随想録『パラボラ・アンテナ』


★P−01

人間は生来偏見の持ち主である。だから、人間は自分の偏見に近い精神の持ち主を歴史上に求めようとする。そして、大抵は一人や二人の近親者を見つけだすことが出来る。自分がこの地球上で完全な異邦人でないことを確認し、自らの孤独を癒すのである。
私は身近に同胞を求めない。同胞の上辺だけの理解に甘んじない。たとえ時間と空間を遙かに隔てても、本当に理解できる精神に巡り会いたいのである。
私にとって、生きるとは、この広大な宇宙で自分と同じ精神の持ち主を辛抱強く探し出すことに等しい。
そのことによって初めて、私は私の人生が無意味であるのかどうかを立証できると思い込んでいる。
地球の片隅の極東の地に、名もない実存哲学者が、「宿業体系」や「楕円の知恵」を唱えていたことを、地球の微細な記憶として刻みつけることができればそれで満足である。
実存主義者サルトルの精神はきっと、私の宿業体系に近い精神であるのかも知れないが、しかしサルトルの「無益な受難」である人生は、やはり私にとって拒絶感を生み出す。
私はやはりカミユと同様に、人生には何よりも意味が必要だと思っている。
神のいない世界で、ニヒリズムの業病に苦しみ、真剣に人生の意味を問い続けた哲学者はニーチェのみであり、小説家はカミユのみである。


「全体」という概念に、私はいつも懐疑と幻滅を覚えてしまう。
たとえば、「日本人全体について」語ろうとする者は、自分が日本人について何一つ語っていないことにまるで気づいていないのだ。日本人全体などどこにも存在しないし、それを見ることも触ることもできないからだ。全体認識は、実体のない言葉の誤魔化しなのである。それでいて、本人は何かまともなことを語っているかのように錯覚しているだけによけいに始末が悪い。全体を無批判に語る者は、全体認識が不可能であることを知ることによって大嘘つきとみなされる。全体に対して何の責任も果たせないのなら、その者にとって全体は虚妄である。
そろそろ現代人は全体認識という神話から脱却して、自分の有限な現実を直視する勇気を持つべきではないだろうか。人間全体も、地球全体も、宇宙全体も、言葉の誘惑が語らせるだけで、実は何も意味してはいないということに、そろそろ気づくべきだ。
「全体主義」を唱えたがる者よ、あなたは自分の頭髪すら一度も全体で何本あるのか数えてみたことはないだろう。それでいて、頭髪全体といえば、それで髪の毛がすべて分かったつもりでいるのだ。しかし、生え代わった髪の毛一本すら気づいていない。


すでに文明の黎明期から、平面思考は開始されている。地面に図形を描くことから幾何学が生まれた。しかしそれは理想化された均質な地面だった。人間の目には決して均質な地面は見えないにもかかわらず、抽象化された図形はどこまで延長しても均質であるかのように思い込むようになったのである。それは一つの「偏見」の極致である。
ユークリッド幾何学は、曲面を知っていたにもかかわらず、最初から曲面を無視している。そのほうが論証に好都合だったからである。単純化したほうが、何はともあれ精神的最少の労力で論証できる。ユークリッドはその単純化をひいきしたのである。
ユークリッドの横着精神が倒錯した理想世界を論証し、現実に取って替わろうとする。
たとえば、幾何学図形を地面にではなく、自分の掌に描くことから開始したとしたら、ユークリッド幾何学はもっと違ったものになっていただろう。掌を動かすことによって、平行線や三角形を定義することはほとんど不可能だと気付いただろう。しかし、掌には紛れもなく何らかの図形が描かれている。
単純化された理想的で完全な図形は頭の中にしかない。複雑で可変的で不完全な図形は掌にある。人間が現実に捉えることができるのは、不完全な図形である。それもこれも、人間の目が球形であり、直接現実を捉えるのは凸レンズである水晶体だからである。人間の視力は、理想的で完全な図形をどうやっても見ることが出来ない。より完全に近いかどうかは精度の問題にすぎないのである。
単純化された平面思考が、人間の視力から現実の複雑さを覆い隠し、精神的な安心感をもたらす。しかし、その安心感は現実の隠蔽であり、絶対普遍の保証ではない。
騙されることで得られる安心感は、煩雑な現実を否認するようになる。それが、プラトンのイデア論であり、ニュートンの絶対空間である。
曲面思考は、自分の掌に図形を描くことから始まる。その方が現実の認識に好都合だからである。私はそうすることで図形を所有する。頭の中に所有した図形よりも、掌で所有した図形を本物と見なす。私は、不完全で可変的な掌の図形をひいきする。目の前に近づけるとぼやけて見えなくなり、遠ざけると見やすくなる。しかし、腕の長さが有限であるかぎり遠ざけすぎるということはない。形や大きさを自分で柔軟に調整できる。
しかし、現実世界の知覚においても、同様な調整を自分なりに日々行っているのではないだろうか。人間はつねに定規とコンパスを使って現実世界の知覚を行っているのではないからである。

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