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表紙画像
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『大アジア思想活劇 〜仏教が結んだもうひとつの近代史〜』
【重要なお知らせ】『大アジア思想活劇』が大幅加筆訂正のうえ、オンブックから書籍化(オンデマンド出版)されました。くわしくはこちらをご覧下さい。(2006/9/7)
佛紀二五五〇年記念出版
『大アジア思想活劇 仏教が結んだもうひとつの近代史』
ISBN4-902950-35-9 C0014
価 格:4,200円(税抜)
仕 様:四六版、460ページ
発売日:2006年8月2日
発 行:オンブック
イントロダクション
・明治二十一(1888)年の天竺武勇談
・近代仏教史の発見
・白人ブディストと講釈師と『佛教復興』
・アナガーリカ・ダルマパーラと日本
・近代アジアを貫くカルマ
・仏教史という『窓』を通じて
▼明治二十一(1888)年の天竺武勇談
…古来印度の事をば我国では天竺と称え、雷の住宅は必らず天竺の横町で、之を姓にしたのが徳兵衛と云う海賊で、復堂は海賊に近いのか赤松連城師より、入竺居士の号を貰った。復堂が僧であったら入竺沙門と来て唐へ留学した弘法大師の入唐沙門釈空海と同格、否以上である。さて復堂何等が故に入竺せしかと尋ぬれば…
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野口復堂 似顔絵
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野口復堂(善四郎 1864?-?)は無名の噺家、否、“教談家”である。坊主や学者先生の小難しい講演会の余興に、軽い道徳訓話や歴史物語やらを巧みな話術で披露して、座を盛り上げるのが稼業であった。明治の末年頃、講談界に「教談(教育講談)」という聞きなれぬ一派を開いた復堂師匠の、とっておきのネタのひとつが、二十三歳のみそら単身乗り込んだインド亜大陸での武勇談。彼が速記者を前にして、その『四十年前の印度旅行』を「口から出まかせのまゝ」語りだしたのは昭和二(1927)年の秋。思えば今年、平成十一(1999)年からは百十一年前の思い出ばなしであります。
無名の明治人、野口復堂はいったい何ゆえインドへと旅立ったのか。それはなんと大それたことに、『佛教復興』のためだった…。
▼近代仏教史の発見
この地球の人類世界を、宗教なるもので色分けした場合、我が日本国は『仏教国』とみなされることが多い。(たいてい「民族宗教」の神道とまだら模様に混在させられているが…)しかし、そういう『世界宗教地図』を見せられて、しかと納得できる善男善女が、日本に果たしてどのくらいいるだろうか。日頃から仏教への共感をあたためている筆者にも、そんな大それたこと公言する勇気はない。
たしかに日本の仏教は千数百年の長い歴史を誇り、有形無形の様々な文化遺産や思想を残した。伝説の霧のかなたにいる聖徳太子は別格としても、聖武天皇による東大寺大仏殿の建立、最澄と空海の入唐求法と天台・真言各宗の設立、親鸞・日蓮・道元などの鎌倉新仏教、あるいは戦国の一向一揆など。“一般教養”としての日本史は、仏教との関りなしには成立しない。だが、それはせいぜい江戸時代までのことだ。「日本仏教の歴史」として語られる範囲に、明治以降の近代史が含まれることはマレ。日本仏教は江戸の国家仏教時代を経てゆっくりと衰弱し、明治維新に伴う廃仏毀釈で徹底的に凋落した。仏教が近代史に占めた役割は、ひいき目に見ても傍流(サブカルチャー)に過ぎなかった。そして現代。我々はかつて仏陀の教えに覆われた島国に残る、わずかな仏教の余韻(よいん)に浸っているだけなのかもしれない。
だから、近代仏教史はいうならば日本仏教栄光の歴史の“オマケ”に過ぎない。筆者も長らくそう思ってきた。しかしある時、明治時代に刊行された仏教新聞をまとめて読む機会を得て、そんなステレオタイプの認識を改めざるを得なかった。近代とは、日本の仏教が世界に開かれた時代だった。なかんづく釈尊の故国インドとはじめて直接の交流を持ち、それまで「小乗仏教」として観念的批判の対象としてきた南方アジアの上座仏教諸国(タイ・ミャンマー・スリランカなど)と少なからぬ交渉を結んだ点で、少なくとも日本仏教界の視座においては画期的な時代だった。ではその交流は、具体的にどんな形ではじまったのか?
▼白人ブディストと講釈師と『佛教復興』
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オルコット大佐銅像(コロンボ)
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おどろくなかれ、近代という時代の大舞台で、南北の仏教を数千年ぶりに結びつけたのは、ひとりのアメリカ人だった。そのひとの名はヘンリー・スティール・オルコット(1832〜1907)。オルコット大佐という呼び名で知られ、『神智学協会(Theosophical society)』というオカルト組織の会長を務めた仁である。冒頭で紹介した“噺家”の野口復堂が、わざわざインドまで迎えに行った人物こそが、このオルコットだった。先回りして言えばこのとき、野口は上陸したインド・マドラスの地で、極東の新興国・日本からの最初の特別使節(スペシャル・デレゲート)として迎えられ、国賓級の大歓迎を受けたのである。
筆者はさすがに驚愕した。近代日本とインドとを結び、仏教復興のきっかけを作ったのが、無名の講釈師と、ヤンキーのオカルティストだったとは。明治二十二年の忘れられたミッションの顛末について、この連載の前半でじっくり解き明かすつもりである。どうぞお楽しみに。
少しく鳥瞰するならば十九世紀後半、近代日本の覚醒と時を同じくして、インドを中心とした南アジアでは、貶められてきた民族の精神文化を取り戻すべく、仏教やヒンドゥー教などの『宗教復興運動』が沸き起こりつつあった。その潮流はアジアを浸食する欧米の植民地主義への抵抗の揺りかごとなり、のちに先鋭的なナショナリズム運動へと展開してゆく。
たとえば他のアジア諸国と少なからず共通の課題を抱え近代化に突入した「日本仏教の近代史」を、その潮流のなかに位置づけたとき、いったい何が見えてくるだろうか。
▼アナガーリカ・ダルマパーラと日本
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アナガーリカ・ダルマパーラ銅像(ゴール)
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そんな事をつらつら考えていたとき、筆者の前にもう一人気になる人物があらわれた。明治二十二年、オルコット大佐とともに日本を訪れた一人のスリランカ青年である。その名はアナガーリカ・ダルマパーラ(1864〜1933)。彼は南アジアの仏教国スリランカ(旧セイロン)に生まれ、イギリスの植民地支配に喘ぐ祖国で、仏教の復興を図った先駆者、建国の父として記憶される偉人である。
ダルマパーラは自ら創設した『大菩提会(Maha-Boddhi society)』の活動を通じて、西欧社会のインテリ層に仏教を普及させた。またインドの仏教聖地ブッダガヤの復興を呼びかけ、北伝大乗仏教と南伝上座部仏教の相違を越えた世界仏教徒の連帯を訴えた。《ユナイテッド・ブッディスト・ワールド》彼の創刊した雑誌にはそんな大それたスローガンが掲げられていた。
その一方で、ダルマパーラは、生涯かけてスリランカ仏教を「ナショナリズムの柱」に仕立て上げた人物でもある。彼は世界三大宗教のひとつ、仏教の数少ないミッショナリーでありつつ、シンハラ民族の栄光を仏教と結びつけた民族主義者でもあった。
ダルマパーラの一生は日本との密接な関係で彩られている。前述の野口復堂とは終生の友情を結んだのをはじめ、生前四回も来日し、高楠順次郎・田中智学・大川周明・岡倉天心といった思想家とも交流をもったといわれる。しかし、南アジアへの日本人の無関心も手伝って、日本での知名度はあまり高くない。
ダルマパーラは終生、日本に対して信仰にも似た期待をいだき続けていた。なぜなら、彼の眼に映った近代日本とは、世界で唯一、西欧キリスト教列強と敢然と対峙するアジア『仏教国』の希望の星だったからだ。西欧の白人キリスト教諸国による支配に甘んじていた十九世紀アジア、その屈辱の時代をアジアの隷従民として生きたダルマパーラは、偉大なるアーリヤの教え、仏陀の教説こそが、アジア復興の精神的原動力となると信じていた。ゆえに彼は『仏教国』日本の発展に成長に期待したのである。
▼近代アジアを貫くカルマ
ダルマパーラは単なる仏教者としてではなく、あるときは民間外交家、あるときは反英闘争の志士、あるときは大アジア主義・汎アーリヤ主義のビジョンを説く預言者として、日本人の前にたちあらわれていた。筆者は残されたわずかな資料から、ダルマパーラと日本の関係をたどってゆくうちに、近代史の荒波のなか、自らの出自に誇りを持たんとしたアジアの知識人が、どうしても引き受けねばならなかった『業(カルマ)』の如きものを感じて胸を打たれることしばしばだった。
連載の後半では、ダルマパーラの生涯と日本仏教界の動向とを並列的に眺めてゆく。そして彼の独特の仏教観と多彩で陰影に富んだ活動に、日本の仏教あるいは『仏教国日本』という(座りの悪い)国家像が果たした役割について、考えてみたいと思う。
▼仏教史という『窓』を通じて
京都生まれの講談師。アメリカ人の神秘主義者。スリランカの民族主義者。まったく噛み合いそうもない取りあわせの人物が、いくつかの旅を通じて巡りあい、激動のアジア近代史に足跡を残した。なんとも胸がわくわくするような話ではないか。本編『大アジア思想活劇』は、三つの旅の物語を主題として描かれる歴史発掘紀行となるだろう。第一が野口復堂のインド旅行。第二はオルコット大佐の日本講演旅行。そしてアナガーリカ・ダルマパーラの四回の来日である。
そして連載では、大それたことに近代の精神史とりわけ仏教史というテーマにも足を踏み込むことになる。かといって「私たちは何ものなのか 私たちはどこから来てどこへ行くのか」という類いの、人間が抱く根源的な問いに答えうる文章はきっと紡げないと思う。しかし仏教という偉大な精神文化は、近代という時代においてもなお、日本人が広大な世界へと自らを“開いてゆく”窓、普遍への回路であり続けていた。その窓を通じて世界と向かい合った先人たちの情熱と幻滅とを綴るマイナーな歴史の探索をこれから始めたいのである。その営為をつうじて、「いま・ここ」に生きる私たち、わずかな伝統の余韻(よいん)を呼吸して暮らす私たちに、いくばくか響きあう読み物、思索の素材を提供できるのではないかと筆者は自負している。
一介の若造ライターによる拙い歴史ノンフィクションに過ぎない。往時の資料はかなり散逸が進んでおり、また語学も拙い筆者の資料読解と取材能力の不足から、野口復堂の生没年といった基本的な情報の確認さえついてない点がまだ多く残っている。読者のガイドをするつもりが、思わぬ迷路に連れ込んでしまうかもしれない。逆に、これからメールマガジンの連載を続けるうち、走りながら明らかになる事実もまたあるだろう。願わくば、この連載にお付き合いいただく過程で、購読された方々がモヤモヤと、先人への共感と歴史への想像力とを馳せてもらえれば幸いであります。
なにはともあれ、すべてのはじまりは、冒頭で紹介した野口復堂のインド旅行。だから、この“大アジア思想活劇”も、彼の冗舌に耳を傾けるところから始めるより仕方がない…。(以下次号)
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