『アジ活』写真館
〜大アジア思想活劇フォトライブラリ〜
ようこそお出で下さりました。此処は長らくにわたりメルマガにあるまじき?長文のみでご辛抱いただいた『大アジア思想活劇』に登場する人物や書物などを、写真にてご紹介するコーナーであります。本編より抜粋した、弁士の口上と併せてお楽しみくだされ。
更新情報:写真1点を追加(1999/12/2) 最新項目へ

■野口復堂先生肖像(教談『珍々團』より)
野口復堂(善四郎 1864?〜?)は無名の噺家、否、“教談家”である。坊主や学者先生の小難しい講演会の余興に、軽い道徳訓話や歴史物語やらを巧みな話術で披露して、座を盛り上げるのが稼業であった。明治の末年頃、講談界に「教談(教育講談)」という聞きなれぬ一派を開いた復堂師匠の、とっておきのネタのひとつが、二十三歳のみそら単身乗り込んだインド亜大陸での武勇談。(イントロダクション)
■"THE BUDDHIST CATECHISM" H.S.Olcott
(1881年初版 1908年第42版 Vasanta Press)
『仏教教理問答』は1881年7月、オルコット大佐がセイロン(スリランカ)でものした簡潔な仏教入門書だ。詳しくは後述するが、アメリカで神智学協会を設立したオルコットはインドを経て1880年、スリランカに上陸。キリスト教会の布教活動に対抗してシンハラ仏教復興を指導して『白い仏教徒』として南アジアで救世主のごとく大活躍していた。
彼はクリスチャンがセイロン島内に大量にばらまいたキリスト教布教用の教理問答集(カテキズム)に目をつけ、その仏教版をみずから執筆したのである。これが大いにウケた。(第1章 オルコツト大佐来日まで)
■『佛教問答』日本語版 今立吐醉・訳
(1886年4月 仏書出版会)
「…ところが恰もよしこの時印度より日本仏僧の変り者水谷仁海大菩薩へ、英文仏教問答と云う本を送って来た。著者はヘンリィ・スチール・オルコットと云う南北戦争参加の古強者、今は後備陸軍大佐であって熱心な仏教信者と云う事が知れたので、早速当時米国より帰朝したての今立吐醉先生に翻訳して貰うと同時に、日本へ右大佐を招待する事と取極め交渉を開始した。」(第2章 オルコット招聘運動顛末)
■モーホッティワッテ・グナーナンダ銅像
(撮影:佐藤哲朗 1994.3)
■"PANADURA VADAYA" 英語版の表紙
(『PANADURA VADAYA キリスト教か仏教か 歴史の証言』金 漢益訳注 中村元監修 山喜房刊 1995.9.3 より)
論戦の舞台となったパーナドゥラ村には、現在は金色に彩色されたグナーナンダの立像が建立されている。よく手入れされた花壇の直中にそびえるその像は、五色の仏教旗をバックに、一百数十年前その地で雄弁を振るったそのままの姿を保存しているようだ。長丁場の論戦のすえ、自らの勝利を確信したグナーナンダは、左足を聴衆に向かって踏み出し、右手を力強く振り上げ天を指しながらこう語った。(第5章 パーナドゥラ論戦−グナーナンダの勝利−)
■オルコット大佐銅像
(撮影:佐藤哲朗 1999.2)
印度天竺は東南の海に、マンゴのごとく浮かんでいるのはスリランカ民主社会主義共和国で。その実質的な首都がコロンボで。その鉄道ターミナル駅がフォート・ステーションで。ランカー各地から長距離バスやら鉄道で流れ込む、褐色の雑踏行き交う駅舎の正面には、豊かな顎髭をたたえた格幅のよい初老のアメリカ人紳士の銅像がすっくと立つ。駅前を走るメイン・ストリートもまた、“オルコット・マワタ”と彼の名を冠している。(第3章 神智学協会の創立)
■ブラヴァッキー夫人とオルコット大佐
(1888年ロンドンにて撮影 "YANKEE BEACON OF BUDDHIST LIGHT Life of Col. Henry S. Olcott" Howard Murphet, The Theosophical Publishing House, 1988 より)
ヘヴィー・スモーカーのブラヴァッキーは煙草を取りだした。オルコットはすかさず"Permettez-moi,Madame?"まだ英語のおぼつかぬブラヴァッキー夫人にフランス語で語りかけ、マッチの火を差し出す。紫煙たなびく部屋の中で、二人はたちまち意気投合した。それからの長いパートナーシップのはじまりである。気難しいカリスマ的な霊媒と、彼女を崇拝する実務家肌のヤンキー紳士。彼らはカップルというより、まったく資質の違う『双子』のように見えた。(第3章 神智学協会の創立)
■スリランカの観光写真(1994年3月撮影)
いまや九億もの民がひしめく喧騒のインド亜大陸から東南約三〇kmの海に、先週はマンゴと謂いましたがむしろ洋梨か、いや乙女の涙粒のごとき姿をさらした大きな島があります。この島全体をスリランカ民主社会主義共和国といって。64454平方kmつまり北海道よりひとまわり小さな面積に、約千八百万人の人口を抱えている。ご年配にはセイロンという呼び名のほうが通りがよいだろう。スリ・ランカとは“光り輝く島”くらいの意味で。名前に違わずルビー・サファイアなど宝石の産出地として知られ、セイロン・ブランドで有名な紅茶の名産地でもある。欧米人の間ではリゾート地としての人気も高く、『2001年宇宙の旅』のアーサー・C・クラークが住着いていたりする。(第4章 インド洋の「仏教国」スリランカの来歴)

■神智学協会のシンボル
(アディヤールにて撮影:佐藤哲朗 1999.1)
■神智学協会本部のホール(上段)と図書館(下段)
■オルコットとブラヴァッキーの像
■神智学協会本部ホールの内陣
(マドラス・アディヤール神智学協会本部にて撮影:佐藤哲朗 1999.1)
今年の1月、筆者はこのアディヤールを幾度か訪うた。南アジア第一の都市マドラスから海岸沿いをしばらくバスで揺られると、バニヤン樹の巨木が生い茂る広大な庭園に囲まれた神智学協会の本部に辿りつく。コロニアル風の白亜のホールには、仏陀・キリスト・クリシュナといったごった煮のレリーフと並んで二人の創設者、HPBとHSOの像が祀られていた。
ロッジの点在する庭園のなか、壮年の白人神智学徒たちがゆったりと休暇を楽しんでいる様子からは、インドの宗教ルネッサンスを牽引した往時の活気を想像することは難しかった。敷地にはオルコットによって創設された小奇麗で管理の行き届いた図書館と、こじんまりした神智学書店があり、筆者はそこで本稿を書き進めるための資料のいくばくかを得た。(第6章 白い仏教徒の闘い〜神智学協会と南アジア)
■オルコット大佐とHPBが受戒した寺院
(ウィジャヤナンダ・マハー・ヴィハーラ 撮影:佐藤哲朗 1999.2)
ウィジャヤナンダ寺院は、ピリヴェナと呼ばれる仏教学校(寺子屋)の伝統を誇り、現在もゴール地区の仏教教育の拠点である。大講堂にはオルコットの胸像が残されている。かつてはオルコットが受戒した際の直筆のレリーフがあったというが、寺の修理の際に紛失したとか…。(第6章 白い仏教徒の闘い〜神智学協会と南アジア)
注記:筆者が訪問したとき、オルコット胸像の置かれた講堂(写真上段左側)では仏教学校の授業をしている最中だった。あいにく住職は不在で話を伺うことはできなかったのだが…。ちなみに『PANADURA VADAYA』の訳者・金漢益師が、中外日報1998.2.14号にウィジャヤナンダ寺院への訪問記を書かれてます。
■笑顔のアナガーリカ・ダルマパーラ
("RETURN TO RIGHTEOUSNESS" A Collection of Speechs,Essays and Letters of the Anagarika Dharmapala Edited by ANANDA GURUGE sept.1965. より)
注記:1891年にカルカッタのSri Neel Camul Mookerjee邸にて撮影された写真。とりすまし宗教家然としていないダルマパーラの写真は珍しい。右側の少年はSri Naresh Nath Mookerjee。のちにカルカッタ市長やインド立法府議員を歴任した政治家である。
「…ダルマパラなる語は梵語にして漢字に訳すれば「護法」となり。而して法名である。(中略)島中屈指の富豪の嫡男なるが、生来脚に病あり。二弟をして英国倫敦の大学を卒業せしめ、一は家職を次ぎ、他は官吏たらしめ、自分は不具者故仏門に帰依し、単身無妻にして跛足を曳きつゝ、印度内地の仏趾を歴訪し、当時マドラス市に創立なりし露国婦人マダム・ブラバツキーのセオソフィカル・ソサエチィ即ち霊智学会の第二世たる米国陸軍大佐コロネル・オルコツト氏と相知り、父子の如き交わりを訂し、帰島以後は、同島マリバン・ストリート街の霊智学会支部の長となりて、仏教再興に努力しつゝありたり。」(第7章 “ランカーの獅子”の誕生)
■野口復堂と神智学協会の面々
インドにおける野口復堂の活躍を裏付ける資料を求めて、筆者はたった数日間ではあるがマドラス(チェンナイ)市内うろうろ歩き回った。神智学協会本部での資料購入を除けばほとんど収穫もなかったが、これからもできる範囲で調査を続けたい。わずかな手がかりといえば前号の「長名話」でもちょっと触れた写真がある。復堂師匠による解説は、該当ページに載せてあるが、この写真は明治二十一年十二月二十八日、アディヤールの神智学協会メインホールで行われた野口復堂送別会で撮られたものだ。(第15章 野口復堂の印度旅行 〜凱旋帰国まで〜)

■野口復堂先生肖像(教談『珍々團』より)
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