羽田を飛びたってわずか一時間十分、白浜空港に着いた。レンタカーで対向車の海岸の道を、幕末に黒船警戒の番所があった岬へと走る。質素な石畳の階段を上がりきれば、やがて木立の間に大平洋と田辺湾が開けるだろう。その岬に昭和天皇の歌碑が建つ。
雨にけぶる神島を見て紀伊の国の
生みし南方熊楠を思ふ
昭和三七年五月、南紀白浜へ行幸された昭和天皇は、御宿所の屋上から田辺湾の神島を眺め、三三年前にただ一度言葉を交わした無位無冠の老学者をフルネームで追悼した。昭和天皇にこれほど強い印象を残した南方熊楠とは一体どんな人物だったのだろう。

南方熊楠(1867〜1941)は和歌山城下に生まれ、白浜に近い田辺市で没した。彼は粘菌類(動物と植物の中間的な性質を持った原始生物)に関する前人未到の採集を行った博物学者であり、柳田國男と並ぶ日本民俗学のパイオニアでもある。少年時代、その日本人離れした容貌から「てんぎゃん(天狗)」と渾名され、数多くの神童伝説を残した。上京して通った大学予備門では、夏目漱石や正岡子規と同窓だった。落第の憂き目にあうと日本での学問を諦め、二十才から十四年間、私費でアメリカ各地や西インド諸島を放浪し、イギリスに至る。ロンドンでは高名な学者と親交を深め、大英博物館に入り浸り、万巻の書籍を片っ端から書写したという。十数か国語を自由に使いこなした熊楠は、ロンドン在住当時からネイチャーなど学術雑誌に積極的に投稿し、「日本にミナカタあり」と欧米の学者を驚愕させた…。
はなやかな前半生とは裏腹に、明治三三年の帰国後は和歌山県からほとんど離れなかった。国内でも多数の論文・随筆を発表しめたが、住居は辺境の田辺市に構えたまま、生涯在野の学者に徹した。彼が明治末年から、神社合祀(複数の神社を強制的に合祀し、鎮守の森を伐採した政策)に猛烈なる反対運動を展開したこともよく知られる。
南方熊楠記念館
昭和天皇の歌碑からは手招きするように石畳が続き、その先に『南方熊楠記念館』が建つ。展示ケースの向こうには、熊楠の愛用した植物採集用具や、珍しい粘菌標本がひしめく。写真好きの熊楠が折々に残したポートレート、色とりどりの菌類彩色図、愛用のルーペや顕微鏡。荘厳な雰囲気さえ漂わせるデスマスク。さして広くはない館内に、熊楠の小宇宙が脈々と息づいていた。
前述のとおり熊楠は、時に洋行への願望を漏らしつつもその後半生を和歌山の小都市・田辺に留めた。彼はおのがフィールドとみなした紀州の隅々に、足跡と伝説を残している。白浜の名勝として知られる三段壁や千畳敷、円月島も、聞けば彼が標本採集に歩いた「縄張り」だったという。
「そういえば熊野三所神社には、昭和四年に昭和天皇が白浜に行幸された際、神島(かしま)まで乗船された
御座舟が残ってます」記念館事務長の廣畑さんの御教示で、見事な照葉樹林に抱かれた熊野三所神社を訪ねる。ただし台風七号の直撃により、境内の至るところ倒木が塞ぎ、荒れ果てていた。復旧にいそしむ大工連とさして見栄えも変わらぬ宮司に声をかけると、勿体ぶりもせずに神輿倉のなかにある御座船を見せてくれた。白地に菊の御紋章のついた船体には日除けの天幕がかけられている。小さいが美しい船だった。
それでいいじゃないか
昭和四年、小雨降る六月一日、二人の出会いの場となった神島は、中世の歌枕にも名を残す田辺湾の小島。自然の宝庫としての価値を再発見した熊楠は、生涯を賭けてその保護につくした。その神島に天皇を迎え、熊楠の喜びはいかほどだったろうか。島内視察の後、熊楠は御召艦の長門の甲板上で、昭和天皇に白浜の自然と生物につき熱心に講議した。戦後、昭和天皇は渋沢敬三に向かって次のように語ったという。
「南方にはおもしろいことがあったよ。長門(御召艦)に来た折、珍しい田辺附近産の動植物の標本を献上されたがね、普通献上というと桐の箱か何かに入れて来るのだが、南方はキャラメルのボール箱に入れてきてね……それでいいじゃないか。」
天皇の歩いた神島の植物採集路は、あらかじめ草木を伐採され、粘菌の付くべき倒木も掃き清められた。その権威ゆえ、ひとりの生物学者として自然と接する機会を拒まれた天皇にとって、熊楠の素朴な心づくしは、ひときわ印象ぶかい思い出として残ったのだろう。「それでいいじゃないか…」熊野三所神社の森を仰ぎつつ、私はふと昭和天皇のつぶやきをなぞっていた。