随想録『パラボラ・アンテナ』


★P−11

しかし、科学もやはり宗教の一面を持っている。それはすなわち、理論を信頼するという心の働きにおいてである。信頼なしで成り立つ無謬の理論など有りはしない。
数学の定義や公理もまた信頼の上に成り立っている。信頼という土台を突き崩すなら、数学は成り立たなくなる。それは、自然数において1の次は2である、という信頼を突き崩してみればすぐに分かる。


脳内のニューロンの数やシナプスの強度がいくら厳密に物理的に計測できたとしても、私は、人間の心はおそらく物理学では解明されないと思う。
なぜなら、物理学では健全な心と病的な心を区別できないからだ。物理学の基礎となっている数学には、健全な幾何学や病的な代数学といった区別がない。数学はある意味ですべて健全すぎるほど健全な学問なのである。その分野からフロイトの精神分析学は派生してこない。
もしも病める数式または老いる方程式なるものを1つでも発見できれば、数学は人間の心に1歩近づくことになるのかも知れない。しかしそんな発見は金輪際ありえないだろう。なぜなら、病める数式や老いる方程式などという不完全で曖昧なものを、数学者自身が金輪際認めるはずはないからである。


−−これまでのところ、宇宙は思ったよりもずっとわかりやすいということが判明している。皮肉なことに、物質の素粒子による内部の空間から、はるかな銀河による外側の宇宙空間にいたる自然の景観全体の中で、これまでに遭遇した中でいちばん複雑なものは、我々の頭の中にあるものである。
  ジョン・D・バロウ 『科学にわからないことがある理由』

まさに、バロウの言うとおりである。素粒子空間や銀河空間での出来事は、私のパースペクティヴで何とか捉えられる。
しかし、自分の脳細胞空間の出来事は自分の影法師を捕まえようとするようなものであり、一度もうまくいったためしがない。
私の目も耳も鼻も口も皮膚も、自意識というパラボラアンテナはことごとく外界に向かうようにできている。
私の脳細胞は、それらの情報を必死にかき集めるが、それをどのような独創的なシステムで処理しているのか、明確に教えてはくれないのである。
こんな譬えはどうだろう、「世界は将棋盤と駒と棋士から成り立っている。将棋盤と駒の動きはよく見えるが、棋士の心の動きは全く判らない。脳細胞は、相手の駒の動きにすばやく反応して、次の一手を決める棋士の内部にある」


エントロピー増大の法則を全宇宙にわたって適用すると、宇宙は最終的に秩序を無くして熱的平衡状態に陥り、冷え切って終焉を遂げるといわれる。
高い秩序から無秩序へ、低確率から高確率へ、不平等から平等へ。
つまり人間も歴史的には無秩序に向かっており、完全平等に到達して終焉を迎える?
しかし、安心してください。人間はエントロピーの法則だけでプログラミングされた機械ではないのです。


ピラミッドや万里の長城や、あるいはアンコールワットなどの巨大な遺跡群を眺めると、私はその高みで権力者の自己顕示欲の凄まじさに目を見張ると同時に、その底辺で建立のため牛馬のごとく酷使されたであろう何万という奴隷や捕虜たちの呻き声を耳にするのである。あらゆる文明は、しょせん奴隷と捕虜の消費の上に築かれてきたのである。文明化するとは、計算高くなること、欲張りになること、自惚れが強くなることである。
20世紀ですら、文明国ソ連のシベリア開拓という戦争捕虜の消費が公然と行われたではないか。


21世紀の戦争は、資本主義と共産主義といった国家理念のぶつかり合いなどではなく、キリスト教とイスラム教というような古くて新しい宗教戦争の様相を帯びることだろう。
最も狂信的な人間が、神の名において最も残虐な行為をなしうるからである。
彼ら宗教家は、自らの思い通りにならない世界よりも、自らの思い通りになる信仰が何よりも尊いからである。
しかし、仏教徒もやはりその教義を守るため、殺し合いに参加するのだろうか。
いや、キリスト教もイスラム教も能動的なニヒリズムであり、唯一仏教だけが受動的ニヒリズムだとすれば、仏教徒は自らの教義のために殺し合いをしないだろう、たぶん…。
しかし、宗教的な人間が何をしでかすかは、まるで信用できない。仏教の一派であるヨガの修行を完成させたと自負するグルとその徒党が、現代の地下鉄でサリンを撒いて無差別殺人をしでかす時代なのだ。宗教家は文明人よりももっと信用できない。


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