九月三〇日、高野山からの帰路、熊楠が後半生を過ごした田辺市に立ち寄った。市街に入ると、その混雑ぶりに、南紀に来てはじめて自動車の運転に気を病む。駅前通りを進むと、左手に『闘鶏神社』の鳥居が見えた。
平安時代の末、熊野宮は単なる宗教組織ではなく、強大な水軍を擁する軍事勢力でもあった。その一方の将が『平家物語』に登場する熊野別当湛増だ。はじめは平家方についた湛増だが、ある日この神社で紅白の鶏を七羽づつ闘わせたところ平家の色の赤い鶏がみな負けた。神意をさとった湛増ひきいる熊野水軍は、源氏方に寝返って壇の浦に参戦した。この湛増の次男と伝えられるのが、武蔵坊弁慶である。
闘鶏神社は、南方熊楠にも縁が深い。外遊から帰国したのち紀州各地を転々としていた熊楠は、明治三七年から田辺に定住し、翌々年の三九年に結婚する。妻となった松枝(まつゑ)は闘鶏神社宮司の四女だった。曰く、「小生四十歳、妻は二十八歳、いづれもその歳まで女と男を知らざりしなり」ふたりは翌年に長男熊弥、四十四年には長女文枝を授かった。
闘鶏神社はいまもこんもりと深い常緑樹の鎮守の森に覆われている。境内に点在する楠の巨木は、これもまた熊楠の尽力で辛うじて残されたもの。しかし、鎮守の森を守ろうとした熊楠の敵対者には、妻の親類も多かった。松枝さんの心労いかばかりだったろう。深い緑が時折、日射しを受けて黄金色に輝く闘鶏神社の森の手前では、子どもたちが無心に遊んでいた。ふと、これもまた熊楠が守りたかった風景のひとつだったのではなかろうかと、胸が熱くなった。
臨終の時
駅前通りを南西に歩くと、金融破綻で作られた「整理回収銀行」が見えた。闘鶏神社向かいの路地をしばらく入ると、そこに熊楠の旧宅がある。周辺の中屋敷町は古い城下町の風情を残しており、歩いていて気が和むところだ。旧宅は質素な二階建ての日本家屋で、屋根はビニールシートで覆われていた。台風七号に瓦を飛ばされたのだ。遺族の文枝さんがひとりで守っており一般公開はされていない。外観を眺め、しばし往時を偲んだ。
自動車を引き返し、田辺駅の北西側、国道42号線沿いの高山寺(真言宗)に、熊楠の墓を詣でた。「南方熊楠墓」と刻まれた質素な墓石の隣には、松枝夫人と、精神に病を得たまま亡くなった熊弥が眠る。ひとり南方家を継いだ文枝さんは、父の臨終のきわをこう記している。

「昭和十六年の年の暮れも押し迫った二十八日、早朝から、庭の榎に烏の群が来り、悲しげな声で鳴き騒ぎ、何やら不吉な予感にかられた。父は気分が良いとて、久々で好物の紅茶を求めたが、一口飲むと、苦いと戻してしまった。それでも、書庫に行って書籍を持って来るようにと、スペリングを書いた紙片を私に手渡すのであるが、幾度探しても見当たらず、父に告げると、「なぜか今日は、あの一字が思い出せぬ。どうして頭の中がこんなに混沌として来るのであろうか」と、さも口惜しそうに呟きながら、またしても深い眠りに落ちてゆくのであった。医師が時々打つ注射を嫌い、「こうして目を閉じていると、天井一面に綺麗な紫の花が咲いていて、体も軽くなり、実にいい気持ちなのに、医師が来て、腕がチクリとすると、忽ち折角咲いた花がみんな消え失せてしまう。どうか天井の花をいつまでも消さないように、医師を呼ばないでおくれ」と言いつけた。父は紫色を好み、庭の草花も紫色が多かった。昭和四年六月一日、御召艦長門において御進講の光栄に浴せし日、あたかも父の門出を祝福するかのごとく、庭の樗(おうち)の花が薄紫の霞のごとく咲き誇っていた。今幽明の境を彷徨する父の脳裡に、あの日の感激と、見事に咲いた樗の花を想い出したのであろうか、父の寝顔は実にやすらかであった。
夜も次第に更けて、ふと目を開き、枕辺に不安気に見守る母と私を見上げて、自分はこれからぐっすり眠りたい故、誰も私の体に触らないでほしい、おまえ達も間違いなくおやすみ、必ず間違いなくやすむのだよ、と念をおすかのように、そして、すっぽりと頭から自分の羽織を被り、「縁の下に小鳥が一羽死んでいる故、明朝丁重に葬ってやってほしい」と、謎の言葉を残して、翌二十九日六時半、漸く東の空が白む頃、遂に閉ざされた眼は再び開かなかった。母は、まだ体温のさめやらぬ父の両手を胸の上で組み合せ、その手首に神島産なる彎珠で作られた黒い念珠をかけてあげた。家々からは、時局柄、遠慮勝ちに餅搗く杵の音が響いて来た。」(「追想」より)
熊楠の生前、神経質な夫をはばかった松枝夫人は、幼い子供たちを近所の扇ヶ浜へと連れ出し、松の木陰に一日を過ごすこともあったという。美しい砂浜に老松の並木が続いていた扇ヶ浜も、いまは防波堤にへばりつくやせ細った海岸に姿を変えている。しかし散策ついで、伝説的酒豪だった熊楠がしばしば芸妓たちの嬌声を浴びたという田辺の花街、上屋敷新地の細い路地に迷いこんだのは、今日の思わぬ収穫だった。
天神崎にて
旅の最後に、天神崎を訪ねた。田辺湾に突き出した照葉樹林の丘陵地、海岸には平らかな岩礁が密なる自然を育んでいる。黒潮に運ばれた豊富な魚介類とそれを目当てにした野鳥たち。まるで南紀の生態系のミニチュアのような土地。ちょうど白浜の対岸にあたるこの岬は、日本のナショナルトラスト運動の先駈けとなった。70年代、この岬に宅地造成の波が押し寄せた時、数多くの住民が共同で土地購入運動に立ち上がり、かけがえのない自然を守ったのだ。
田辺に定住後、熊楠は来客には門を閉ざし、生物標本の記録に没頭することが多かった。しかし粘菌観察の合間をぬって、天気のよい日には採集道具を入れた魚篭(びく)をぶらりと提げ、ひとり天神崎をうろつくを好んでいたという。生前、熊楠は「いまのうちに、天神崎海岸を保護地区に指定しなければ必ずゆくゆくは別荘用地として不動産業者に買収されるだろう」と地元の人に警告していた。「また南方先生の十八番が始まった」街の人々は笑ったが、熊楠の心配は杞憂ではなかった。
ここで天神崎ナショナルトラストの成功を、「熊楠の遺風」と結びつけるのは、ある種の権威主義かもしれない。政治経済の中心地から遠く離れた場所にありながら、田辺は近代に入って南方熊楠を筆頭に、合気道創始者の植芝盛平などユニークな人物を輩出した。この口熊野の小都市が、巨人の半生を日向に影に支えたことの有り難さを、むしろ讚えるべきか。
木を植える人
「仏説に樹を植え木を保存するを一の功徳とする。小生は幼少より学仏の徒(仏教学徒)なれば、愚者の一徳として発起且つ随喜し従事する所ろなり。」
白浜の南方記念館で購った『南方熊楠書簡集』の頁をめくるうち、こんな言葉が目に入った。晩年の熊楠は、グレープフルーツによく似た安藤蜜柑を田辺で栽培し、ゆくゆくは輸出物産にするという計画(結局成功しなかったけれど)を進めていた。この書簡を送った中山雲表(郷土史家)とは、その安藤蜜柑の縁で交渉を持っていた。
かつて神社の杜を守った男は、老いさらばえてまた“木を植える人”となったのだ。熊楠は年下の雲表に宛ててこんな言葉も残している。
「凡そ物を植えるは、百貨店に何一つ備わらぬものなきが如くにその種をそなえおくべし。流行をのみ窺うて、彼れを棄て是を廃すべきに非ず。何物の種をも備え置きて、用あるに臨み大に之を働かすべし。」
思えば熊楠という人も「百貨店に何一つ備わらぬものなきが如く」無数の可能性を後生に残した。不器用に剛直に下手くそな無手勝流で、その可能性をばらまいた。時代の呼び声に応じ「用あるに臨み大に之を働かす」ために、彼の捲いた種子は、いまもどこかで発芽の時を待っているかもしれぬ。
二泊三日のささやかな旅を終え、小雨降る浜辺にしばし佇んだ。南国のしじまに瞼をとじれば、森の奥に双葉のはじける音を、ふと聞いたような気もする。
(98.10-98.12)
佐藤哲朗