随想録『パラボラ・アンテナ』


★P−04

唯物論者が観念論者を非難するときに、「物質世界がなく、自分の観念世界だけがすべてであるなら、自分が眠っているとき、枕やベッドといった物質世界は忽然と消え去ってしまうのか?」といった論法を耳にすることがある。
観念論者がそれに対して「yes」と答えるのかどうかは知らないが、私の宿業体系では、「自分が眠っているとき、私はいかなる一般価値に対しても自律責任を果たせない状態にある。枕やベッドに対しても、ただロボットのように無責任に身を任せている。眠りは固有価値の休息である」と答えるだろう。


人間精神に固有な「偏見」は、国家的でもなく、民族的でもなく、社会的でもなく、集団的でもなく、本当は徹底して個人的な課題である。
人間が根源的に自分にとって「直接存在」であることから、すべての「偏見」が出発しているのだ。「偏見」を何らかの集団概念のせいにしようとするのは、「自律責任」の責任転嫁にすぎない。
「偏見」とは、自分の価値を自分なりにひいきしているということである。あなたの内部の固有価値が、外部の一般価値に対してそのように「偏見」を抱いたのだ。責任はすべてあなたにある。
「人間ひとり死すごとに、ひとつの偏見が滅んでゆく。」


宿業体系での「一般価値」はともかく、皆さんは「固有価値」は何だと思いますか?
魂、イデア、先験的統覚、リビドー、アーラヤ識、生命表象…どれも当たっているようで、どれも不正確なのです。実は、人間の経験的知識では正確に表現できない何ものかなのだから。何と呼んでもかまわないが、結局どれも不正確なのです。その意味では、固有価値は見えない価値なのです。あるいは究極的なミソロゴス…。


bias:ゆがみ、斜線、傾向、性癖、えこひいき、偏見。
favor:好意、偏愛、寵愛、愛顧、恩恵、世話、えこひいき。
prejudice:先入見、ひがみ、害、不利、ひいき、偏見。
私が「偏見」という言葉を使うときは、「bias」が一番ふさわしい。


宿業体系では、視覚も聴覚も触覚も味覚も嗅覚も、人間の五感の認識作用においてどれも同等であり、視覚が特に他の知覚よりも優れているということはない。たとえば、いきなり触覚を奪われたら、その人間は外界の危険から身を護るすべを知らなくなるだろう。人間の「固有価値」がすべて有機的に働いて、人間に身を護るすべを教えてくれるのである。


感性よりも理性を最重要視する偏見の持ち主は、もしかしたら幼児期にあまり感性に恵まれない境遇にあったのではないだろうか。カントやヘーゲルの幼児期はどうだったのだろう?


ゲーテの『ファウスト』の例を見るまでもなく、あらゆる科学も芸術も、人間の魂を本当に満たしてはくれないことを知っている。
それは一体なぜなのか? 人間の魂が傲慢すぎるのか?
それとも、科学も芸術もしょせんは頭の中で考えられた抽象思考の産物にすぎないからだろうか。
人間は言葉を操りながら、究極的には抽象的な言葉に違和感を抱く存在である。
「言葉はあなたの信念と不信のゆりかごである。」


一つの形而上学的偏見−−「現代人は古代人よりも賢明である」
そんなはずがない。たとえば、古代人の方がはるかに「死」について考え抜いていたのかも知れない。現代人の「死」の観念は稀薄である。つまり、それだけ人間的に稀薄である。あなたにとって、ルクレティウスやエピクロスが考えた以上に、「死」が重要な意味を持っているかどうか問いつめてみるとよい。知識が豊富で高度な技術の恩恵に浴しているからといって、それだけ「死」の観念から遁れられるはずがない。
私はこう見なす−−「死とは知識を超えた実存的な覚悟である」


エピクロスはいう、「人はあらゆることに対して身を護ることができる。ところが死に関しては、われわれはみな城壁の崩れた城砦に住んでいるようなものだ」
宿業体系はいう、「人はあらゆる一般価値に対して身を護ることができる。ところが死という固有価値の滅亡にたいしては全くなすすべがない」


−−死に脅かされているからには、死が何ものでもないことを証明しなければならない。  カミユ 『形而上的反抗』

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