コラム:明治日印交流史〜仏僧の巡礼からインド人婿養子まで〜
・明治人とインド(1) 島地黙雷の欧州歴訪とインド上陸
・明治人とインド(2) 北畠道龍のブッダガヤ巡礼
・明治人とインド(3) インド公式訪問第一号 多田元吉
・明治人とインド(4) お雇い外人モレルについて
・明治人とインド(5) 外国人婿養子第一号になったインド人
・詫び口上と予告
▼明治人とインド(1) 島地黙雷の欧州歴訪とインド上陸
さて、ここで先ほど野口復堂の言に出た、渡印した日本の坊さんお歴々の履歴を述べておきたい。ついでに維新から明治二十一年までのインドと日本の人的な交流についても、筆者が調べた範囲で御紹介したいと思う。なかなか面白い人間模様が伺えて興味が尽きなかった。
復堂が名前を挙げた北畠道龍、南條文雄、赤松連城はいづれも浄土真宗の僧侶である。このうち赤松連城について手元の資料では、彼がインドに上陸したという確証は得られない。あるいは復堂の記憶違いかもしれない。
インドを訪問した日本人の嚆矢とされるのはやはり浄土真宗(西本願寺派)僧侶の島地黙雷(1837-1911)である。明治五(1872)年一月、黙雷は本願寺連枝の梅上沢融に従い、赤松連城らと共に欧州歴訪の旅に出た。この年、東西本願寺は相次いで欧州に人員を派遣し(東本願寺は法主みずからが訪欧)ている。仏教廃滅の危機を打開するためヨーロッパ各国の宗教政策を視察するのが目的だった。
島地黙雷は渡欧中、岩倉使節団の一員として同じく欧州にいた木戸孝允と頻繁に会合し、明治政府の宗教政策を転換させる方策を検討していた。欧州視察を終えた黙雷は、トルコ・ギリシア等を経てエルサレムを訪う。仏教徒としてエルサレムの土を踏んだのは彼が最初だという。そしてエルサレムからの帰途にインドはボンベイに上陸。北インドはアラハバード(ヒンドゥー聖地ヴァラナスィーやブッダ初転法輪の地サルナートにも近い)周辺の仏教遺跡を巡拝した。明治六年七月に帰国した黙雷は、欧州仕込みの『信教の自由』を旗印に浄土真宗の大教院離脱を指導し、廃仏毀釈によって虫の息となっていた日本仏教復活の端緒をつけたのである。
▼明治人とインド(2) 北畠道龍のブッダガヤ巡礼
これに続き、日本人として初めて仏陀成道の地ブッダガヤを巡礼したのは、同じく浄土真宗西本願寺派僧侶、北畠道龍(1820-1907)である。彼は宗教者というよりは一大の豪傑と呼ぶがふさわしい人物であった。紀州出身の道龍は僧侶だてらに軍事の才があり、第二次長州征伐の戦闘では一隊を率いて奇兵隊をけちらし、幕府軍のなかで孤軍気を吐いた。維新前後には津田出とタッグを組んで和歌山藩の兵制をプロシア式に改革。廃藩置県の時点で、道龍が育てた和歌山軍は恐らく日本最強の軍隊だったのではなかろうか?
上述の島地黙雷にせよ赤松連城にせよ、木戸孝允との交遊に見られるように、真宗西本願寺派の長州閥として明治政府要人と太いパイプを持っていた。深刻な資金難で苦しんでいた明治革命政府は、全国に信徒のネットワークを持つ浄土真宗(とくに西本願寺派)の資金力に依存せざるを得なかったのだ。
だから、廃仏毀釈から神道国教化の瓦解にいたる経緯もよくみてみれば、仏教が神道主義者にやられっぱなしとは必ずしもいえず、権謀術数にたけた真宗の政僧グループが勤王気取りの書生連を手玉にとった作戦勝ちという観方もできるのである。これはこれで面白いテーマだが、首を突っ込むと何年経っても話が前に進まないので端折っておく。
ところで紀州出身の北畠道龍は批判勢力の首領として、宗門内の長州閥グループと激しくやりあった人物だった。明治十二年、道龍は明如法主を東京に連れ去り、本願寺の東京移転と西本願寺派の大粛正を宣言する。宗門は大混乱に陥った。この騒動は、明如の京都帰還によってひとまず道龍の負けで収まるのだが、宗門内の危険人物をなんとか遠ざけておきたいと考えた西本願寺派首脳は、明治十四年八月十八日、道龍に海外視察の命を出した。
洋行視察費四万八千ドル。時価に直して八万一千六百円、当時の本願寺一ケ年分の総費用が十万円内外という時代にあって莫大な資金と随行二人を付けられて、道龍はしばし国外追放を仰せつかったのである。本願寺当局がいかに道龍を恐れていたかがわかるというものだ。明治14年末に横浜を発った道龍は、すでに六十二歳。ふんだんな資金にものを言わせてドイツ・オーストリア・イギリス・ノルウェー・ロシアなどを歴訪し、各国要人と会見した。二年近くの欧州歴訪を終えた道龍は、明治十六(1883)年十一月インドはボンベイに上陸。難行のすえベナレス(ヴァラナスィー)を経てブッダガヤに到達した。釈迦牟尼が悟りを開いたと言われる仏教の根本聖地である。
イスラム教徒の侵略によって荒廃したブッダガヤの聖地は、その頃ようやく発掘・復元作業の手が入りつつあるところだった。道龍は半ば地中に埋まっていたブッダガヤ大塔を釈迦の墳墓と勘違いし、感極まって阿弥陀経一巻を誦した。そして現場監督のインド人ダークベンゴに頼み込み発掘品の一部である大塔の石片を譲り受けた。加えて大塔の傍らに四尺余の石碑を建てて、自らの仏蹟巡礼の証としたのである。さて翌年一月二十四日、トルコ帽に毛皮の外套という風体で横浜に降り立った道龍が木挽町厚生館で開いた帰朝講演会の演題は、
『キリスト教の沿革を述べて、釈迦教の今日を断じ、みづからルーサー(ルター)の位置に立つ
帰朝途次、天竺に釈迦の霊地を訪い、大日本道龍礼拝すとの石碑を建つ』
再び仏教改革の獅子吼を発した道龍。一時期もてはやされたものの、晩年は不遇だった。宗門からは飼い殺しの末僧籍剥奪にあい、大阪の陋巷に逼塞してその生を終えたのである。八十八歳の大往生ではあった。一代の傑僧、北畠道龍。そのスケールのでかさは同じ紀州人の南方熊楠を髣髴とさせる。詳しい伝記は神坂次郎さんの小説「天鼓鳴りやまず 北畠道龍の生涯」(中公文庫 1994)をお読み頂きたく存じます。
▼明治人とインド(3) インド公式訪問第一号 多田元吉
もうひとり、復堂が名前を挙げている南條文雄(1849-1927)は浄土真宗大谷派(東本願寺派)の僧侶。明治九年から十七年まで英国留学し、マックス・ミューラーに師事した明治を代表するサンスクリット学者である。日本で最初に文学博士の学位を授与された七人のひとりでもある。彼がインドを訪れたのは英国から帰国した後の明治二十年。コロンボまでは乃木希典と同船であった。カルカッタを経てブッダガヤを訪うた文雄は、その地で北畠道龍の残した石碑も目撃した。南條文雄は日本からスリランカへ渡った留学僧ネットワークに深く関わっているので、章を改めて詳しく触れたいと思う。
でもなにも坊さんばかりがインドへ渡ったワケではない。仏教界では内輪の記録が比較的よく残っているだけの話である。インドへの航路は明治維新後には開けていたから、他にも何人かの日本人がインドを訪うていたかもしれぬ。そんななか、インドを公式に訪問した日本人の記録を調べていると、意外な人物に巡りあった。元徳川家に仕えた帰農武士、多田元吉である。
明治二年、多田元吉は静岡県丸子の赤目ヶ谷に土地五町歩の払い下げを受け、茶園を開く。明治八年には勧業寮に出仕し、「日本に紅茶生産の基礎を勧業奨励する方針に沿って確立すること」(『茶の世界史』角山栄 中公新書 1980 p158)を使命として働いていた。いまでは想像もできないことだが、維新から明治中ごろにかけて、茶葉は生糸と並んで日本の主要輸出品だったのである。上述『茶の世界史』によれば、アメリカやカナダでは日本の緑茶がミルクや砂糖を入れて盛んに飲まれていたという。紅茶と緑茶は世界市場で激しくしのぎを削っていたのだ。
紅茶も緑茶も同じ茶葉から加工されることには変りはない。多田元吉は日本茶葉の販路拡大のため、欧州で需要の高い紅茶産業を日本でも育成する使命を託されていた。そして彼が製茶技術習得先として訪うたのが、インドだったのである。明治九(1876)年三月、多田元吉は石河正竜、梅浦精一とともにインド紅茶生産地ダージリンとアッサムを訪問し、コロネルモニイから茶樹耕種培養法を学んだ。翌年帰朝した多田は、インドで学んだ製法を高知県下で実験し、紅茶五千斤を輸出して好評を博したのである。
というわけで、インドを公式訪問した日本人第一号の栄誉は野口復堂ではなく、多田元吉に冠せられるべきだろう。もちろん製茶技術研修と日本仏教使節とでは、その意義は大きく異なるけれど。ちなみに、多田がインドからもたらした製茶技術はそののち全国各地に広められる。しかし肝心の茶葉輸出は中国茶やインド茶との競争に敗れ、明治二十年代を過ぎると衰退の一途を辿ってしまった。
▼明治人とインド(4) お雇い外人モレルについて
お次はインドに行き損ねた日本人のお話であります。行き損ねたとは変なお題だが、もし本当に行っていたら多田元吉や島地黙雷よりも早かったはず。
エドモンド・モレル(Edmund Morel, 1841-1871)というイギリス人お雇い外人がいた。日本初代の鉄道兼電信建築師長として、明治三(1870)年三月九日に来日した草創期の「お雇い」である。まだ二十代の若き鉄道技師として、セイロン島の鉄道建設を終えたばかりだった。モレルは着任まもない三月二十五日、汐留付近から測量を開始し、新橋〜横浜間の鉄道建設に鋭意努力を傾ける。
しかしモレルは結核を患っていた。症状が悪化してからも、微熱が続く体をおし生き急ぐように工事現場の巡視を続けたモレルだったが、翌年九月十九日には療養のためインドに転地することが許可され、療養費として金五千円も下賜された。転地するモレルには鉄道権助の佐畑信之、鉄道中属の松田金治郎、水谷六郎、瓜生震の四人が「インド地方での鉄道組み立て、汽車運転法の実現のため」(『お雇い外国人4 交通』山田直匡 鹿島出版会 1968 p153)随行する手筈となっていた。
モレルはその四日後に急死する。佐畑ら四人のインド行きも工部省が九月二十七日に出した通達によって正式に中止が決まった。モレルを献身的に看病していた日本人妻も後を追うように結核で死去。「夫婦の遺骸は横浜山の手の外人墓地に埋葬され、墓のかたわらに遺愛の白梅を植えたところ、その後不思議にも一枝に紅白の花をつけ、当時「連理の梅」として名所のひとつになった」(同上)という、なんだかいい話も残っている。
▼明治人とインド(5) 外国人婿養子第一号になったインド人
締めのお題は婿養子。日本が鎖国による平和な孤立を破り、開国を余儀なくされたことで、発生したのが『国際結婚』という問題でした。明治三十二年七月の条約改正によって外国人内地雑居が認められるまで、欧米に留学したエリートを別とすれば、日本人と外国人の接触は横浜や築地などの外国人居留地に限られていた。それでも居留地の外国人(圧倒的に男性が多かった)と日本人女性との結婚というドラマはいくつも生まれたわけで。
外国人と日本人との婚姻規則を定めた最初の法令は、明治六(1873)年三月十四日付で公布された太政官布告第一〇三号である。全文を転載するのは煩わしいので要旨を述べれば、日本人が外国人と結婚する時は日本政府の許可が必要であること、外国人と日本人の結婚における妻の国籍は夫の国籍に従うこと、外国人が日本人の婿養子になる時は日本国籍に入ること、等が定められていた。ここで問題になるのは最後の婿養子。
「太政官布告一〇三号の条項のなかで、各国の公使たちが反対し、いろいろなところで問題になったのは、外国人婿養子・入夫制度である。…外国人が日本人の婿養子・入夫となる国際結婚の形式は、夫となる自国民の男が自国籍を捨てて日本国籍を取得する事例であり、外国側にとっては理解が困難な制度であった。」(『国際結婚第一号』小山騰 講談社選書メチエ 1995 p169)
外国人にサザエさんの家族関係を説明するのは大変なのであった。さて、いろいろと物議を醸した日本の婿養子制度と国際結婚だが、日本初の外国人婿養子は実はインド人だったのである!上述の小山氏の著作でも、巻末の国際結婚リストに記載してあるが、本文では一切触れていない。当事者がまったく無名の庶民だという事もあり、資料が揃わなかったためだろう。(かわりに初代・快楽亭ブラックの婿入り日本帰化の経緯が触れられている。官憲の身辺調査記録によれば、ブラックは筋金入りのホモだったそうだ。)筆者が実見した資料もたった一通の公文書だけ。国立公文書館でインドがらみの公文書を検索していた時に偶然みつけたものだ。
『太政類典第四編 明治十三年 第五十二巻 第六類 民法 婚姻 継嗣 親属 財産 契約 賃借 雑』という長い名称の公文書である。上質の和紙に毛筆で清書された和綴じ文書。驚くほどに保存状態が良い。和紙ってすごい。実際の記載とは前後するが、この一編の文書をもとに、外国人婿養子第一号となったインド人の結婚顛末を辿ってみよう。
県令 野村靖貴下
結婚願
横浜区松影町三丁目七拾六番地平民前田喜代二女
前田ミ子(みね)
文久元年十月十日生
本月廿年一ヶ月
奉申上候 英国支配インド国デライ人アリキハースンナル者ハ当港居留地百拾五番館ニ有リテ在留拾六年ニ至候処同区寿町三丁目五番地小川新六ノ媒酌ヲ以テ私婿ニ貰受度候ニ付親類協議致シ候処異存無之就テハ(明治六年三月十四日太政官第百三号)公布に基キ御許容被成下度一統連署以テ此段奉願候也
明治十三年第十月五日
右実母
前田喜代 印
前田ミ子 印
Allick Asam.
媒酌人 小川新六 印
戸長及川■人代理
筆生 川島竹之助 印
(■部分は判読できず。匚(はこがまえ)内に縦に点がふたつ。正人?)
以上の結婚願に前田ミネの戸籍写が付されている。ミネの実父は前田粂吉といい、このときは既に死去していたようである。文書によれば、アリック・アッサムは横浜港の外国人居留地で在日十六年に及ぶ英領インド人だという。本当だとすれば維新前から日本にいた古株の外国人だ。おそらく若い頃から横浜のイギリス人商会に勤務していたのだろう。前田ミネとの馴れ初めは全く分らないが、親類にも認められた上での結婚だったようである。
インド人を婿に迎えたいという前田ミネの願いを受け、県当局はまずイギリス領事に問いあわせた。イギリス代任領事のマルデン・ドーメンは十一月十日付で結婚につき了承する旨の簡単な書簡を県令野村に送付している。了承を受けた県では十二日に再度イギリス領事館に照会の文書を送った。太政官布告第一〇三号に基づき、外国人が日本人の婿養子になる場合は日本国籍に移動することを念押しした形である。これに対し翌日の十一月十三日、ドーメンは返答を与えた。要旨を現代訳すればこんな感じ。
「先日は(ミネとアッサムが)婚姻を取り結ぶ件につき、英国政府において異存はない旨を通知した次第である。しかしその後、先日付の貴翰によれば本件は特殊の結婚であり、日本の養子規則によってアッサムを貴国民とし、我国の国籍より除籍する事は差し支えないか否か確認したいとの照会があった。我国では1870年の外国転籍法第六款に準拠し、すべて我国人は他の国に転籍し、英国臣民の義務を捨てることが可能となっている。よって何時でもアッサムの望みに任せ、その国籍を変更することは問題ない。アッサムが日本人となった旨の通知があれば、早速我国の籍よりその名称を消除いたします。」
なんだ随分あっさりとしたもんじゃねぇか。たとい大英帝国臣民とはいえ、アッサムは植民地インド出身者。取り立てて問題にすることもないと考えたのかも知れぬ。前田ミネとアッサムにとってはこれが幸いしたようだ。英国領事の許諾を得た神奈川県では、同年十二月一日、内務省に宛て伺いを出した。
政府内の審査をへて、インド人アリック・アッサムの婿入りが認められたのは結婚願提出から約三ヶ月後。日本初の外国人婿養子が誕生したその日は、奇しくも明治十三年十二月二十五日のクリスマスでありました。
▼詫び口上と予告
余談に興じているうちに、紙面も尽きてしまいました。前号で予告した復堂とオルコット大佐の対面記は次号に持越しさせていただきます。誠に申し訳ありませんが、これも行き当たりばったり連載ならではの粗相にて、御勘弁願います。次号『第アジア思想活劇』では明治演芸史と近代日印交流史を両方いっぺんに塗り替える大発見、とは大げさですがとっても素敵なお話を披露させていただく予定です。では今宵はこの辺で。あなかしこ穴賢。
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