随想録『パラボラ・アンテナ』


★P−06

ハイゼンベルクの『部分と全体(Der Teil und das Ganze)』という書物を読んで、いっそう次のような疑問を抱いた。
プラトンの「定規とコンパス」というモノサシだけが正統であると、二十数世紀後の今日までも信じられていることこそ驚嘆すべきものである。
原子の構造から宇宙の構造まで、本当にそんな古色蒼然とした、形式にはまった、ちゃちなモノサシで事足りるの?
なぜ、その根本的なところを真摯に反省しようとしないのだろう?
数学者や物理学者は、先端的でありながら伝統的、革命的でありながら保守的、客観的でありながら狂信的な、何と学問的偏見の持ち主であろうか。


「点」は位置だけあって、大きさのない概念である。「円」は中心からの距離が同じ点の集まりである。では、「点」と「円」を極限状態でもなおかつ区別する方法はあるのだろうか。中心からの距離が限りなく0に近い「円」と「点」は、果たしてどこが違うのだろう。


私のすでに老化を始めた大脳では、もはや新しい数学を生み出す余地がないことを自覚している。しかし、哲学する者にとって、自分が存在する世界を描き出す手がかりとなる数学、特に幾何学が最も重要であることを知っている。プラトンと対決するためには、哲学者はまず幾何学を理解しなければならない。
私は、哲学的確信を持って、自分の住む世界は、プラトンの定規とコンパスのみの世界でもなければ、ニュートンの無限3次元空間と無限時間の世界ではないことを、主張する。
新しい数学、新しい幾何学が必要である。
「3次元空間に替わる球形空間で、古典的な運動方程式はどのように記述されるべきか。等速運動、等加速度運動、放物線運動、それらを3次元座標をいっさい使わないで記述できるだろうか。」
私は真剣にこんな課題を、哲学的に考えている。


人間の科学で説明しつくせないもの、「信頼」、「愛情」、「驚嘆」、「不信」、「絶望」…こういった科学の網の目から洩れ落ちるものが、実はもっとも人間的な課題である。もしも嘘だというのなら、試しに「信頼」を数学の公理できちんと証明してみよ。


マルキ・ド・サドは、フランスが生んだ最大の反キリスト者である。東洋人の私に、サドの哲学を理解できるわけがない? いや、宿業体系を知れば、いやでもサドの独我論哲学と向き合わざるを得なくなる。人間的などんな世界解釈も可能だからだ。そして、あらゆる解釈の極限に、決まって虚無が待ちかまえている。サドの放蕩哲学の果てに、死体の山という虚無が待ちかまえているように。しかし、頭の中で考えられ、挫折してゆく放蕩哲学など何ほどのものでもないのだ。
観念が恐ろしいのではない。その観念を盲信するしか生きるすべを見いだせないことこそが恐ろしいのだ。それはおそらく、ドストエフスキーが描き出すイワン・カラマーゾフの絶望的な哲学である。「すべてが許される」という無限自由のなかで挫折する精神であり、虚無への殉教を示唆する哲学である。
サドのように放蕩無頼の限りをつくすべきだろうか。イワンのように絶望してついに発狂すべきだろうか。私は、サドにもイワンにもなれないことを知っている。それでも、「死にいたる病い」を宿業的に抱え込んでいることを知っている。


この世で一番大切なこと、それは自ら信じた哲学を誠実に生きてみること。
えっ? 自分には哲学がないって? しかし、心配はいらない。この私にもそんなに大それた哲学などないのだから。人生の終わりに当たって、結局人間的に大差のない生き方をしたことが分かるだろう。宿業体系とはそんな視野の狭い哲学なのである。また、私にはそれで充分なのである。
私は世界全体を理解できないし、また理解したいとも思わない。ファウストのように、全知に憧れる人間は、結局悪魔に魂を売り渡すしかないのだ。
「人間ひとり死すごとに、ひとつの哲学が滅んでゆく。」


私がひんぱんにヘーゲルの弁証法を批判している様子をみて、あるいは私がひどい偏見の持ち主で、だからヘーゲルをひたすら目の敵にしているように受け止められるかも知れない。私が偏見の持ち主であることは否定できないが、それだけひんぱんにヘーゲルを批判するのは、やはり私にとって黙殺できない哲学者であることを認めているからである。取るに足りない思想の持ち主なら、私はあえてヘーゲルを批判したりはしない。
今は、ヘーゲルもまた彼の弁証法という偏見の裡に不可避的に生きていたということを、確認しているのである。人間は誰も宿業的な偏見の呪縛から解放され得ない。

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