九月二九日午後、高野山の、聖域のなかの聖域というべき、奥の院に参拝した。奥の院は835年(承和二年)に入定した弘法大師空海の御廟を中心に開かれた聖域で、大師信仰の中心地。参堂には屹立する杉の古木の間をぬうように巨大な五輪塔が密集しているが、その苔蒸した数多くの墓石群も台風七号によってなぎ倒されたものが少なくなかった。奥の院入り口にある御供所は杉の大木で屋根が破壊されていたし、空海廟裏の経堂も倒木の被害を受けていた。あっけにとられつつ、ともかく休憩所にて福助の茶釜で煮出した番茶を頂いた。とろっと甘い、関東では味わえぬあめいろの「番茶」である。
それにしてもの墓だらけ。高野山への納骨や建碑は鎌倉時代から続く習慣だが、現在の墓石群の中核をなすのは江戸時代の全国諸大名の五輪塔。バカみたく墓石のでかさを競っている有り様にゃげっぷがでる。徳川家康が高野山を菩提寺としたことにならった事というが、一方で幕府は外様大名などに高野山への建碑をさせることで、財力消耗をはかったとも。ありそうな話だ。巨大なストゥーパの傍らには、杉の巨木に寄り添うように赤いよだれ掛けをかけた幼子のストゥーパが無数に置かれている。また行き倒れ・無縁の骨を寄せて作られたという小山がそこかしこにあり、哀れを誘う。
弘法大師が五六億七千万年後の弥勒菩薩降臨までまったり過ごしている(ホントは火葬されたって記録に残ってるんだけど)「御廟」に通じる橋から先は、清浄な聖域つうことで飲食・喫煙・撮影は一切禁止。御廟の前面に建つ灯籠堂には、日本全国の善男善女から寄進された灯籠は、橙色の暖かな…しかしやけにドスの効いた光を発している。肉山とも揶揄され、聖域と呼ぶには生活臭の強い高野の街のなかでも、ここはまぎれもなく日本の宗教的中心地のひとつであると確信させられる。
南方熊楠と高野山
「…予高野登山の途次、花坂の茶屋某方で生年十八歳という老犬を見た。今まで生きおったら五十八歳という高齢のはずだが、去年[大正十年]十一月、三十九年目でそこを過ぎると、かの茶屋も絶え果て、その犬の成行きを語る者もなかった。」(「十二支考/犬に関する民俗と伝説」より)
南方熊楠が父母および弟(常楠)とともに高野山にはじめて登ったのは、明治十五年(1882)、十六歳の春だった。
その後、熊楠は東京で大学進学に挫折し、アメリカに留学。そこでも飽き足らずに渡英した彼は、明治二十六年十月末にロンドンにて真言宗の青年僧侶、土宜法竜と出会った。この年、法竜はシカゴで行われた万国宗教大会に日本代表のひとりとして釈宗演や野口復堂らとともに参加し、帰途ロンドンに立ち寄ったのである。法竜はその後ロンドンを離れ、パリのギメー博物館仏教部の要請で翌年三月まで約五ヶ月滞在した。熊楠の直接の交歓はわずか数日にとどまったが、二人の間にはロンドン−パリ、那智−京都とところを変えながら30年間の長きに渡って膨大な往復書簡が交わされた。それらは土宜法竜の手で大切に保管され後生に伝えられた。いま私達が『南方曼陀羅』とも呼ばれる熊楠の思想の全容に分け入ろうとする時、最も重要な資料のひとつとなっている。(八坂書房から往復書簡集として出版されている。)
土宜法竜との再開

彼が土宜法竜の招きに応じて再び高野山の地に分け入ったのは、大正九年(1920)の八月。熊楠は、高野山派管長となった法竜と27年ぶりに再開した。深い信頼感で結ばれた二人の間には、交わされる言葉とて少なかった。熊楠は法竜の居る金剛峯寺にほど近い宿坊、一乗院に宿を取り、高野山周辺の森で年菌類を採集した。奥の院附近に粘菌採集に赴く途中、熊楠は随行の坂口総一郎に「粘菌は生死の界を説明するに最も都合のよいもので、生物の生と死とは同じである。『涅槃経』の二十九巻、北涼の曇無讖に、この業滅して、かの業生ず、明生じて、暗滅し、明滅して、暗生じ云々」と上機嫌にまくしたてた。じっさい真言密教の霊山は粘菌類の宝庫でもあり、熊楠にとって「高野物狂い」の至福の日々だった。
翌年の十一月には再度、高野山に登った。当地で膨大な粘菌を採集した熊楠は、一乗院に籠って記録に没頭した。この時も金剛峯寺を訪ねた熊楠だが、気が弛んだのか座談の合間に土宜法竜の前で鼾をかいて寝込んでしまった。その大きな鼻から垂れたはなみずを、法竜は自ら懐から出した懐紙で拭った。これが両者の最後の対面となり、法竜は二年後に金剛峯寺で示寂した。
熊楠が高野山に言及した例としては、その晩年、男色研究家の岩田準一に宛て女人禁制の高野山に横行した<稚児の玩弄>を考察した書簡を出してるのが目につく(というか、全集の索引から辿るとそんなのしか出てこない)。だが同時に熊楠は幼少期から培われた真言密教への信仰を生涯いだき続けたし、高野の深い森と一千数百年の文化遺産の護るべきを説いてやまなかった。おんばざらだどばん。