グータラな日々

 障害児・者やその家族について語られるとき、それはいつも美談だった。たゆまぬ努力によって障害を「克服した」障害者。それを支える家族。障害児を持った母親は、まるで自分の人生はほっぽり出したかのように、こどものリハビリや療育に取り組んでいた。そんなドキュメンタリー番組を見ていたおかげで、障害者はすべて「心のきれいな努力家」で、障害者の母親はすべて「自己を犠牲にしてこどもに尽くす人」だというイメージがわたしの中にできあがった。どちらも、わたしとは違う世界の人に思えた。

 どうやら自分のこどもが障害児らしい、ということになったときには、さすがに「こりゃタイヘンだ」と思った。こどものためになることならなんでもしてあげよう、と思った。まずは障害について知ろうと「自閉症」や「ことばの発達」に関する本を片っ端から集めた。本棚が2段くらい、自閉症関連の書籍で埋まった。「音楽療法」というのが効果があるらしい、というので、音楽療法関連の本も集めた。専門書になるので、わりとお金がかかった。こちらも本棚1段分くらい集まった。ソニーの「トーキングカード」が役に立つらしい、というので大枚はたいて買い込んだ。公文式のひらがなカードも揃えた。自分で絵カードを作ってみようと、ポスターカラーも買った。療育グッズに囲まれ、わたしはとても満足した。
 気がつくと、わたしがやったのはそこまでだった。本棚2段分の自閉症の本の中で実際に読んだのは、手軽に読めそうだった新書2冊。音楽療法は1冊。トーキングカードはこどもが勝手にひっぱりだしてときどきやっている。絵カードは10枚くらい作って、飽きた。ポスターカラーは、誕生日カードなどを作るときにときどき使っている。便利だ。公文のひらがなカードは、1週間くらいわりと熱心に使った。これが最長記録かもしれない。
 思い返せばわたしは中学生の頃から、テスト前には色鉛筆やマーカーを駆使してきれいなノートを作り上げ、それで満足してしまうこどもだった。「ノートがいくらきれいでも、覚えなきゃなんにもならないんだぞ」と、いつも父親に怒られていた。こどもの頃の正確というのは、おとなになっても変わらないなあなどとヘンな感心をしている。
 これだけの投資をして、やっと気がついたのだった。障害児を持ったからといって、「自己を犠牲にしてこどもに尽くす人」になれるわけじゃない、ということに。そしてわたしは開き直った。健常児のおかあさんにも教育熱心な人と放任主義の人がいるんだから、障害児を持ってもなお「グータラ」なハハがいたって、いいじゃん。

 いまだにマスメディアは、美談だけを取り上げることが多い。そこに出てくる障害者は常に前向きで、家族の絆は強い。そういう情報を仕入れた人は「障害児を育てるなんて大変ねえ」「将来のことを考えたら、さぞや心配でしょうねえ」「きっとおかあさんは、障害児を産んでしまったという責任の重さに耐えながら生きているのね」と、かつてのわたしのように思っていることだろう。そういう人たちの前で、エヘラエヘラと呑気に生きていくってのも悪くないよね、と最近わたしは思っている。「障害児を育てているからって、あたしたちエラくもなんともないよー、だから普通におつきあいしてね」。これって、ノーマライゼーションの第一歩でしょ、なぁんてリクツと膏薬はどこにでもつくのだ。
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