−−神社合祀反対運動は、南方熊楠の学問一筋の生涯の中で、その学力と精力のすべてを傾けた、そして唯一つの、実践活動であった。−−(鶴見和子『南方熊楠』)熊楠をして、そこまで奮起させた「神社合祀」とは一体どのような政策だったのだろう。
明治三十八年(1905)八月の講和条約締結によって日露戦争が終結する。しかし講和は過重な戦費負担に耐えた国民を納得させるものではなく、全国で
講和反対・戦争継続の世論が噴出し、都市部を中心に政情不安が続いた。農村部においても下層農民の疲弊は深刻で、社会不安の芽が育ちつつあった。そのような情勢のもと、内務省は明治39年末に戦後経営策の一環として「神社合祀令」を布告した。
「それは神主もおらず社殿も荒れて祭神も不分明な神社を整理・合祀し、合併によって不要となった跡地を無償で払い下げて神社の基本財産とし、専任の神主を置き、神殿を立派にして尊厳を保てば、村民の崇敬が高まり村の精神的統合に役立つという発想であった。そこには一町村一社を標準として神社合併を行い、部落割拠の精神的拠りどころを奪って、明治二二年の町村制によって生まれた新行政村内の統合を図ろうという狙いがあった。」(「和歌山県下における神社合祀」 梅渓昇)
和歌山と三重の惨状
神社合祀令は村落生活に密着した氏神・産土神への信仰を軽視し、地域の特殊事情を無視したまったくの机上のプランであった。しかしこの政策によって、明治三十九年に一九万を数えた全国の神社は、わずか三年の間に一四万七千まで減少し、鎮守の森として守られてきた貴重な自然、そして文化遺産の多くが消滅した。特に合祀が猖獗を極めたのは熊野三山と伊勢神宮を擁する和歌山県と三重県だった。その惨状を、熊楠の告発に見てみよう。

「…そもそも全国で合祀励行、官公吏が神社を勦蕩(そうとう)滅却せる功名高誉とりどりなる中に、伊勢、熊野とて、長寛年中(1163-1165)に両神の優劣を勅問ありしほど神威高く、したがって神社の数はなはだ多かり、士民の尊崇もっとも厚かりし三重と和歌山の二県で、由緒古き名社の濫併(らんべい)、もっとも酷く行なわれたるぞ珍事なる。すなわち三重県の合併はもっともはなはだしく、昨年六月までに五千五百四十七社を減じて九百四十二社、すなわち在来社数のわずかに七分一ばかり残る。次は和歌山県で、昨年十一月までに三千七百社を六百社、すなわち従前数の六分一ばかりに減じ、今もますます減じおれり。かかる無法の合祀励行によって、はたして当局が言明するごとき好結果を日本国体に及ぼし得たるかと問うに、熊楠らは実際全くこれに反せる悪結果のみを睹(み)るなり。
…かくのごとく合祀励行のために人民中すでに姦徒輩出し、手付金を取りかわし、神林を伐りあるき、さしも木の国と呼ばれし紀伊の国に樹林著しく少なくなりゆき、濫伐のあまり大水風害年々聞いて常時となすに至り、人民多くは淳樸の風を失い、少数人の懐が肥ゆるほど村落は日に凋落し行くこそ無惨なれ。」(白井光太郎宛 明治四十五年二月九日)
熊楠の神社合祀批判
上司の意に迎合せんとする地方官吏は飴とムチを使って村民を誘導し、闇雲に合祀の数を競った。廃社となれば境内の神木が売り払えるということで、ことさらに巨樹の残る神社を破却する欲得づくのスキャンダルも続発した。神社合祀はのちに、神道国教化と天皇制国家主義の確立に向けた地域信仰の弾圧等と評されているが、実際に和歌山などで行われた神社合祀はもっとデタラメなものであり、皇室に縁のある神社であっても容赦なく、地方官吏や神官らの私利私欲のために潰されていった。政府が意図した効果をあげる以前に、「神社合祀令」は既存の地域共同体の破壊と人情の荒廃とに大きく貢献してしまったのである。南方熊楠は神社合祀の弊害を八箇条にわたってあげ、論難している。
「…神社合祀は、第一に敬神思想を薄うし、第二、民の和融を妨げ、第三、地方の凋落を来たし、第四、人情風俗を害し、第五、愛郷心と愛国心を減じ、第六、治安、民利を損じ、第七、史蹟、古伝を亡ぼし、第八、学術上貴重の天然紀念物を滅却す。
当局はかくまで百方に大害ある合祀を奨励して、一方には愛国心、敬神思想を鼓舞し、鋭意国家の日進を謀ると称す。何ぞ下痢を停めんとて氷を喫(くら)うに異ならん。」(同上)
『南方ニ書』とドンキホーテの悲哀
熊楠の神社合祀反対運動は明治四十二年秋、田辺のローカル新聞『牟婁新報』社主・毛利清雅に宛てて送られた長文の書簡によって開始される。熊楠の運動は、中央で柳田國男、杉村楚人冠、中村啓次郎(衆院議員)らの協力を得、大正九年、神社合祀政策が正式に撤回されるまで続いた。田辺周辺には、彼の奔走によって残された神社叢林もいくつかある。しかし熊楠の激烈なアジテーションは、急激に変貌する郷土の風土に、ドンキホーテの悲哀を添えることの方がむしろ多かった。
熊楠が神社合祀反対意見を記したいわゆる『南方ニ書』は、柳田國男の手で印刷され、中央の人士の間にも普及して少なからぬ反響を呼んだ。その文中に引用された幻想譚が、当時の彼の真情の幾ばくかを伝えているかもしれない。
「玄奘三蔵の『大唐西域記』に、むかし雉の王あり、大林に火を失せるを見、清流の水を羽にひたし幾回となく飛び行きてこれを消さんとす。天帝釈これを見て笑うていわく、汝何ぞ愚を守りいたずらに羽を労するや、大火まさに起こり、林野を焚く、あに汝、微躯(区の中は品)のよく滅すところならんや、と。雉いわく、汝は天中の天帝たるゆえ大福力あり、しかるにこの災難を拯(すく)うに意なし、まとこに力甲斐なきことなり。多言するなかれ、われただ火を救うがために死して已まんのみ、と。」