随想録『パラボラ・アンテナ』
★P−14
鎧戸や窓のカーテンをすべて閉めて、外界の光や音をすっかり遮断し、薄暗いローソクを灯した机の上で、孤独な瞑想に耽り、思いついたようにペン先をきしらせながら筆を運ぶ宗教家、哲学者、文筆家の姿を想像したりする。
防音装置の施されたオートロックのマンションにいて、蛍光灯の下で、孤独な瞑想に耽りながら、思いついたようにパソコンのキーボードをたたく現代の宗教家、哲学者、文筆家の姿と対比させることは困難である。
ローソクの下の人間は、蛍光灯の下の人間よりも、外界の情報は貧弱なものだった。しかし、その分、ローソクの下の人間は、蛍光灯の下の人間よりも、内面の情報ははるかに充実していたのではないだろうか。
光あふれる世界は、影の存在を稀薄にする。光あふれる世界は、死の思索をも稀薄にする。
パスカルが『パンセ(Pensees)』を書いた、電気もないパソコンもない当時を空想する。
−−だれが私をこの点に置いたのだろう。だれの命令とだれの処置とによって、この所とこの時とが私にあてがわれたのだろう。
パスカル 『パンセ』
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ヘラクレイトス(BC540年頃〜BC480年頃)は、「人は同じ川に二度入ることができない」といった。
人は同じ桜の花を二度見ることができない。人は同じ風を二度感じることはできない。人は同じ日を二度生きることはできない。
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4月9日(日曜日)、千波湖のほとりと桜川の河畔は、薄紅色の桜が満開である。しかし、満開の木の隣には、立ち枯れた桜の木がある。半ば病んだ細長い枝を延ばす木がある。同じように見事な花を咲かせる樹木も、年輪をごまかすことができない。
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エラスムスの『痴愚神礼賛』によると、「哲学者は、確かな根拠はひとつもないのに、あらゆることに関して際限もない議論をやらかしている。おまけに、賢人などというのは、あらゆる自然の感情に動かされず、けっして間違わず、いかなる過失も許されず、自分だけがすべてであると考える怪物である」という。
パスカルいわく「人間は考える葦である」、エラスムスいわく「人間は考える怪物である」。
考える怪物は、身の程を弁えず、根拠もなく際限のない議論をやらかすのが大好物なのだ。
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−−知覚された世界が構造化されて、背景としての地の上にゲシュタルトが図として浮かび上がり、そのようにして風景のなかに一つの意味が現われてくる時、知覚する眼差しは写真機のようにたんに受動的に世界を映しているのでない。むしろ知覚する眼差しは、自らの主体的能力によって世界をユニークなかたちで構造化して意味づけているのであって、そこではつねに知覚の天才が働いているのである。
メルロ・ポンティ 『知覚の現象学』
おそらく、メルロ・ポンティが若いときから抱いていた哲学の課題を、この私も同じように若いときから抱いていたような気がする。
その哲学的課題をメルロ・ポンティは難解な現象学の用語で説明しようとしたが、私はもっと短い言葉に要約できる。すなわち、
「あなたの見ている世界とわたしの見ている世界はどこまで同じなのか?」
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自分の住む世界で一番確かだと思われていること、あるいは一番不可解だと思われていること、そのことに私は真っ先に省察の目を向ける。
「確かなものに盲信がある。不可解なものに無知がある。」
ソクラテスの「無知の知」を真説とする私の哲学の原点がそこにある。
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