随想録『パラボラ・アンテナ』
★P−02
沖の彼方にあると思われている水平線、しかし実は人間の眼の中に映る仮想の線でしかない。低地から高地にゆくほど水平線はダイナミックなカーヴに変化する。しかし、沖合いのどこかに水平線が実在するわけではない。人間のパースペクティヴがリアルタイムに水平線を網膜に描き出しているだけなのだ。だから、水平線はどこにも実在しない。
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空に浮かぶあの白い雲…しかし、あなたはどんな雲を見つめているのだろうか。雲の輪郭などというものはどこにもない。
雲塊の周辺では水蒸気が結合したり、蒸発したり、離合集散をくり返して、刻々とその姿をめまぐるしく変えている。
だから、カメラのシャッターで捉えた微分的な雲の輪郭はあっても、流動的な人間の視野で捉えられる雲の輪郭はない。
雲に輪郭がないのは雲の責任ではない。あなたのパースペクティヴに責任がある。
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たとえば、2本の細い糸を地上2メートルから落下させたとき、2本の糸が正確に平行に並ぶ確率を求めよ。
答えはゼロである。それほど平行というのは全く不自然な現象なのである。
しかし、数学では平行を全く自然な現象として公理に描き出す。
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朝起きるとき、しばしば不快な眩暈に襲われる。
そして、眩暈に襲われている自分を、とても傍観者的に客観的に認識することなど私には出来ない。「我れ眩暈する、ゆえに我れ無し?」
デカルトは、生涯一度も眩暈に襲われたことはなかったのだろうか。
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人間世界に有限さの意味を取り戻すこと。人間精神に不完全さの重要性を見つめ直すこと。
私の宿業体系は、「歴史的に、個人の有限な主体性を抹殺しようとした犯人は誰なのか?」ということをひたすら問い続けた推理小説の答えである。そのためには、プラトンのイデア、デカルトのコギト、カントの純粋理性、ヘーゲルの絶対精神、マルクスの唯物史観という疑わしい標的と真剣に格闘し、それらを次々と犯人に仕立てることも厭わなかった。
しかし、今私の宿業体系は消耗し、疲れ切っている。心を癒すものがほしい。心を癒し、柔らかい心を取り戻したい。
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ジョナサン・スウィフトの恐怖心。
彼は戸外に見える冬枯れの木を見て、「自分もいずれあの木のように枝先から枯れてゆくのだろうか」とつぶやいたという。
枝先、つまり頭の方から枯れてゆく自己。理性がしだいに衰えて、否応なく痴呆に向かってゆく自己像。
それが、スウィフトの恐怖心であり、後の彼の運命そのものであった。
しかし、現代文明も、実は理性がとめどなく廃れて、スウィフトが戦慄したように、全体的な痴呆に向かって否応なく突き進んでいるのではないだろうか。現代文明という爛熟した果てに老衰してゆくだけの理性。
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無限の知識よりも有限の知恵を。完全な理論よりも確実な法則を。盲目の安心よりも明晰な不安を。人間の意識は生涯休むことを知らない。
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私は、独裁者のように声高に叫ぶようなことはしない。
いくら声高に叫んでも、無限の彼方まで届かないことを知っているから。
いくら声高に叫んでも、何一つ答えが返ってこないことを知っているから。
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「思慮分別の第一歩は…」ひんぱんにこんなことを言っていると、「お前はニーチェのクローンか?」と指摘されそうだ。
私は、クローン人間もクローン哲学も忌避する。
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形のない、音だけの夢の世界があるという。生まれつき目が不自由な人は、夢の中でも物の形を見ることができない。だから、人や動物が登場する夢を見ても、その姿は見えず、話し声や鳴き声だけの夢を見るという。いや、夢を聞くのだろう。「固有価値」の不思議さ。
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私は、20代半ばから左の耳が慢性中耳炎に冒されているため、音には非常に弱い。
はっきり言って、左耳はいつも不快な波長がうなりを発している。
片耳だけで、この世のすばらしい音響を聞き分けるのは不可能だ。
だから、私は音楽コンサートにはほとんど全く出かけたことがないし、テレビなどの音楽番組も好んで聞きたいとは思わない。
私の聴覚は、おそらく健常な聴覚の持ち主とは違った音響世界を味わっているのだろう。だが、どうあがいても、私には健常な聴覚など望むすべがない。
私には本物の音が何であるのか判らない。
とすれば、私はわたしなりの音響世界を甘受するほかはないのである。
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