大アジア思想家列伝三 林董(はやしただす)
・旧幕府軍と函館に拠る
・ロンドンで仏教に関心を抱く
・イスラム教、ゾロアスター教を日本に紹介
・日英同盟締結に尽力
▼旧幕府軍と函館に拠る
林董(一八五〇〜一九一三) は明治時代を代表する外交官のひとりである。嘉永三年に佐倉藩の蘭医佐藤泰然の子として江戸に生まれ、幕医林洞海の養子となる。林董の父佐藤泰然は長崎で四年間遊学し、蘭学と外科術を学んだ。佐倉に移住した天保十四年十月、同地に病院を開き、「順天堂」の額をかかげ施療のたからわで医学教育もはじめた。その後門人も増え、西の適塾(緒方洪庵塾)とならび称される程になった。その学風は緒方塾がもっぱら蘭学を主としたのにたいして医学学理と実際を併せ教えたところに特徴があったという。
徳川幕府の崩壊期に、幕府留学生として渡欧した林董は、明治初年、江戸幕府をめぐる事態の急変を知らされ帰国の途につく。途中セイロンにおいて上野戦争野勃発の報を知った。林は帰国後、父母に別れを告げたあと、榎本旧幕府海軍とともに、五稜郭に拠る。函館戦争より生還し官軍捕虜となった後、腹蔵あって和歌山藩(前述したように、この頃の和歌山藩は津田出や北畠道龍の指導で突出した軍事力を誇った)に出仕した。廃藩置県の後は明治新政府に仕官し、明治五年には岩倉使節団に従ってイギリスに赴いた。
▼ロンドンで仏教に関心を抱く
彼は使節団に伴って滞在したロンドンで、当地に留学中の島地黙雷・赤松連城(共に真宗西本願寺派の指導者)と交流し、仏教への深い関心を抱くようになった。特に赤松とは肝胆照らす仲となった。「赤松氏は、屡々予の寓居を訪うて、談話、午前の一、二時にも及ぶことあり。予が仏教に興味を持ちたるは、此人の談話を聞くに起因したり。氏は、予が最も尊敬する数名の知人中の一人なるが、帰朝後は職務待遇を異にし、且つ住所も隔りたれば、本意ならずも平生は甚だ疎遠に経過し居れり。」(「後は昔の記・他 林董回想録」由井正臣校注 昭和四十五年十月十日 初版発行 平凡社東洋文庫)
▼イスラム教、ゾロアスター教を日本に紹介
ちなみに岩倉使節団一行は復路にセイロンへ寄港しており、久米邦武が『米欧回覧実記』のなかで見聞記を残している。林は明治十六年の五月、有栖川宮威仁親王の英国留学の帰路に随行員としてセイロンに立ち寄った際、歓迎の席上で、「わが日本もセイロンと同じく仏教国である。」と述べ、日本とスリランカ間の仏教交流の発端をつくった。その後も釈雲照、釈興然の後援者として日本仏教の復興を影ながら支えてきた。また、ゾロアスター教やイスラム教の概説書を翻訳し、日本に初めて紹介したのも彼なのである。(「火教大意」「馬哈黙伝」)
▼日英同盟締結に尽力
外交官としては明治三十三年に英国公使として日英同盟締結に尽力し、三十八年には同駐英大使として同条約を改定。三十九年五月からは外務大臣も務めた。大正二年七月没、青山墓地に眠る。( 『日本人名大事典』平凡社 1938.3,参照)
著書には自伝『後は昔の記・他 林董回想録』がある。同書は日英同盟締結交渉の際ロンドンで起稿した「林董伯自叙伝 回顧録」と、明治四十三年に時事新報社から出版された口述記「後は昔の記」、林の死後に時事新報に連載されながらも当時は発禁とされた「日英同盟の真相」(第一回日英同盟締結に到る外交記録の詳細な口述)を合冊したものだ。前二者は重複する記述も多いが、幕末明治を生きた有能な外交官の自叙伝として貴重な記録であろう。説話集として読んでも面白い。
林董は、いまではほとんど忘れ去られているが、その事跡は驚くほどに広範囲に及んでいる。これから再評価が待たれる人物ではないだろうか。
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