家 元 天 然 忌
平成4年9月13日
於 表千家家元
| 七代如心斎は、斎号の如心斎を紀州候より受けられ、また天然の号を大徳寺の参禅の師大龍和尚より受けられました。 父覚々斎の頃から町人文化が栄え、それまでの大名や武家相手のお茶だけでなく町人相手のお茶についても考えなければならない変換期にありました。このような時代的背景の中にあって如心斎は覚々斎から二十六歳で家を継ぎ、四十七歳という若さで亡くなりましたが、家元として約二十年間という生涯の中で、利休から伝わる伝来道具の整理や江戸冬木家にあった利休の遺偈を家元に取り戻されたり、また弟の一燈宗室や川上不白などと相談をして七事式を制定されるなど、利休のわび茶の伝統を失うことなく新しく考案されたお茶とうまく融合調和させて、現在の千家流の基礎を築かれ、中興の祖と呼ぶにふさわしい功績を残されました。この天然忌はこうした如心斎の遺徳を偲ぶ行事です。 毎年如心斎の功績に因み、七事式より且座、花寄せ、「数茶と一二三」のうち一方を隔年毎行います。(同門平成14年11月号より) 私が参加しました平成4年9月13日家元天然忌 残月亭・・・残月床の「天然円相」の前に「お茶とう」がお家元而妙斎宗匠、左海宗匠、久田宗 匠おそろいで行われました。 この後「花寄せ」が堀内宗匠、生形宗匠の指導で行われました。 仏間・・・・・聚光院はじめ大徳寺の和尚様によって読経があげられました。 九畳の間・・「且座」が而妙斎宗匠の御指導で三八稽古の人により行われました。 新席・・・・・・「数茶」が清水宗匠、薗部宗匠の指導で行われました。 数茶は参加者のなかから8名が選ばれ私は札元を致しました。お二人の宗匠、 大勢の方が見守る中とても緊張感がありましたが、茶道雑誌1992年11月号 (平成4年)のグラビア写真にも載せて頂きとてもよい体験でした。
これらの行事の合間には、松風桜と新席に薄茶席がもうけられました。 残月亭 掛物 如心斎筆 天然円相 「坊守りへ」トアリ 前に天目茶碗ニテ奠茶 花入 三田青磁(さんだせいじ) 算木(さんぎ) 栃の木薄板敷キテ 花 白芙蓉 九畳敷 掛物 如心斎筆 俸喝(横物) 花入 床柱ニ 唐銅経筒 釜 累座富士 浄雪作 風炉 唐銅鳳凰 浄長作 香合 伝来アマカワ写 一閑作 炭斗 蓮組 羽箒 鶴 火箸 鉄巣打 鐶 石目 釜敷 藤組 如心斎好捻梅透し桑腰風炉先屏風 竹台子一ツ飾 水指 弘入作 蘆瀑写 シャムノ土ヲ以テ 茶入 瀬戸肩衝 袋 つぼつぼ裂 薄茶器 如心斎好つぼつぼ棗 惺斎判 茶碗 伊羅保 刷毛目 替 弘入作 綾織写 出帛紗 大灯金襴 茶杓 如心斎山姥写 碌々斎判 建水 高取焼 蓋置 黄交趾 夜学 得全作 仏 間 掛物 宗完筆 観音像 花入 如心斎所持写 カネ置 松ノ木薄板敷キテ 花 槿 七畳敷 床 中釘ニ 惺斎好拂子 松風桜(薄茶席) 掛物 大竜和尚筆 天然(大横物) 花入 覚々斎好 手付置籠 花 槿 水引 女郎花 琵琶台ニ 竹丸香合 カマキリ蒔絵 紙釜敷敷キテ 釜 惺斎好 刷毛目切合セ 浄長作 風炉 惺斎好 つぼつぼ透し琉球 即中斎好日月風炉先屏風 水指 南蛮平 銘晩鐘 吸江斎箱 茶器 如心斎好 あこた 替 溜一閑 一葉桐雪吹 茶碗 弘入作 黒 待宵写 替 祥瑞写 妙全作 茶杓 珠徳形象牙 碌々斎彫判 惺斎筒 建水 カネエフコ 浄益作 蓋置 弘入作 黄ツクネ 即中斎好溜一閑朱網絵食籠 菓子 うずら餅 虎屋製 新席寄付八畳 掛物 如心斎筆 花月 前ニ箱書付並べ 新 席 掛物 大竜和尚筆 仏祖正脉(大竜和尚が天然宗左居士に授けられた) 花入 即中斎好 南紀檜籠 花 槿 金水引 琵琶台ニ惺斎好蔦ノ木硯箱 料紙敷キテ 釜 真形切合セ 風炉 唐銅朝鮮 清右衛門作 而妙斎好日月腰風炉先屏風 即中斎好一閑爪紅小四方棚 水指 即中斎好浅黄交趾小末広 永楽造 茶器 即中斎好一閑つぼつぼ大棗 茶碗 弘入作 赤 若山写 替 弘入作 織部写 茶杓 碌々斎作 即中斎追銘 喝 建水 黄瀬戸 棒ノ先 蓋置 犬山焼 赤絵 チキリ 鎌倉彫菊形食籠 菓子 うずら餅 虎屋製 茶 而妙斎好 珠の白 柳桜園詰 利休忌は東京出張場へ同じ時期に伺いました。とても大勢の方々の参加であった記憶があります。 |