混 沌 (前編) 愛
ぐったりと息をつきながら枕に埋められた顔をつくづくと眺める。
涙と汗で濡れているその頬に、一瞬安らぎが通り抜けたような気がした。
「ヴィン・・・・・・・・」
ヴィンセントの疲れきった顔に眼をやったシドの心に、また鋭い痛みが走った。
こいつを、俺は、守ってない。・・・・・・・守ってやる資格なんかない。
「う・・・・・・・・」
僅かに身じろぎしたヴィンセントに、何気なく声をかけた。
「どうだ?気分は?」
ゆっくりと開けられた瞳をのぞきこんだシドは、思わず息を飲んだ。
紅い瞳は、まるで夜の闇に光る野獣の目の如く、ぎらりと異様な光を放つ。
・・・・こんな眼は、こいつの持つ眼じゃない。
じゃあ、いったい誰の・・・・・・・・?
まだ見ぬカオスの、死の匂いのする息を感じる。
シドは、僅かに後ずさりした。
次の瞬間、ヴィンセントは頭を抱え、身体を捩り、苦痛の叫び声をあげた。
先刻まで上げていた甘く高い声とは対照的な、低く鋭い、獣の悲鳴。
「ヴィンっ!おいっ!どうした?」
恐怖も忘れて、シドはヴィンセントの肩を揺さぶった。
ヴィンセントは溺れたようにもがき、シドに固くしがみつく。
「・・・・・い・・・・・!」
「えぇ?」
「・・・・こ・・・・・・・わ・・・い・・・・・・。怖・・い・・・・・!」
情事の後にも関わらず、やたらに冷たい身体をシドは困惑しながら抱きしめる。
「畜生・・・・・・。」
最強の獣、カオスが、宿主の身体を支配しようとしている。
シドの身体中を激しい怒りが巡る。
ヴィンセントを恐怖と苦しみに晒した奴に怒りがわきあがる。
・・・・・・・・・自分自身に。
・・・・・こいつはこんなに戦っているのに、俺様は何をしている?
乱れた姿見たさに、苦しみに追いやったのは、俺じゃねえのか。
なのに、こいつの中の化けもんに驚いて、尻尾を巻いて逃げ出そうとした。
上等だぜ、シド・ハイウインドさんよぉ、男の中の男ってヤツだぜ。
俺様は、情けなくて泣けてくるぜ・・・
眼の前のヴィンセントは、苦しみから逃れようと、身を捩りもがきまわる。
壁に爪をたてて引っ掻き、爪が折れて血がしたたる指先で、自らの首を掻きむしる。
白い肌に幾筋もの血の跡を付けて暴れまわる姿は、もはや人とは思えなかった。
怒りに震える拳を無理矢理開き、シドは無我夢中でヴィンセントを抱きしめた。
腕の中で我を忘れたヴィンセントが激しく抗う。
シドの首をヴィンセントの細い両腕が掴み、ものすごい力で締め上げた。
細身の身体からは想像もつかない程の人間離れした力に、シドはたじろぐ。
カオスの支配する身体の前には、鍛えられたシドのたくましい両手も全く歯がたたなかった。
ベッドから転げ落ちた二人は、床の上を上になり、下になり、もみ合いながら争う。
首を絞めたまま、シドの上にのしかかったヴィンセントの整った顔が、狂ったような微笑みを浮かべながら見下ろしている。その紅い眼に、燃えるような殺意を宿らせて。
「ヴィンセント・・・・・・・!」
狂気の瞳から眼をそむけたシドの視界に、床に転がり落ちたままのデスペナルティが映った。
とっさに手を伸ばしデスペナルティを掴む。
うなり声をあげるその美しい顔に銃口を突きつける。
そんな脅しは全く気にもせずに、ヴィンセントの狂った手は更に強くシドの喉を押しつぶしていく。
シドは残った力をふりしぼって引き金に指をかけた。
「殺してくれ・・・・・・」
ヴィンセントの囁きが聞こえたような気がした。
息が出来ない。頭が朦朧としてくる。気が・・・・・遠くなる。
眼を閉じて、引き金にかけている指に力を込める。
「で、出来ねえよっ!そんな事、俺様にしろってのかよ!」
かっと目を見開くと、ヴィンセントの狂気に満ちた紅い瞳がおぼろげに見える。
「ヴィン!・・・・駄目だ、おめえを殺るなんて・・・・・・・絶対・・・・・・で・・・き・・・・・・・・」
弱々しく空をかく手はだらりと落ち、シドの首ががくりと垂れた。
遠くで、銃が床に転がる鈍い音を聞いた。
・・・・・罰が当たったんだな。こいつを苦しめた・・・・罰が・・・・
霞む意識の中、ぼんやりとシドは自嘲した。
・・・・・全くお笑いだぜ、いつも罪だ罰だって、自分を責めてたこいつを馬鹿にしてた俺様が、こうして自分を責めながら死ぬなんてよ・・・・
しかも守ってやるから安心しておけなんて、ぬけぬけと抜かしやがって。
結局、こいつを守るどころか、逆に・・・・・・・追いつめて・・・・・しまって・・・・・
すまない・・・・・・ヴィンセント・・・・・・・
心の中に、己がヴィンセントにいつも怒鳴っていた台詞が蘇ってくる。
『ヴィンセントよお、おめえ、何でもかんでもすまないって謝るな!
すまないと思うならてめえで何とかしやがれ!』
・・・・・すまない、なんて言ってる場合か? 俺は!
突如、シドは激しい思いにとらわれた。
・・・・・このまま、引き下がれるかよ!
こいつをカオスに引き渡してしまっていいのかよ!
俺が、こいつを・・・・・・守ってみせる!
こいつと、約束したんだからなあ!
喉を容赦無く締め上げる両腕を握り、シドは鋭く、狂気の紅い瞳を睨み付け、力の限り掠れた声を絞り出す。
「畜生・・・・カオスめ、俺様の言葉がわかるなら、聞きやがれ!
こいつはなあ、俺様の大切な宝なんだよ! 無くしたくないんだよっ!
命や身体なんざあ、この俺のでよければ、いくらでもくれてやらあ。
だから・・・・・頼む、ヴィンセントを・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・か・・・え・・・・・・・・・・・・せ・・・っ!」
◇ ◇ ◇ ◇
ふと気がつくと、真っ暗だった。
・・・・・・死んだのか? 俺は?苦しくない。眼を開けている筈なのに、真っ暗な闇が見えるばかり。
・・・・地獄にしちゃ、妙な音が聞こえるなあ・・・・・
重い頭を巡らすと、ぼんやりとした月の光に照らされた部屋の天井が見える。
ヴィンセントが流しっぱなしにしていた水の音がシャワールームから聞こえるのがわかった。
はっとして、シドは起き上がろうとした。
「ヴィン?」
シドの胸に頭を預けて、ヴィンセントが倒れていた。
慌てて顔を近づける。どうやら呼吸はしているようだ。
シドは脂汗を拭い、ふうっと息をつき、小さく呟いた。
「どうなっちまったんだ・・・・?」
「・・・・・シ・・・ド・・・・・・」
細い、細い声。
予期せぬ返事が返ってきて、飛び上がる程驚いた。
「ヴィン、大丈夫なのかっ?」
「・・・・・・・・大丈夫・・・・・・・・だ。」
シドはよろよろと起き上がると、ヴィンセントの華奢な身体を慎重に抱え、乱雑に倒された机や椅子の間を縫ってびりびりにシーツが裂けたベッドへと運んだ。
ヴィンセントはぐったりと、されるがままになっている。
「駄目だと・・・・・思った・・・。意識が遠くなって・・・・殺意だけが・・・・心を・・・覆っていた。
そうしたら・・・・・・・聞こえた・・・。シドの・・・・・こえ・・・・・・・・・が・・・・・・」
潤む紅い瞳から温かな涙がとめどなく流れ、弱々しく細い声が詰る。
「俺様の・・・・・宝・・・・だ・・・・って・・・・・・・。」
恥ずかしさと安堵とで、思わず涙ぐみそうになったシドは、あわてて茶化す。
「なーに言ってるんでい。おめえ、まだとりつかれてるんじゃねえのかよぉ?」
僅かに血の気を取り戻した唇が微かに微笑んだ。
「あ・・・りが・・・・・・・と・・・」
「まーだ言うか? 俺様はなんにもしちゃいねえぜ、お前が、あの化け物に勝ったんだよ。
おめえの力でな。非力なおめえにしちゃよくやったぜ。」
「シド・・・・・・」
これ以上の賛辞を聞いていられなくなったシドは、唐突にその青白い顔を両手で挟み、息が止まるかと思われる程に深く口付けた。
「素っ裸でそんな眼をされちゃ、こっちはたまらねえんだよっ。」
「おい・・・・」
「俺様に感謝してるんだったら、態度で示せ。」
シドはそう言い放つと、ヴィンセントの胸に先程自分がつけたばかりの紅い刻印を貪り始めた。
まだ鮮血が痛々しくこびりついているのは、わざと無視して。
「あ、ううう・・・・・っ!」
ヴィンセントは突然、苦しそうに身を屈めた。
「おいっ? わ、悪いっ! 大丈夫かっ?」
シドは真っ青になってヴィンセントの身体をさすった。
苦しそうに臥せられた顔をのぞきこむ。
「ヴィン? おいっ! ・・・・ヴィンっ!」
震えていた身体はピタリと止まり、ゆっくりと、紅の瞳がシドを見上げる。
「・・・・・・・・・嬉しかった・・・・・・・。」
「・・・・・・馬鹿野郎。」
かっと頬が赤らんだのを隠すように、シドはヴィンセントの胸に顔を埋めた。
「俺様を驚かした罰だぜ。おめえ罰受けるの得意だろ。」
「あ・・・・・・っ」
びくりと肩を震わせたヴィンセントは、微笑みながら、全てをシドに委ねた。
静まり返る部屋には、二人の深い吐息しか聞こえない。
シドは、自分の上でゆっくりと揺さぶられるヴィンセントを見上げた。
軽く閉じられた瞳、紅潮する頬、荒く息をつく紅い唇。
美しい顔を興奮で紅く染めながら、シドに向かって細い腕が伸ばされる。大きい手がヴィンセントの細い指に絡み付き、固く握り締められる。
「俺様のもんだからな。」
指をしっかりと絡ませながらシドは呟く。
「・・・・・・・・え?」
よく聞こえなかったらしく、潤む紅の瞳がうっすらと開いた。
シドはそれには答えずに、ヴィンセントを激しく突き上げる。
辛そうに紅の眼は歪められたが、やがてそれは恍惚の表情へと変わっていく。
ヴィンセントの内側が温かくシドを包み、彼が息を飲む度にシドを快く締めつけて、更に奥へ奥へと誘っているように優しくうねった。
「ヴィン、おめえって・・・・・・すげえな。」
すっかり乾いた長い黒髪を愛し気に撫でながら、シドは囁くように言った。
「何・・・が・・・・・・・だ?」
再び眼を閉じ、息を弾ませながら、ヴィンセントが途切れ途切れに喘ぐ。
上気した白亜の肌に、うっすらと汗がにじみ、部屋に差し込む星の光に輝く。
その白く輝く胸元に無骨な指を滑らせながら、シドは笑った。
「俺の罰もよ、まとめて償ってくれちまった。」
「罰・・・・?」
首筋から胸へかけて、何本も流れる血の跡を見たシドの蒼い瞳が思わず揺らぐ。
「何でもねえ、俺の分まで良くなれっていってんだよ」
「はぐら・・か・・・・す・・・な・・・・・・・っ」
「いいから、舌噛むぞ」
一層激しく体を突き上げてくるシドの動きに、堪らずに細い身体を反り返らせて、ヴィンセントは長い吐息をつき、黒髪を気だるげに掻きあげた。
重なった身体が同じ律動を刻むにつれ、押し寄せてくる快感と共に、一つに繋がっている充足感が、二人の心を満たしていた。
◇ ◇ ◇ ◇
・・・・・ずいぶん長い間、こいつを吸ってなかった気がするぜ。ベッドに沈んだヴィンセントの黒い髪を梳きながら、シドは紫煙をくゆらせた。
「本当に、おめえの強さには惚れ惚れするぜ。」
静かに寝息をたてている寝顔に告げる。
「あんな化け物、俺の一言で従えちまったんだもんな。」
灰皿に押し付けた煙草の赤い火が、ぎらぎらと光るヴィンセントの狂気の瞳を思い出させる。
出し抜けに、手を掴まれて、シドはぎくっとした。
「ヴィン・・・・・・・?」
「う・・・・ん・・・・」
まだ不安が残るのか、ヴィンセントの手は眠りながらも、シドを探している。
シドが掌をヴィンセントの頬へ押し当てると、ヴィンセントの強ばった表情は溶け、幸せそうな子供のような安らかさが、青白い顔に浮かんできた。
「ここに・・・・・いてやるからな。心配すんな。」
シドは床に座りこみ、僅かに微笑む寝顔を覗き込む。
「朝まで、・・・お前が怖くないように・・・・・・・・起きててやるからな・・・・・」
口付けしようとベッドに伏せたシドの唇が、ヴィンセントに触れそうになった時、すっかり疲れきったシドは、そのままの姿で心地よい眠りへと誘われていった。
・ 終 ・