九月三十日の早朝から、前日に行きぞびれた熊野本宮大社へ。白浜から国道311号線を東へ走るうち、ひどい雨に見舞われる。工事中の悪路を経て渡瀬トンネルを抜け、ハンドルを左に切ると、『湯峯温泉』に辿り着いた。第十三代成務天皇の時代に遡るといわれる古い湯で、90度の源泉が清流の川床のあちこちから勢いよく吹き出している。
源泉のかたわらに建てられた板葺き小屋に、ふたり入ればいっぱいになりそうな小さな共同浴場があった。小栗判官ゆかりの『つぼ湯』だ。相模で毒殺された小栗判官助重は、閻魔大王の計らいによって手足が萎えめくらつんぼで腹の膨れた「餓鬼阿弥」の身を得て生き返る。(後にライ病者を餓鬼阿弥と呼んだ。)恋人の照手姫らが曳く土車に乗せられ、熊野に到った彼はこの「つぼ湯」に身を浸し、温泉の霊験によって復活を遂げるのだ。
ちなみに四月十三日に行われる熊野本宮大社の大祭は、ここ湯峯温泉での沐浴潔斎からはじまる。温泉街の中心にある東光寺の本尊は薬師如来だが、この薬師像も湯の花の化石とか。つぼ湯周辺は、熊野信仰のエッセンスの詰まった「つぼ」のようだ。温泉の薬効に託した再生への願いと裏腹に、べっとりと死の陰がはり付いたような、どうにも気味の悪い場所でもある。日本書紀で、スサノヲが熊成峯から根の国に下ったと伝えられるように、熊野は古くから死者の世界への入り口だった。荒ぶる魂が繰り返す死と再生のサイクルの始点と終点に位置する、冥(くら)い霊地。硫黄臭のけぶる河原に、まだ来ない再生の時を待つ餓鬼阿弥たちを幻視したような気がして、やけに胸が騒いだ。
熊野権現と阿弥陀信仰
つぼの湯から国道をわずかに登れば、南無阿弥陀仏の名号が刻まれた磨崖名号碑(伝一遍上人名号石)が見える。本地垂迹思想の浸透していた中世には、熊野本宮大社の本地は阿弥陀仏だとされた。時宗の念仏聖たちは小栗判官の物語を題材とした説教『をぐり』を用いて庶民を唱導し、熊野信仰と時宗の念仏信仰はリンクしながら日本全国に広められた。一遍上人は、鎌倉新仏教開祖のなかでは唯一比叡山に登っておらず、熊野本宮への参籠の際、「熊野権現のお告げ」で、時宗を開いた特異な経歴の持ち主なのだ。
雨にけぶる、熊野本宮大社に至る。もとは熊野坐(くまのにいます)神社と呼ばれ、速玉大社(新宮)や那智大社とともに熊野三山を構成し、全国熊野信仰の総本宮として伊勢神宮とともに国民的な崇敬を受けてきた。一ノ鳥居を抜けると鬱蒼とした杉木立の間を急峻な石段が続き、両脇には「熊野大権現」と書かれた旗が無数にはためいている。上述した本地垂迹の時代、神と仏が一体の存在と考えられた時代の、熊野の神の呼び名である。
敷き詰められた白砂利を踏みしめ、古色蒼然とした社殿に参拝する。じつは本宮大社はもともと熊野川(十津川)の中州にあった。そこは十津川に流された水葬の死骸が寄り着く場所であり、死骸は強い霊力を持つために「素戔嗚尊」に見立てられたのだという説もある。旧社殿は明治二十二年の大洪水で流失し、二年後に小高い丘の上に遷座された。往時の社殿の一部が移築されており、現在も古社の風格をそれなりに保っている。ただ社殿などよりも尊ぶべき旧社殿跡地の老木樹林は、神主の住居建築のために伐り尽くされてしまったと、南方熊楠は憤慨しているのだが。(白井光太郎宛書簡)
成石平四郎の遺書
熊楠は生前、何度も熊野に採集旅行を試みた。明治四一年(1908)熊野川上流域に採集旅行に出掛けた彼は、本宮近くの川湯温泉に逗留し、大逆事件に連座して処刑された青年、成石平四郎と会っている。田辺で川嶋草堂に引き合わされて以来二度目の会見だった。このあと熊楠は成石に、熊野山中に生えるキノコの採集を依頼しており、何度か書簡の往復があった。
二人に思想的な交渉はなかったらしいが、成石は神社合祀反対運動に孤軍体を張る熊楠の姿に、強いシンパシーを感じていたようだ。成石宅への家宅捜索の際、大石誠之助や幸徳秋水のものに混じって南方熊楠の書簡一通も押収されている。大逆事件に際しては、かつて菅野スガを記者として招いた牟婁新報が捜索を受けるなど、田辺の熊楠周辺にも慌ただしい動きがあった。
成石は処刑の直前である明治四十四年一月下旬に、熊楠に向けて今生の別れを告げる葉書を送った。熊楠がその葉書を受け取ったのは、成石が処刑されて六日後の一月三十日のことである。
和歌山県田辺町 南方熊楠先生
先生是迄眷顧を忝しましたが、僕はとうどう玉なしにしてしまいました。いよいよ不日絞首台上の露と消え申すなり。今更何をかなさんや。唯此上は、せめて死にぶりなりとも、男らしく立派にやりたいとおもつています。監獄でも新年はありましたから、僕も三十才になつたので、随分長生をしたが何事もせずに消えます。どうせ此んな男は百まで生たつて小便たれの位が関の山ですよ。娑婆におつたつて往生は畳の上ときまらん。そう思ふと、御念入の往生もありがたいです。
右は一寸此世の御暇まで。 東京監獄にて成石平四郎 四十四年一月下旬