『崇高なる悪行』
【第2章 さまざまな迫害と殉教】
525年、東ゴート族のテオドリクス王に仕えた執政官ボエティウス(470-525)は、熱心なキリスト者だったが、東ローマ帝国と通じた反逆の嫌疑で投獄され、拷問によって死んだ。獄中で記した『哲学の慰め』は中世スコラ哲学に大きな影響を与えた。
1184年、教皇ルキウス三世は、ヴェロナの宗教会議でワルドー派を異端として破門した。ピエール・ワルドー(1140?-1217)は、フランス・リヨンの富裕な商人だったが、友人の急死をきっかけに回心し、財産を貧民に施し、改悛と清貧を説いた。聖書を拠り所として、プロヴァンス語に翻訳し、一般民衆に教えを広めた。
1328年、ドイツの思想家でドミニコ派のマイスター・エックハルト(1260?-1327)は、その汎神論的神秘思想のために、その教説28箇条が、異端の宣告を受けた。しかし、その思想はやがてルターの宗教改革に受け継がれてゆくことになる。
1414年、ボヘミア生まれの宗教改革者ヤン・フス(1371?-1415)は、スイスのコンスタンツの宗教会議に喚問、異端者として逮捕され、翌年火刑に処せられた。
これに怒ったチェコのフス信者は、市民や農民を集め、フス戦争を展開して行く。
1415年、コンスタンツの宗教会議は、イギリスの神学者ジョン・ウィクリフ(1320?-1384)を異端と断罪した。ウィクリフは1384年にすでに中風の発作で死去していたが、1428年その遺体が暴かれて、スウィフト川に投げ込まれた。
1498年5月23日、ドミニコ派の修道士でフィレンツェの指導者であるジェローラモ・サヴォナローラ(1452-1498)は、教会の権威に反抗した罪で教皇アレクサンデル六世に破門され、絞首刑のあと、その遺体は火あぶりにされた(これは生きたまま火あぶりにされるより丁重な処刑方法だった)。
1517年10月31日、ドイツの「農民の子・鉱夫の子」マルティン・ルター(1483-1546)は、教皇レオ十世が発行した免罪符に反抗して、「95箇条のテーゼ」をヴィッテンベルク城教会の門扉に掲げた。キリスト教世界を揺さぶる宗教改革の烽火である。
1523年、スイスの宗教改革者ツウィングリ(1484-1531)は、教皇の権威に逆らってチューリッヒ市会に「67箇条のテーゼ」を突きつけて論争に勝ちをおさめ、プロテスタントの都市を誕生させた。しかし、急進派のカトリック五州と闘って戦死した。
1525年、ドイツの宗教改革者にしてチューリンゲン農民団の首謀者トーマス・ミュンツアー(1489?-1525)は、フランケンハウゼンで捕らえられ、斬首された。カソリック教会に妥協的なルター派に対して、原始キリスト教の聖霊直接啓示と再洗礼を主張した。
1541年、福音主義を提唱して教会改革を行ったため追放されていたカルヴァン(1509-1564)は、再びジュネーヴに帰ってきた。勃興しつつある市民階級に迎えられ、カルヴィニズムによる神政体制を実現して、ヨーロッパでのプロテスタント運動の拠点とした。
1546年、スコットランドの宗教改革者ゲオルグ・ウィッシャート(1513?-1546)は、エドワード六世の結婚を周旋したが、その後ルター派のプロテスタント改革を主張したため、火刑に処せられた。その弟子ジョン・ノックス(1505-1572)が旧教に対する新教の闘いを受け継いだ。
1553年、スペインの神学者ミゲル・セルヴェトゥス(1511-1553)は、三位一体説を否定して宗教裁判にかけられ、逃亡中にカルヴァン派に発見されて、ジュネーブ郊外で異端者として焚殺された。
1600年、イタリアの自然哲学者にしてドミニコ派のジョルダーノ・ブルーノ(1548-1600)は、世界の無限性とコペルニクスの地動説を信じた罪により捕らわれ、ローマで異端者として火あぶりにされた。
1616年、イタリアの天文学者ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)は、宗教裁判にかけられ、地動説の撤回を強制された。さらに1632年、68歳のときローマの異端審問所に召喚され、異端判決により幽閉された。
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