コラム「野口復堂インド道中教談」仏蘭西郵船編
・食卓の紛争 日仏談判英の仲裁
・脱線後日談 新潟山中異人の涙
明治二十一(1888)年九月九日、身重の妻への想いを涙で断ちきり、フランス郵船デショミナ号でひとり神戸を発った野口復堂センセイ。オルコット大佐の日本に招き日本佛教を救わんがための気宇壮大な天竺旅行が始まった。顛末は追々に述べるとして、まづはその船中珍談をお楽しみ下さい。(以下、復堂センセイの講釈です)
▼食卓の紛争 日仏談判英の仲裁
その時分日本には外国行きの船がまだ無いので、フランスの郵船デショミナ号に乗ったのであるが、なんとなく居候格で気兼ねな処多く、日清日露戦争後日本人は外国旅行に肩幅広いが、当時は両大戦争前で肩幅すこぶる狭く、船は呉淞で乗換えの面倒を見せられ、上海へ上るもの又上海より乗込むもの等もあって、晩食の時より食卓の順序が変り、復堂の左右と前の三方はフランスの美人と云うすこぶる艶福の位置となった。
一人前二本宛のクラレットは例の通りスープ皿の向うに早く飲んでくれろと待って居る。実に申分のないテーブルである。処が大に申分が出て来たのである。それは復堂側で左の端に居るフランス人がスチュアードの老人を呼び、なんだかクシャ/\話をするが、フランス語ゆえ復堂には解らない。するとスチュアードは復堂の傍に来り、下手な英語で『食卓へ寝衣のまゝ出るのは無礼である、特に貴女達に対して尚更無礼である、早く着換えてくれ』と云うので、復堂は『上に着せしは絽三ツ紋の羽織、着物は白飛白越後上布であって、決して寝衣でない』。
老人は仏客に此事を伝える。仏客は承知せず、なんだか声高にクシャクシャ怒鳴る。老人が遽てゝ飛来り『寝衣着換えねば淑女紳士はスープの匙を取らぬ故、お前さん一人他の食卓へ行くか、部屋へ退くかせよ、病人扱いにこちらから食物を運んでやる』と云うので、復堂は全く憤ってしまい、復堂の袖を捉る老人の手を振り離し『予て聞く所によれば、欧米人の間に日本の浴衣を寝衣に使用するの流行を生ぜりと、恐くは抗議の紳士は予の礼服を浴衣と見誤りしならん、そんな誤見に従って此席を退いてたまるか』と頑として動かない。老人は可哀相に泣かんばかり。
すると向側の紳士が立上って『予は英国人であるが、今や日仏両国の紳士間に服装上の議論の起こるを見て、何れが正当なるやその判断に苦しむ。しかし此の問題が我々欧州人の着る洋服の事に就てならば、無論仏紳士の言に従うであろうが、問題は日本服の言である。よって我等一列英国人は凡て日本紳士の言を正当と認め、甘んじて匙を上る。仏紳士にして匙を上ぐるに堪えねば此の食卓より退いて貰いたい』とやったので、仏紳士は反って己れが別席さるゝの恥を見るのみか、阿諛を呈した美人連には裏切られて、復堂と喋々喃々の様を見せられ、指を加えて引き下ったのである。
▼脱線後日談 新潟山中異人の涙
事こそ小さいが、外交上日仏談判英の仲裁と云う所で、日本が大に面目を施した事になる。元来英仏は猿と犬の間柄で、此の旅行後復堂のサミユル商会番頭時代に、越後全国の石油鉱区が売りに出て、サミユルに買わないかと来た時、商会は兎も角実地検分せんと、自分持山のボルネオの油田、露国バツムの油田に多年の経験ある技師を差向けて来た。其の技師は古市公威男と同じ学校を卒業した者で、フランス人である。そこで日本の支店から同行するページと云うは英国人であって、一箇月半の長の旅行中事々に啀(いが)み合い、其中に立った復堂は実に面倒であった。
恰度右に陳べた仏船食卓の老スチュアードであったが、英仏衝突の最も劇甚であったのは、何んでも旅行も終りに近く、今夜は松の湯の温泉泊りと云う其日の中食時であったと思う。日仏のは晩食時であったが、衝突は必らず食事時に限るものと見える。踏査の一行はサミユルの我等三人の他に鉱区の持主や男女の人足合わせて八十余名、山中の茶店に着き、さて弁当となって、英人は缶を手にし、『そのカバンを』と仏人に頼めば、仏人は『心得た』とカバンを開いて缶切りを出して渡した。つまり鑿(のみ)と言や槌(つち)と云う風の気の利いたやり方であるが、そこが英仏の啀み合い。
『君に頼んだはカバンを取ってくれと云うだけだ、何も開いて缶切りを出してくれとは言わぬ。フランスの紳士は他人のカバンへ無断で手を入れて差支えないかは知らぬが、英国の紳士はそんな掏兒(すり)の様な真似はせぬ』とやったので、『何が掏兒だ』、『掏兒に違いない』と、さあ之れから大論判、最後フランスの大の紳士が大きな声を出して、子供の様に『悔しい/\、俺は本国へ帰りたい』とワア/\泣くのである。一行八十余名の外に往来の者も足を停め、山中に仕事をして居る者も手を止めて見学に来る。いづれも異人の泣くのは見始めで、しかし珍しいからとていつ/\迄も見世物にして置く訳には往かず、之れより復堂の仲裁却々骨が折れたが先づ/\治まって、人足は金盥に渓水を汲んで来て、仏人に泣き顔を洗わせると云う始末であった。さてお話は本筋へ引き返して…
(野口復堂『四十年前の印度旅行』より 仮名遣いと漢字を一部改めた)
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