第2話「優しき泥棒(後編)」
あゆ「こんにちは〜」
侵入者騒動にもめげず、相沢探偵事務所が1日の営業を終了しようとしていたとき、『昼』の服を着て夕焼けに赤く照らされたあゆがやってきた。
秋子「あら、あゆちゃん。こんにちは」
秋子は『本日は終了しました』と書かれた小さな看板を入り口のドアノブへ掛ける。
いつもと同じ秋子の行動を見て、朝に一騒動あったと思う者はいないだろう。
あゆ「祐一君、いますか?」
秋子「祐一さんは今風邪をひいてるの。ずっと寝てるけど、お見舞いしていく?」
あゆ「え、風邪? うん、ボクお見舞いするよっ」
既に祐一が風邪をひいていることを知っているはずのあゆは、今初めて知ったように答えている。
表情豊かなあゆにしては自然に受け答えをしていて、深夜に忍び込んだことを本当に忘れてしまっているようだ。
名雪「あ、あゆちゃん」
丁度書類整理を終えた名雪が、あゆに近づいてくる。
あゆ「こんにちは、名雪さん」
名雪「うん、こんにちは」
あゆは名雪に手を引かれて事務所の奥へ入っていく。
穴が開いていたはずの窓には、既に新しいガラスがはめられていた。
秋子「名雪、書類の整理は終わったの?」
名雪「終わったよ、お母さん」
秋子「仕事中はお母さんじゃないでしょ」
名雪「あ。…終わりました、秋子さん」
名雪はかなり言いづらそうに喋る。
もう半年以上、同じ注意が頻繁に行われているが、未だに名雪は慣れていない。
あゆ「うぐ、すごい違和感を感じるよ」
秋子「言葉を堅くする必要はないんですけどね。じゃあ名雪は上がっていいわよ」
名雪「今日は祐一の看病で泊まりだよ〜」
秋子「あらあら、そうだったわね」
上がっていいという言葉だけで、名雪はいつもの喋り方に戻っていた。
もしかすると、一瞬で注意されたことを忘れてしまったのかもしれない。
あゆ「そんなに祐一君ひどいの?」
あゆは本当に心配そうに聞く。
名雪「祐一がひどいのは、いつものことだよ」
あゆ「そうじゃなくて、風邪のことだよっ」
少し頬を膨らませて怒っている。
秋子「祐一さんなら、きっと大丈夫ですよ」
あゆ「本当に?」
秋子「先生は少し長引くかもしれないと言っていましたが、安静にしていれば大丈夫だそうです」
あゆ「よかった。じゃあ、ちょっと祐一君の部屋に行ってくるよ」
あゆは表情をゆるませて部屋へ向かった。
秋子「名雪、泊まるなら着替えを取りに行きなさいね」
名雪「うん、少し休んだら行ってくるよ」
部屋のドアが開くと部屋に廊下の光が入り、暗い部屋を照らす。
あゆはその部屋に入って、初めて外がすっかり暗くなっていることに気付いた。
あゆ「祐一くん?」
ドアを閉めて部屋の主の名前を呼ぶ。
祐一「……」
だいぶ良くなったのか、祐一は静かに眠っていた。
少しずつ暗闇に目が慣れてきたあゆは、祐一の額に掛かっている暖かいタオルを取り額に手を当てる。
ぴと。
見た目は良くなっているが、熱はまだある。
この分だと明日も目を覚まさないかもしれない。
音をならべく立てないようにして、タオルを水に浸け絞る。
あゆ「…穴開けてごめんなさい」
あゆはタオルを祐一の額へ戻しながら、小さな声でささやいた。
秋子「あらあゆちゃん、もういいの?」
秋子はあゆが意外に早く戻ってきたので、そう訊いた。
あゆ「うん、ゆっくり休んでもらいたいから」
秋子「そう。今日は?」
あゆ「もう帰るよ。学校の宿題があるから…」
あゆは現在高校3年である。
名雪と同じ年齢だが不幸な事故で長期入院し、やむを得ず1年間休学していたのだ。
名雪「じゃあ一緒に帰ろうよ。わたし着替え取りに行かないといけないから」
あゆ「うん、よかったよ」
名雪「え、何が?」
あゆ「外、もう真っ暗だよ」
名雪「あ、そうだね〜」
名雪だけではなく、秋子も苦笑していた。
あゆが恐がりであることは有名だからだ。
あゆ「うぐぅ、秋子さんまで笑ってる…」
秋子「ごめんなさい。今日は忙しかったから、気が緩んじゃったの」
あゆ「そうなんだ。お疲れさま」
ぺこりと、お辞儀する。
名雪「えっと、すぐに出ちゃう?」
あゆ「名雪さんが良ければ」
名雪「じゃあ行こ」
あゆ「うん。秋子さん、さようなら」
秋子「またね、あゆちゃん」
名雪「もうすっかり寒くなっちゃったね」
あゆ「うん。そろそろダッフルコートの時期だよ」
冷たい風の中を、あゆと名雪は並んで歩いている。
名雪「でもあゆちゃん、その制服にあのダッフルコートは似合わないからね」
名雪はそう言いながら、去年まで自分も着ていたあゆの制服を見る。
あゆ「あはは、そうだね」
夜道を仲良く歩く、あゆと名雪。
あと数週間で、季節は冬を迎える。
名雪「うーん、わたしも長いコート出そうかな」
見下ろした名雪のコートは茶色い。
足が膝まで見える短いものだった。
あゆ「風邪をひく前に出した方がいいと思うよ」
名雪「祐一みたいになっちゃうからね」
あゆ「あはは…」
やはり仲良く苦笑するふたり。
端から見れば姉妹に見えるかもしれない。
名雪「はぁ…」
笑いが収まると、名雪はあくびを噛み殺した。
あゆ「名雪さん、眠いの?」
名雪「うん。今日、仕事中に眠れなかったから」
あゆ「仕事中に寝ちゃダメだよ…」
名雪は毎日、所長代理黙認の上で3時間ほど船を漕ぐ。
午前中から漕ぎ出すと、祐一の陰謀で昼を抜かされることがあり、午前中は寝ないという決まりを心の中で作っていた。
最初は睡魔に負けることもあったが、最近は決まりを守っている。
それが良い訓練になったのか、今日は一度も意識を失うことなく仕事に取り組むことができた。
名雪「ねむい…」
あゆ「名雪さん、ファイトだよっ」
名雪「くー」
あゆ「うぐぅ、歩きながら寝てる…」
器用に寝ている名雪に戸惑うあゆ。
ニャ〜
そこに1匹の猫が、塀から飛び降りてきた。
名雪「ねこ〜、ねこ〜」
あゆ「うぐっ、名雪さんダメ〜!」
………
あゆ「送ってくれてありがとう」
すったもんだの末、ようやくあゆが暮らしている叔父の家に着いた。
名雪「お安いご用だよ」
あゆ「途中、寝てたけどね」
名雪「うー」
あゆ「猫も出てきたけどね」
名雪「うー、うー」
あゆも『名雪だから仕方がない』と思っているのだが、さすがに嫌みくらいは言いたくなったのだろう。
名雪「ごめんなさい」
あゆ「ううん、ちょっと意地悪だったね」
名雪「そんなこと無いよ。わたしが悪いんだから」
あゆ「でも面白かったよ」
名雪「うー」
名雪は複雑な心境になり、唸りながらも苦笑する。
あゆも釣られて微笑んだ。
あゆ「じゃあまたね」
名雪「うん、ばいばい」
あゆ「ばいばい」
あゆが家へ入ると、名雪は踵を返す。
名雪「早く着替え取りに行って戻らないと」
今頃事務所では秋子が夕食を作っている。
冷ましてはいけないと早歩きになった。
名雪「ねこさん、また会えるかな?」
名雪「ただいま〜」
眠気を誘う声と共に、事務所の勝手口が開く。
結局、名雪は猫さんに会えなかった。
取ってきた着替えを持ったまま、がっくりとうなだれている。
秋子「お帰りなさい。何かあったの?」
名雪「ううん、何でもないよ」
気持ちを切り替えるように、急に頭を上げた。
勢いがありすぎて、長い髪が音を立てる。
秋子「そう? ところで名雪、何か忘れてない?」
名雪「え?」
名雪は一瞬、何を言われたのか分からなかったが、秋子が指をさしている物を見て思い出した。
名雪「あーっ、イチゴジャム〜!」
事務所に置いてあった秋子手製イチゴジャムの瓶は空だった。
今度、家から持ってきて補充しようと、昼食のときに話していたばかりなのだ。
秋子「わたしも、さっき思い出したばっかりなんだけど…」
名雪「うー、明日のイチゴジャム〜」
名雪はイチゴジャムが切れると、普段の100分の1まで処理能力が落ちる(本人談)。
秋子「朝になったら一度帰りましょう」
秋子も事務所に泊まるつもりだったので、誰かがイチゴジャムのためだけに帰らなければならない。
名雪「いいよ、もう一度行ってくる。あ、手紙来てたから持ってきたよ」
荷物と一緒に封筒を置き、再び外に出ていった。
秋子「あらあら」
名雪「やっぱりロングコート出そう…」
今着ている茶色いコートを見下ろしながら、今日4度目の道を歩く。
しばらく無言で歩いていると、1つ手前の十字路を誰かが横切る。
名雪「あゆちゃん? うーん、そんなわけないよね」
さっき帰った恐がりの友達が、こんなところにいるはずがないので、見間違えと思い先を急ぐ。
名雪「うー。ねこさーん、どこー?」
………
名雪「………うにゅ?」
ふと名雪は目を覚ました。
いつの間にか眠っていたらしい。
名雪「電柱?」
そこは見慣れた道路だった。
こんな平和な街でなければ、今頃大変なことになっていただろう。
手にはジャムの瓶。
目的を達成した安堵感からか、事務所へ戻る途中に眠ってしまったらしい。
念のため、街灯に照らしてオレンジ色ではないことを確認する。
瓶を持った手に当たる風は冷たい。
名雪「ロングコート着てきて良かったよ〜」
先ほどとは違い、名雪は白いロングコートを着ていた。
瓶から目を離したとき腕時計が目に入る。
名雪「わっ、もうこんな時間だよ〜」
事務所に戻ってこられると思っていた時間を、大幅に過ぎていた。
名雪「走るよ〜」
遅れた時間を少しでも取り戻すべく、名雪は走り出そうとする。
声「お〜い」
名雪「え?」
足に力を入れようとしたところで、誰かが呼びかけの声を掛けてきた。
首だけ動かして、声が聞こえた後方を見る。
シュンッ
名雪「わっ」
突然、目の前を黒い影が駆け抜けていった。
声「泥棒だ、捕まえてくれ〜」
まだ後ろから聞こえる声。
どうやら今の影が泥棒らしい。
もう一度後ろを見ると、追いかけてくる人物は、顔がなんとか認識できる距離まで迫っていた。
北川「あ、水瀬か?」
名雪「北川君?」
北川「水瀬、奴を捕まえてくれ。取り戻さないと香里に殺されるんだ!!」
北川は何かに怯えるように、涙目で訴えている。
名雪「よく分からないけど分かったよ」
名雪は北川が言った後半の言葉の意味が分からなかったが、まだなんとか見えている影を追って走り始める。
情けないことに、北川はぐんぐんと離されていく。
北川「陸上部部長の名は伊達じゃないんだな…」
名雪「うー、走りづらいよ〜」
北川よりも速く走っているが、手に持っているジャムの瓶が邪魔で、腕を振り切れない。
ロングコートを着ているのも大きなハンデだ。
名雪「そうだ。これを泥棒さんにぶつければ……って、イチゴジャム投げちゃダメだよ〜」
後ろを振り返るが、既に誰もいない。
北川に預けることもできなかった。
あゆ「(うぐ、なんで名雪さんがいるの?)」
名雪が追いかけている泥棒、あゆも手に持つ物があった。
それは極めて低い確率で一世を風靡できるかもしれない美坂栞画伯の絵画。
あゆは予想もしなかったランナーの登場で、必死になって逃げている。
しかしその差は少しずつ縮まっていた。
あゆ「(名雪さん、しつこいよ〜)」
そう心の中で叫びながら、少し大きめの通りを横切る。
ひっそりとしたところを選んで通っているため、邪魔するものは少ない。
あゆ「え?」
そこでなぜか疑問の声。
その時あゆの目は、明るい2つの光を見ていた。
名雪は突然泥棒が立ち止まるのを見た。
名雪「いける!」
スパートをかけ、一気に接近する。
ピカッ
突然名雪の視界が光に包まれ、泥棒の影を見失う。
名雪「え、何?」
泥棒どころか、足下も見えなくなってしまったので立ち止まると、光から異常な迫力を感じた。
まさかと思い光源を見ると、名雪の顔は驚愕とも絶望とも付かない表情に変わる。
それは既に目前まで迫っていた。
キィィィィィッ ガタン!
何かが何かへぶつかる音。
光を放っていたトラックが、名雪のいた場所をかなりオーバーランして停車する。
路面には黒いタイヤの跡がついていた。
名雪「はぁ、はぁ、はぁ……」
そのタイヤの跡の1メートル横に、息を切らせ仰向けに倒れている名雪。
白いコートには赤い液体がべったりと付いていて、下半身に黒いものが覆い被さっている。
名雪「んっ」
倒れたときに負った背中の痛みをこらえながら、手を地面に付き上半身を起こす。
足へ目をやると、全身に黒い色の服やマスクを着けている人間が倒れている。
それはずっと追いかけていた泥棒だった。
状態からして、この泥棒が名雪を助けたことは一目瞭然である。
名雪「あっ」
ようやくコートに赤い染みができていることに気付き驚く。
名雪は慌てて命の恩人を抱き起こそうとするが、腰が抜けていたため恩人の上に倒れてしまう。
仕方なく恩人の肩に手を掛けて、軽く揺する。
名雪「ね、ねえ」
2〜3回揺すったところで、黒い恩人の体が強張った。
そしてすぐに起き上がり、近くに落ちていた盗品を持つと走り出す。
名雪「あ、待って!」
その突然の挙動に名雪は着いていけず、声が出たのは泥棒が闇に消えてしまった後だった。
ブロロロロ……
トラックの運転手も、自分がひいたと思っていた人間が走り去っていくのを見て、これ幸いとばかりに逃げ出す。
結局その場には名雪だけが残された。
名雪「泥棒さんにお礼言い損ねちゃったよ」
そう呑気に言った名雪は、腰に力を入れて立ち上がる。
名雪「はぁ。えっと、これ何だろう?」
ふらつきながらコートに着いた赤い物に目をやる。
泥棒は少しの間失神していたようだが、事故の前と変わりないくらいの勢いで走っていたのを見ると、これだけ血をまき散らすような怪我はしていないだろう。
名雪はコートを凝視する。
明るければ何か分かるのかもしれないが、色の付いた街灯の下では辛うじて赤いことが分かるだけだ。
くんくん………ぺろっ
コートを引っ張って匂いを嗅ぎ、そして無謀にも赤い液体を指につけて舐めた。
名雪「……う〜〜〜っ」
名雪「ただいま…」
待ちくたびれた秋子の耳に、力のない声が聞こえてきた。
秋子「お帰りなさい……どうしたの? そのコート」
秋子は見覚えのない赤い斑点のあるコートを見て首を傾げる。
血…にしては色が薄い。
名雪「えっと…」
秋子が名雪に近づくと、そこはかとなく甘い匂いが漂ってくる。
秋子「もしかするとそれ…」
名雪「イチゴジャム〜っ」
涙目で、うなるように発音する。
ジャムの瓶がプラスチック製であったため、容器が割れず蓋が吹き飛び内容物がコートへ掛かったのだ。
秋子「あらあら」
秋子は空になっているジャムの瓶を受け取ると、名雪を事務所の中へ導いた。
秋子「そう。じゃあ誰も大きな怪我はなかったのね」
名雪「うーん、多分」
今までのことを話した名雪は、冷め始めたコーヒーカップを口に付ける。
秋子「それで名雪はどうしたいの?」
名雪「え?」
思いもしなかった問いに、名雪は首を傾げる。
秋子「警察には連絡しなかったんでしょう」
トラックにひかれそうになったことだけではない。
後から追いかけてきた北川を説得して、盗難事件のことについても連絡していなかった。
名雪「えっと…」
秋子「名雪が思っていることを、そのまま言葉にすればいいのよ」
秋子はそう言って、名雪の言葉を待つ。
名雪「…きっと優しい人だと思うから…」
一度言葉を止め、俯き加減だった顔を上げる。
秋子「だから?」
名雪「わたしが探し出して、助けてくれてありがとうって…」
優しく微笑む秋子。そして…
秋子「じゃあ、がんばってね」
名雪「え?」
そのの言葉に、きょとんとする名雪。
名雪「手伝ってくれないの?」
心成しか寂しそうな目をして訊く。
秋子「名雪、ここは探偵事務所だから契約料を払わないとダメなのよ」
名雪「そんな〜。朝は一緒にって言ってたのに」
秋子「それは事務所の窓に穴が開いたときの話よ」
名雪「う〜〜〜」
名雪は社会の冷たい風を初めて実感した。
to be continued...
<あとがき>
待望(?)の第2話です。
イチゴジャムもったいないデスネ〜。
今回は昼あゆと北川が出てきました。
昼あゆは原作を尊重して(?)、少し眠り姫かましていた時代があります。
しかし短期間なので、祐一より一つ下の学年で済んでいるらしい。
制服は想像して下さい。(汗
北川はちょこっとしか出てきませんが、職業不明。
謎の男です。(お
次回は……水瀬家の食卓編?
2001/11/22
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