コラム:日本仏教と明治維新
・近世仏教の姿
・廃仏毀釈の惨状
・仏教再評価のジレンマ
・世界のなかの日本仏教
▼近世仏教の姿
ここで、日本仏教が当時置かれていた状況について少し振り返ってみたい。日本仏教の歴史は、西暦538年、百済の聖明王の使者により仏像と経典がはじめて持ち込まれた史実をもってスタートした。以来、千数百年の長きに渡って、仏陀の教説は日本独自の発達と粉飾を遂げ、世界史上に誇りうる様々な文化・思想的遺産を残す。しかし「日本仏教史」として語られる範囲に、明治以降の近代史が含まれることは稀だ。ひとつには近代に先立つ江戸時代の仏教が、知識人から見て魅力の薄い存在だったことが挙げられるだろう。
「…仏教は中世より弊習を生じ、政治家の機関となり、その依頼を甘受し、相頼って以てその宗派の隆盛を謀らんとし、自家独立の志操なく、教理を研がず、仏教の本旨たる布教伝道に奮勵せずして常に装飾せる殿堂楼閣に安居し、身に綾羅絹繍をまとい、口に珍味を食い、品行不正、貴族然として貴重の歳月を経過することを得る…葬祭読経を以て仏教の面目を仮装し、殊勝然として巧みに愚民を籠絡し、巨利を得たりし栄華の夢は、盛者必衰の道理により、果敢なくも徳川幕府と共に敗滅し去り…」(「仏教振起策に就て」近石傳四郎 『日本人』第五十三号 政教社 明治二十三年八月)
▼廃仏毀釈の惨状
この近世仏教の後裔たちが、開国後の日本において果たした役割は、ひいき目に見ても傍流にとどまった。明治元(1868)年に王政復古・祭政一致の精神から「神仏分離令」が発布され、神社の祭神から権現・菩薩といった神仏習合の色彩が排除される。これは一種の神道原理主義ともいうべき「廃仏毀釈」(寺院の破壊や仏像・経典の焼却、僧侶の還俗などに至る仏教迫害)へと尖鋭化し、仏教界は修復しがたい打撃を受けた。江戸時代までの神仏習合によって僧侶の風下に置かれた神官らは、明治の革命によって日頃のルサンチマンを爆発させ、僧侶に還俗を強い、寺院を毀ち、貴重な文化財を次々に焼き払った。
隣国である中国や朝鮮では、仏教は歴史上幾度も公権力による徹底弾圧(廃仏)にさらされてきた。しかし仏教勢力もそのプレーヤーの一員であった戦国時代の混乱を例外とすれば、日本において仏教が、公権力の政策によって抑圧されたことなど遂になかった。明治初期の廃仏毀釈は、日本の仏教徒にとってまさに前代未聞の法難だったのである。
しかしこの危機に際して、浄土真宗信徒の間で散発した護法一揆などを例外とすれば、仏教側には自らの信仰を守ろうという気概さえもほとんど見られなかった。だから明治初年の笑話としてこんな話も伝わる。
「増上寺は門前に鳥居を建て、浅草寺は本尊を観音でない事にし、下総成田の新勝寺は「当方は印度の佛神などを祭っているのではない。我国神代の不動尊(ルビ うごかずのみこと)を奉祀するものである」と曲辯して廃業を免れようとした…」(「現代佛教 明治佛教の研究回顧号」S8.7.1より)
恐るべきは、これらの珍事がちっとも「笑い話」ではなかったことだ。維新政府の宗教政策は当初、平田国学を盲信する神道主義者たちに牛耳られていた。彼らは日本の宗教を神道主義にもとづく「大教」として統合し、仏教そのものを最終的に廃滅しようと目論んでいたのだ。圧迫に対する仏教者の側の対応はといえば、前に引いた如きひたすらの迎合・媚びへつらいであった。
江戸時代、宗門改め制度によって日本人すべてが名目上「仏教徒」となった。日本における「仏教土着」は完成したのである。そしてその土着化の過程で、日本仏教は宗教的なパッションが憑依すべき超越性、「不惜身命の働きを生みだす根元の力」(高取正男)を喪失してしまったのであろうか。
もっとも明治初頭にも、仏法護持のために孤軍奔走した福田行戒(浄土宗)や釈雲照(真言宗)のような気骨ある僧侶はいた。浄土真宗は島地黙雷・赤松連城ら青年僧をいち早く欧米に留学させ、欧米の「信教の自由」の理念を用いて政府を論難した。維新政府の神道押し付け政策が迷走し、そのあまりの無内容によって頓挫した明治十年頃からは、仏教を復興し、近代化に対応させようという運動も各地で起きた。ただ総体として見た場合、仏教は旧体制のシンボルとして長く蔑まれがちな存在だった。
▼仏教再評価のジレンマ
アカデミズムの世界では、早くから学問的に仏教思想を再評価する動きはあったものの、それもまた矛盾をはらんでいた。
「学者社会の仏教を信ずるハ、単に学術的より同意を表するまでにして、熱心に信仰しあくまで仏教を挽回せんとする者の如きは甚だ稀なり。しかるに僧侶は仏教を以て哲理に附合し、学者の賛成を得んことに孜々汲々として一方に偏したるにより、宗教的の信徒は漸次減少するの傾きあり…」(前出 近石傳四郎)
近石の語る「夫れ宗教の国家に必要なるは識者の定論」も、信仰の立場にたった要請でなく、知識人の頭でテキトーに考えられた功利的な選択でしかなかった。国粋主義勃興の時流の中で仏教が再評価されたのも、西欧的価値観なかんづく一夫一婦制、廃娼運動、女権拡張、唯一絶対神信仰への帰依など、「我邦の風俗習慣を急激に変更せんとする」キリスト教に対して、仏教は「日本固有の國體を動かすの恐れなし」、つまり人畜無害の宗教とみなされたに過ぎなかった(坦山がオルコットに共鳴して語った「西欧の宗教観を単純に仏教に当てはめるべきではない」という見解の是非は、ここでは置いておく。いづれにせよ、近代日本において仏教は非常に“すわりの悪い”ポジションに右往左往せざるを得なかったのだ)。
▼世界のなかの日本仏教
しかし、しかしである。一方で、明治以降の日本仏教徒は釈迦の故国であるインドへの渡航路を手にし、これまで「小乗仏教」として単に観念的批判の対象としてきた上座仏教諸国の仏教徒とも、少なからぬ宗教的交渉を持ちはじめた。これから本書でもの語る、日本の「開国」以来の南北仏教交流は、二千五百年の仏教史上でも特筆すべき事件だった。(それがいくら一般の世相から見て取るに足らぬエピソードだったとしても!)開国と明治維新という激動の渦中において、日本の仏教徒は知らず知らずのうちに、アジア全域に散らばる仏教徒との交流の波打ち際に立たされていた。
明治維新という荒波をまともにかぶり、「天竺・唐・日本」という古典的でおぼろげな世界観から解き放たれた仏教徒たちは、「世界のなかの日本仏教」としての自己確立を、このとき真剣に求められていたのである。
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