随想録『パラボラ・アンテナ』
★P−12
量子論を扱うテキストには必ずと言っていいほど登場してくる「シュレーディンガーの猫」という最大のパラドックスは、門外漢の私にとっても見過ごすことのできない興味あるテーマである。おそらく今後発表されるどんな物理学理論も、「シュレーディンガーの猫」に対して答えられなければ、その理論に未来はないだろう。
私の宿業体系においても、「シュレーディンガーの猫」は尽きることのない謎を提供してくれるのである。
「シュレーディンガーの猫」のテーマはこうである。
「まず中が見えない箱を用意し、放射性物質であるラジウム、この放射線を検出する検出器、検出器とつながった青酸カリ入りのビン、そして一匹の猫を入れる。青酸カリのビンにはフタがしてあるが、ラジウムから放射線であるアルファ粒子が出ると、検出器がそれを検出し、ビンのフタが開く仕掛けである。ビンから流れ出た青酸ガスを吸えば、猫はたちまち死んでしまう。ラジウムからアルファ粒子が出るかどうかは、量子論では確率的にしか予言できない現象になる。今、一時間以内にアルファ粒子が放出される確率を50%だとする。果たして、一時間後、猫の運命はどうなっているのだろうか?それは、箱を開けて見ればはっきりする。だが、ここで問題になるのは、箱を開けたとき猫がどうなっているかではなく、箱を開ける前の猫はどんな状態なのかである。
このとき猫は生死の確率50%、すなわち半分死んで半分生きた状態として記述される。箱を開けて観察する以前に、猫は生の確率50%と死の確率50%を兼ね備えた状態と見なされるのである。生と死が半分ずつ重なり合った奇妙な存在、それがシュレーディンガーの猫なのだ。そして、箱を開けた瞬間に、猫は生か死か、どちらかに100%決定するのである。ミクロの世界では両性具有だが、マクロの世界ではたちまち別性どちらかに決まってしまうようなものである。」
私も実際にはミクロの世界を知らないから、「シュレーディンガーの猫」というテーマには非常に混乱してしまう。
しかし、注意深く観察すると、「シュレーディンガーの猫」は、かの有名なゼノンの「飛ぶ矢のパラドックス」と同じ議論ではないだろうか?
「飛んでいる矢といえど、ある瞬間を規定すればある空間を占めることになる。しかしまた、静止している矢とて同じ瞬間を規定すれば同じ空間を占めることになる。よって、運動と静止の区別はつかなくなるだろう。」というのがゼノンのパラドックスの要点である。「シュレーディンガーの猫」もまさに量子論という見えない箱の中では、生物体の生死の区別がつかないことを要点としている。運動と静止、生と死、まったくパラレル思考である。
「中が見えない箱に、一匹の猫を入れる…」、ではその入れた瞬間猫が本当生きていることをどうやって確かめるのか?中が見えないのに確かめる方法はあるのか?
こうなると一時間後の猫の状態ではなく、入れた瞬間の猫の状態がもはや問題となってくる。どうやっても確かめられないなら、猫が半分死んで半分生きた状態であっても、何も問題がないではないか。
確率論の問題として、生と死は半々に混合されている。量子論では、実数と虚数が混在した世界を描き出す。だから、この解釈は正しい。
「シュレーディンガーの猫」も「飛ぶ矢のパラドックス」も、生と死、運動と静止、それを区別する観測者がどこにもいないことによって成立するのである。数学の方程式も、物理の法則も、観察者に関係なく客観的に成立すると誤認するところからパラドックスのあだ花が咲いてくる。しかし、生きているか死んでいるか、運動しているか静止しているかということは、数式や物理法則それ自体で判断できるわけではない。生きている人間の視点がどうしても不可欠なのである。
つまり、誰から見て、猫は生きているのか死んでいるのか、そして、誰から見て矢は動いているのか止まっているのか、その誰かこそが本質的に究明されなければならないのである。
認識主体がどこにも存在しなければ、猫は半分死んで半分生きていようと何ら矛盾しない。同様に、認識主体がどこにも存在しなければ、矢が止まっていようと動いていようと何ら矛盾しないはずである。
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あなたは、現実世界をたとえ1秒でも忠実に絵に描き出したいと思っていますか?
そんな人への私の提言は、「目に見えるもの総てではなく、意識できるものだけを描きなさい。」
人は目に見えているものの総てを意識しているわけではないし、総て意識できるわけでもない。
見えていても意識できないものは、結局対象としてほとんど存在していないに等しい。
私たちも実際は、意識できるものだけの世界を選び取って1秒1秒を生きているのである。
もしも、目に見えるもの総てではなく、意識できるものだけを抽出した世界に生きられるならば、私たちの日常は質素であるが、もっと充実しているだろう。
あなたは総てを知ることはできないし、かりに知ることができたとしても、あなたの判断を停止させるだけで、あなたを活かす力とはならない。
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