大アジア思想家列伝二 野口復堂(未完)
 ・野口復堂の生い立ち
 ・インド旅行・世界宗教会議出席
 ・教談の誕生
 ・教談全盛時代
 ・晩年の野口復堂
 ・野口復堂の宗教観

 ・注釈 2004/09/10更新
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野口復堂の生い立ち
野口復堂
野口復堂 似顔絵

 野口復堂(1865?〜?)元治元年生。本名は善四郎。旧姓貫名。復堂の父は京都の商人で、幕末期には薩摩屋敷・彦根屋敷と取引があり、維新の志士との交友を持っていた。善四郎の学生時代に出家(日蓮宗)して貫名無着日信と名乗り、上京二組の戸長と愛宕郡小山村の村長をつとめた人物である。ちなみに復堂の自伝的な「教談」である『珍々團』(大正二年)には、京都の商家に育った彼の複雑な家庭環境や、テロと戦争に明け暮れていた幕末京都の風俗が生々しく語られている。維新後に「新平民」となったエタ村の衆のはりきった様子、大塩平八郎の血筋を引く復堂の養母がそのタブーを維新後もずっと引きずっていたというエピソードなども興味深い。いづれまとめて紹介したい。

 さて、無著がもうけた十三人の子供はみな病弱で、不幸にもほとんど早世したのだが、残った善四郎は丈夫で利発だった。明治十年、西南の役にともない京都に移った明治天皇より学業天覧を賜り、学業俊秀のかどで官費英学校に進学したという。その後の学歴などは不明だが、成人後は英語教師をして生計をたて、平井金三のオリエンタル・ホール幹事にも名を連ねていた。
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インド旅行・世界宗教会議出席

 のちにやはり平井の斡旋で、摂津の野口家へ入り婿し、大阪府下の真宗大谷派茨木別院の三徳学校で英語教師を務めた。明治二十一(1888)年、「西洋人でも仏教を信じている人士がいることを証明するため」神智学協会会長のヘンリー・スティール・オルコット大佐を日本に呼ぶためにインドに渡る。翌年スリランカ仏教の青年指導者アナガーリカ・ダルマパーラとオルコット大佐を連れて帰国。オルコットらは日本で熱狂的な歓迎を受けた。同二十六(1893)年には、「長名話」(後に詳述)の縁でシカゴ世界宗教会議にも参加し、自ら演説したほか日本仏教訪米団(釈宗演・土宜法竜ら)の通訳を務めた。
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教談の誕生

 その後、東京に住居を移して、ユニテリアン教会にも関わりを持つ。本人の弁によれば、サミュエル商会番頭につく等、語学の才を活かして職業をいくつか転じたようだ。明治四十(1907)年頃、平井金三を通じて「日本教会」の松村介石と出会い、意気投合する。野口は遊芸出稼人の鑑札を受け、『教談』と銘打ち、本格的に噺屋稼業として打って出たのだ。大家の講談はといえばトウの昔に黄金期を過ぎ、内紛や浪曲の流行にも押され衰退の一途を辿っていた時代である…。復堂曰く、

「教談とは読んで字の如く教化を旨とせる講談にして兼てより松村介石先生は之れが必要を感じ門下生をして講談師 眞龍齋貞水に就き講談の秘訣を学ばしめつゝある際余は偶然にも先生と平井金三先生宅にて相知り先生面前にて一二講を試みしに「大に面白し大に遣るべし」と余も元より之れが必要を感じ居ることゝて直に先生の勧めを容れ真面目に扇子を取って社界に向うことゝなれり余が友人中にも余を以て狂せるもの堕落せるもの友の名を辱かしむるものと切論するものあれども余は一切之等の諸評諸論は御預りとなし恥も慮外も顧みず猛然進んで我所信を貫かんと欲するものなり…」(「教談の必要と来歴」明治四十一年 より)

 かっこいいぞ!、復堂センセイ。それから彼は日本教会(のちの道会)に幹部として関わりつつ、「根が喋りの天職」を自任して話芸による民衆教化に半生を過ごしたのでありました。ちなみに上にでてくる眞龍齋貞水は、四代目(早川)貞水であろう。貞水は内務省嘱託となって地方講演に巡回して「御用講談師」と呼ばれた。復堂先生もまた大正年間には「内務省嘱託」の肩書きでしばしば登場するので、貞水とは「御用仲間」だったかもしれぬ。
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教談全盛時代

 翌年には、松村介石によって日本教会の機関誌『道』が創刊されたが、野口復堂は平井金三とともに常連寄稿者となっている。前述のように、野口は「教談」と称する教育講談の高座を受け持っていた。これがかなり盛況を博して、日本教会の重要な事業となった。初期の『道』(道会の雑誌)の紙面からは、復堂の驚異的な博識と話術が織りなす「教談」が、一時は熱狂的に大衆に受け入れられた様子が伝わってくる。

 明治四十四年には道会周辺の人士によって「明治の心学道話」を銘打った大衆教化団体「道の会」が結成され、全国に支部をつくり教育講演会を催した。『道』の姉妹紙として『道話』も創刊。野口の教談はもちろんここでも人気連載である。野口は日本各地から満州まで、請われるまま教談行脚にかけずりまわった。

 大正二(1913)年九月の『道』には四たび来日中のアナガーリカ・ダルマパーラが寄稿しているが、これも野口復堂とのコネクションによるものだろう。このダルマパーラの記事は、初期道会とかかわりの深かった大川周明(戦前の大アジア主義思想のイデオローグ)が、インドに関心を抱くきっかけのひとつになったと思われる。

 多く口述記録だが、『通俗教談集』『忠孝の鑑』『教談嗚呼松陰』『大鼎呂』『えらい人』『大楠公夫人』など著書も多数残されている。野口「教談」のリズム感あふれる語り口は、いま読んでも、まるで声が聞こえてくるようで楽しい。往時はさぞファンも多かったことだろう。道会時代の同志、松村介石は復堂をたたえて曰く、

「教談の名は野口復堂兄の名聲と相待って已に都下に聞ゆるに至れり。本書収むるところのもは辯に成らずして文になるもの其間多少の相違ありと雖ども、野口兄が我國の頽風壊俗に發憤し、狂瀾を既倒に回さんと欲する赤誠と自任とは、一字一句の間に活躍するものあるを覺へずんばあらず。野口兄は嘗て米国に赴き印度に臻り、萬國の形勢に通じ、古今の史傳に明かなるもの、其海外の人物を紹介するも、悉く皆泰西の書を繙き而後に成る、吾人は我教談が野口兄を得て、講談上一新軌軸を出し、永く我が社會教育に貢献するところあるを信じて疑はざるなり。」(「忠孝の鑑」明治四十二年九月 序文より)
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晩年の野口復堂

 野口の道会における肩書きは一貫して幹事であり、重鎮のひとりだった。しかし大正年間に松村が純化路線を取るようになると、娯楽担当の野口はしゃべりすぎの舌禍も災いして道会から離れた。『道』の教談記事は弟子の三浦樂堂が引き継いだが、師のごとき精彩に欠く。復堂自身、関東大震災前後はかなり不遇をかこっていたらしく、畸人ぶりも常軌を逸しはじめる。昭和十(1935)年の『中央佛教』四月号記事には、子息の野口龜之助が陸軍大尉に昇進し、陸軍大学に入学とある。昭和十二(1937)年頃までの仏教系雑誌などに名前が散見されるが、その後の消息は不明。【*1】

 復堂には前出の三浦樂堂・中岡黙堂のふたりの弟子がいたが、「教談」の系譜がどうなったかは分らない。講談関係の書籍に名前が上がることもなく、『講談五百年』(佐野孝 昭和十八年)の大正・昭和講談史を概説したくだりに「この他野口復堂、天野【矢+鳥】彦なども、ある意味では記憶さるべき人物だが講談師ではない。」とそっけなく記されている程度。鋭意調査中ですが、読者の皆さまも何か手がかりがあれば御教示頂ければ幸いです。
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野口復堂の宗教観

『「釈迦といふいたづらものが世にいでゝ世間の人を迷わしにけり」迷わす者は釈迦のみか「モセス」「ジイザス」「ゾロスタア」「モハメツド」には「コンフシアス」御負けに添えて「ソクラテス」其の「ソクラテス」は美を説いて罪みとがなきに毒せられ「ジイザス」とても同じこと十字架上に愛を説き「コンフシアス」は野に飢えて忠恕の声を絶たざりき「ゼンド、アヴエスタ」は「ゾロスタア」の声劔伐と共に閃くは「モハメツド」の手の「コウラン」「モセス」は「ヘブリエ」の「ロウ、ギヴア」釈迦は八万四千の「ロウ、ギヴア」无明の闇をうち破り真如の月は空高くと喜び合いしも束の間の古き婆羅門又興り菩提樹をこそ斃しける斃し斃され迷い迷わされ抑も世人は何処に帰着すべきぞ咄世間迷執の徒よ伏して静に眠れる膝上愛兒の面を見よ仰いで木の間洩る夏の夜の月を看よ之れ我宗教観となす。』(「道」第四号明治四十一年八月より)

注釈

【*1】復堂の記録として筆者が把握しているもっとも晩年のものは、『中央佛教』誌に掲載された昭和15年9月の消息、「満州から引き揚げて世田谷区北澤に寓居」というものである。復堂がどのような経緯で満州に渡ったのか、そして何故引き揚げてきたのか、臨終の時期と場所はいつなのか、分からないことは多い。2004/09/10記
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