随想録『パラボラ・アンテナ』


★P−16

−−大切なのは、私にとって真理であるような真理を見出し、それのために私が生き、そして死にたいと思うような観念を見出すことなのだ。いわゆる客観的真理を私が探し出したとしても…それが何の役に立つだろう。
  キェルケゴール 『日記 1835年8月1日』
キェルケゴールは、1855年、42歳で亡くなった。彼の墓には、それから20年間も名前が刻まれないままだったという。晩年のキリスト教会批判が過激だったための、教会側の報復である。キリスト教会とは、要するにイエスマンだけを寄せ集めた独善的で狂信的なグループではないのか。


初期のキリスト教神学者オリゲネス(AD185−254)は、マタイ伝の「天国のために、自ら去勢者となりたる者あり」という言葉に従って、自ら性器を切断したという。
観念論という名の究極的な肉体蔑視の典型である。しかし、キリスト者の中にも精神的去勢者は存在する。
あるいは、愛するレギーネ・オルセンに婚約破棄を言い渡したとき、キェルケゴールは自ら精神的去勢者を宣言したのかもしれない。
それが、彼の「私にとって真理であるような真理」を見出した結論なのだろう。
キリスト教は、精神にとっても肉体にとっても、最も残酷な神をその教えの中心に据えている。
ただし、こんな批判をする私は、仏教徒でもなく、また無神論者でもない。


−−また、死はわれわれにとって何ものでもない、と考えることに慣れるべきである。というのは、善いものと悪いものはすべて感覚に属するが、死は感覚の欠如だからである。それゆえ、死がわれわれにとって何ものでもないことを正しく認識すれば、その認識はこの可死的な生を、かえって楽しいものにしてくれるのである。というのは、その認識は、この生に対して限りない時間を付け加えるのではなく、不死へのむなしい願いを取り除いてくれるからである。なぜなら、生のないところには何ら恐ろしいものがないことをほんとうに理解した人にとっては、生きることにも何ら恐ろしいものがないからである。
  エピクロス 『教説と手紙』
近頃、故人の言葉を引用するだけの、見せかけの思索が目立つようになった。他人の言葉に同意するふりをして、実は自分の頭で考えようとしなくなったのである。エピクロスというはるか古代の哲学者が何を言ったからとて、現在の私に果たして何の関わりがあろうか。エピクロスの快楽のおこぼれに与って、私の精神は少しでも安らかになったといえるのだろうか。
観念の惰性は、こんなにもたやすく自己を疎外する。…私自身の思索態度に対する自戒をこめて。


カントは、太陽系の他の惑星には、地球人よりも優れた理性的動物が存在すると信じていた。すなわち、自分の属する地球人は、あまり信用できなかったのである。
カントが信じた、他の惑星に住む理性的動物とは、つまるところ地球人を侮辱するための理想像なのではないか。
ヨーロッパ人は、哲学者を始めとして、奇妙な人種である。自惚れが強いくせに、同胞は頭っから信用していないのである。
カントは、自分の自惚れを満たし、なおかつ他人を信用しないために、他の惑星に住む理性的動物を空想したのである。


−−宇宙が生命をもたらせるほど複雑だとして、しかもある一つの種が科学的な探求をまともに始めてからほんの数百年でその最も奥底の構造を理解できるほど単純でもあるとすれば、宇宙規模での偶然の一致を必要とすることになる。<宇宙>がそんな我々の都合に合わせてできていると期待する理由はない。
  ジョン・D・バロウ 『科学にわからないことがある理由』


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