パラリポーメナ』)
まったく何ものかによる自己酩酊によってしか幸福は享受しえないのかもしれない。
しかし、その酩酊がともすれば自堕落を誘い、傍目にはいかにも醜悪に見える。
「享楽は人を卑俗にする」といったのはゲーテ。
古今のすぐれた人間観察者、たとえば哲学者、文学者、宗教家などが一様に現世肯定よりもむしろ現世否定の傾向を色濃く持っているのは、なぜか?
あるいは、ショーペンハウアーの言うように、「この世界は考え得る最悪の世界」というのは真実なのだろうか。
これに関連して、ホイジンガの『中世の秋』はこう記す、「人間の言葉は、恐怖のヴィジョンほどに鋭いヴィジョンを、幸福については作りだすことができないのである。醜いもの、悲惨なものを、これでもかこれでもかと見せつけるには、ただ人間存在の洞穴の深みへとおりていけば、それで足りた。だが、至福の感情を表現するには、首の骨も折れんばかりに天を見挙げなければならなかったのだといおうか。」
人は、幸福のヴィジョンの乏しさによって、いきおい不幸のヴィジョンに傾斜しがちである。
暗鬱なヴィジョンは、その時代の芸術表現に端的に現れる。
ハッピーエンドの物語は説得力に乏しい。だが、凄絶な破局の物語は、シェークスピアの悲劇を読んでもわかるとおり、すこぶる雄弁である。
「日の光を見るのが、いやになった。この世の秩序がめちゃめちゃになってしまえばよい。おい、警鐘を鳴らせ!風よ、吹け!破滅よ、落ちかかれ!せめて、鎧を着て死んでやるぞ!」(『マクベス 第五幕第五場』)
何という凄まじい臨終の雄叫びだろうか。しかし、マクベスが一人ぐらい死んでも、やはり日の光は地上に降り注ぎ、この世の秩序は一向にめちゃめちゃになりはしないのだ。
世界は暗鬱ではない。むしろ、人の言葉が自らの世界と精神を暗鬱に歪曲する。
人は自ら想像しているほど不幸ではない。ただ、幸福のヴィジョンが過少なのだ。
それは、なぜか?自己の理想像をとかく手の届かない高みに求めたがるからだ。換言すれば、虚栄心の過多である。
こうした人間の病いを、メルヴィルは『白鯨』で、「悲劇的に偉大な人物とはすべて一種病的なものを持つことによって成り立っているものだ。若くして大望を抱く人々よ、人間の偉大さとは病いにすぎぬのだと記憶されたい。」と喝破している。
ドストエフスキーは、『カラマーゾフの兄弟』で肯定的な章をつづるには三カ月間辛苦したが、自ら「涜神」と呼んだ部分は熱狂のうちにたった三週間で書きあげたという。
神を讃美するより、神を罵倒するほうが、人はずっと得意であるらしい。
文豪ドストエフスキーでさえ、幸福のヴィジョンの欠乏症にかかっていた。
あるいは、現実に幸福であった場合、人は表現力を失ってしまうのだろうか。
つまり、多く表現する人ほど、実際は幸福に縁遠い?
「人は何も言うことがないと、決まって悪口を言う」と吐露したのはヴォルテール。
ニーチェは、『人間的、あまりに人間的』でつぎのようにとどめを刺す、「百年にわたる感情の誇張によって言葉という言葉が、みなもやもやして膨れあがってしまっていることが、現代では非常に認識の邪魔になっている。」
たしかに、ごもっとも!
次ページへ
前ページへ
目次へ