随想録『パラボラ・アンテナ』
★P−03
私は、カントやハイデッガーのように宿業体系を論理的に、用語的に、厳密に精確に説明しようとは思わない。
哲学者は、厳密な用語を駆使して組み立てたら、より精確で本物らしい哲学が出来上がったと思うのかも知れない。
しかし私は、厳密に精確に陳べようとすればするほど、自分の実存の内部で少しずつ嘘をついているような気がするのだ。生命体を、たとえどんなに多くの直線を使ったとしても、直線という輪郭で表現しようとすると、その全体像は結局嘘になる。言葉という直線を、いかに厳密に徹底して表現してみても、結局宿業体系の全体像には到達できないのだ。それが有機的生命体の実存なのである。
論理や言語において、厳密に機械的に当てはめようとすれば、結局、宿業体系は硬直したロボット哲学に堕してしまうだろう。
だから、ヤスパースがハイデッガーの厳密な論理哲学に対して、「極度に洗練された飾りのついた鋼の枠組み」とか、「ハイデッガーの哲学的思索にひそむ花崗岩のような根底」とか、辛辣な批判を行っていることが、私にはよく分かるのである。
緻密な構成を持った精確な哲学が何もすぐれた哲学であるとはかぎらない。
それよりもむしろ、誇大妄想や空理空論に陥らないように、自己の哲学的態度を誠実に保っているかどうかで、評価されるべきだと思っている。
ハイデッガーよりもヤスパースのほうが哲学的に大人である。ハイデッガーは自己の論理に無我夢中になっている子供である。
★
☆
−−科学的認識は同一のものとして世界中に広まっているが、哲学はその著しい妥当性の要求にもかかわらず、実際にはいかなる形においても普遍妥当的にはならないという事実、この単純な事実が見過ごされてはならない。この事実は、哲学の真理の独特の性格を示す外的徴表なのである。科学的真理はたしかに普遍妥当的ではあるが、その方法と前提とに対しては相体的である。
ヤスパース 『哲学とは何か』
★
☆
私はハイデッガーよりも、ヤスパースの哲学にはるかに親近感を覚える。また、サルトルよりも、はるかにカミユの文学に共感を覚える。
辛辣に言うと、ハイデッガーの『存在と時間』は、ロボットの部品を組み立てて強引に人間を形造ろうといているかのようだ。そして、あまり成功しているとは言い難い。
サルトルの『存在と無』は、ぐにゃぐにゃした細胞から生身の人間をひっしに作り出そうとしているかのようだ。そして、なぜかいつも挫折している。
ハイデッガーが異彩を放っているのは、むしろニヒリズムとの対決を主眼とした『ニーチェ』である。サルトルの一番の作品はおそらく『嘔吐』である。
★
☆
キェルケゴールは、確かに神に向かう実存哲学と、人間に向かう実存哲学というヤヌスの二面性を持っていた。この二面性は理解されることを望んでいる。
一方、ニーチェは百面羅漢か千手観音のように多面性の実存哲学を持っている。ニーチェは多彩な顔を持っているから、一面的に評価しようとすると決まって失敗する。むしろ、ニーチェの哲学は理解するより、利用することが必要だと私は考えている。ニーチェのたくさんの手は理解することよりも、使われることを望んでいる。ニーチェ哲学に対しては、「Why?」よりも「How?」が有効である。
★
☆
ニーチェは哲学界のシェークスピアである。彼の独特の表現は、思想性よりも芸術性が勝っているために、いつも過激で誇張された意味に受け取られがちである。しかし、注意深く解読すると、誠実で、含羞するようなニーチェの本心が垣間見えてくる。どんなに激越にニヒリズムや超人思想を説いているときでも、人間そのものを決して突き放しては考えられない宿命を背負った哲学者なのである。
★
☆
シャカの「四十九年、一字不説」を気取るつもりはないが、自分の考えを言葉にすることの虚しさ、そのミソロゴスが、私の中にも確かに在ることを否定できない。
あらゆる人間の言葉はその時代その時代の淀みに浮かぶ泡沫である。
どんな哲学者も宗教家も小説家も、あるいは科学者でさえも、一度ならずミソロゴスの病いに取り憑かれるらしい。
人間以外の動物は、ミソロゴスなどと無縁な存在として一生を終わるのだろうか。
とすれば、かれら動物は人間よりも幸福である。少なくとも、「四十九年間の活動イコール無」などと悩む必要もないのだから。
次ページへ
前ページへ
目次へ