第九章 野口復堂の印度旅行〜セイロン上陸編〜
 ・コロンボ上陸まで
 ・ダルマパーラとの出会い
 ・神智学協会の客人として
 ・アフマド・アラービーとの会見
《注釈》
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コロンボ上陸まで

 インド・スリランカの近代史を概観しているうちに、『大アジア思想活劇』も野口復堂先生の漫談からずいぶんと遠ざかってしまいました。ここからは心機一転、論文口調を脱ぎ捨てて、楽しく教談振りにゆきたいものであります。

 さて、オルコット大佐を日本に招聘すべく決死の覚悟でインド行きを決意した復堂センセイ。明治二十一(1888)年九月九日神戸港での涙の別れから、船は香港サイゴンと来て暑気は益々加わって、さすがの復堂センセイも船室には居れず、甲板で夜を過ごした。同船の外人は日本から仕入れし赤い金魚に皆死なれて青い顔せしも気の毒。シンガポールでは外人客相手の日本遊郭を通り、純情な彼は「恋しい様な、懐かしい様な、賑やかな様な、淋しい様な、情けない様な、恥かしい様な感じが出て」(「四十年前の印度旅行」より)なんとなく涙もこぼれてくるのでありました。

 明治二十一年、すでに多くの“からゆきさん”が、国威掲揚?異国の地で肉弾戦を演じていたのです。涙の埋め合わせに土人の棒踊りを見学し、腹をよじって笑い転げた復堂センセイ、日本を経って三週間の後、セイロン島に到着した。コロンボ到着の様子を本人の証言に頼むと次のとおり。
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ダルマパーラとの出会い

ダルマパーラと野口復堂
ダルマパーラと野口復堂 仲良し二人組(コロンボにて撮影1889年)
「(シンガポールを)離れて一週間位だと思うが、雲端幽かに認めしはアダムス・ピーク即ち錫蘭島の楞伽山である。三千年前の釈尊に始めて会った心持ちがして、思わず起って之を拝した。さて間もなく着いたのが崑崙埔(コロンボ)港である」(同上)フランス紳士との服装をめぐる国際紛争に立ち会った、老スチュアードに見送られ、波止場ではフランス三美人と、日英同盟でフランス紳士をやりこめた英国の紳商連にさようならと別れを告げて、復堂センセイは牛車(当時は唯一の乗り物だった)を雇ってズック鞄を放りこみ、ペッターはマリヴァン街の神智学協会支部へと急がせた。

「牛車と言えば遅々緩々たるものかと思えば、然うでない。トツ/\/\と牛が走るので、併し歩調が緩むと馭者は鞭を用いず、体を前屈みにして牛の臀りに噛り付くのである。」【*1】まもなく牛車は目的地に到着。神戸を発ったときからこれ一本の、羽織袴姿で名刺を受付に差し出したが、先方は復堂の異様な風体に驚いて中に飛び込む。やがて奥から現れたのは色の黒い丈高き痩せ形の跛足、求める人はこの人かと、復堂が前に歩み出せば…

『ユウ、ミスタァヌキナ、ノウ、ノグチ、アイ、ダルマパラ』両手を拡げて抱擁の時。しばらくは言葉もなくて、双方とも両眼に熱き涙を催すのみでした。

 この人こそ「梵名ザ・アナガリキャア・ダルマパラア・ヘヴアヴィテレナと云う長い名前の人で、此名を訳すれば護法居士となる。此人の戸籍上の洋名はエッチ・ドン・デヴィッドである。亡国の民となると此の煩がある。吾人大に心に銘じ置くべきである。予は此人とは初対面であるが、豫て文通だけは為し置きたれば、『此船とは思わなかった、此の次ぎか又その次ぎ位と思ったから、御迎えにも出ず甚だ相済みません』と一見旧の如く、色こそ黒けれ実に温乎玉の如き君子人である。」(同上)ダルマパーラと復堂はちょうど同年代だったこともあり、たちまち意気投合したようだ。二人は結局、復堂がオルコットを伴って日本に帰国するまで、行動を共にした。
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神智学協会の客人として

 復堂はダルマパーラの紹介で、J.R.デ シルヴァ、C.W.リードビーターら神智学協会の幹部連に迎えられた。協会二階の一室をあてがわれた復堂は、それからセイロンに約一ヵ月滞在した。隣室はこれまでも何度か登場してきたC.W.リードビーター。ブラヴァッキー亡きあと“オカルト・サイエンス”を大成し、ベサント夫人の片腕となって神智学協会を差配した霊能者である。『神智学入門』(宮崎直樹訳 たま出版)などが邦訳されており、日本のニューエイジ連にも読者を得ている。

 しかしその一方で、前述のクリシュナムルティを貧しいバラモンの親から拉し去り、救世主(マイトレーヤ)に仕立て上げようとしたり、周囲にはべらせた少年たちへの同性愛疑惑を絶えず糾弾されたり(実際、彼がなにより好きだったのは少年とのアナル・セックスとタピオカ・プリンであったそうな)と、異様なスキャンダルの絶えぬ男でもあった。まぁこのときは、三食ともバナナばかりというベジタリアン振りが復堂には珍しく映ったぐらいなもので…。

 ところでオルコット大佐はこのときロンドンに居て。ダルマパーラが復堂の到着を電報すると「凡そ一ヶ月コロンボに滞在を願う、其中に帰路につきボンベイより打合わせすべし」との返信。「ヤレ/\安心で以て、予は同島に滞在此間殆んど虚日なく、講演に次ぐ講演、訪問の交換に次ぐ訪問の交換、旧跡の歴訪に次ぐ新しい名所の歴訪…」の忙しい日々を過ごしていた。セイロンが日本からヨーロッパへの航路の途中に位置していたことは先にも記した。コロンボに滞在する日本人とて珍しくはなかったはずだが、復堂センセイは島で最高の知的サークルでもあった神智学協会のゲスト。別格扱いの大切なお客様であった。
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アフマド・アラービーとの会見

 およそ一ヶ月余りのセイロン滞在を通じて、野口復堂がもっとも印象深かった出会いとして回想しているのは、エジプトの英傑アフマド・アラービー(アラービー・パシャ 1841-1911)との会見である。はて南アジアの島国に、なにゆえ遠く離れた砂漠の国、アラブの軍人がいたのだろうか…。

 アフマド・アラービーは下エジプト地方シャルキーヤ県にある豪農の息子として生まれた。1854年エジプト軍に入隊して頭角をあらわし、1879年には大佐に昇格する。ヨーロッパ列強への従属を深める祖国を憂いたアラービーは、エジプト人将校による秘密軍人グループを組織し、立憲制の確立と外国支配の排除を目指した。その潮流は『アラービー運動』と呼ばれる民族運動にまで展開してゆく。

 1881年、アラービー大佐はついに武力蜂起を決行。陸軍大臣に就任するが、翌年にはエジプト支配を目論むイギリスを相手にタッル・アルカビールの戦に挑んだ。戈折れ矢尽き英軍の捕虜となったアラービー大佐は、いったん死刑判決を受けたのち減刑され、一族もろとも英領セイロンに幽閉の憂き目に遭っていたのである。

 復堂との会見は、アラービー大佐の幽閉場所であるシネマン公園内の邸宅で行われた。英国政府要員の厳重な監視のもと、政治談義は厳禁され、宗教と文学の範囲内での窮屈な話しあいに終始した。【*2】復堂のみたアラービーは、あたかも西南の役に散った維新の英雄、西郷南州(隆盛)を髣髴とさせる偉丈夫。そして「此時埃及(エジプト)人の女中が予に捧げしは、珈琲のエッセンスで小さきコップに入れあり、実に結構な香味であった」

 その翌年、オルコット招聘の大任を無事果たし帰国した復堂のもとに、セイロンよりアラービーの肖像写真が送られてきた。ヨーロッパ列強による植民地支配がアジア全域で猛威を振るった時代。極東の独立国より来った客人との談話は、アラブの志士にとっても印象深いものだったのだろう。アフマド・アラービーのセイロン流刑は、1901年まで続く。まだ遠いアジアの夜明けを待ち望みつつ。
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注釈

【*1】 「這般死去せし『ダルマバラ』居士が始めて日本に入りし道筋」

【*2】 セイロンで幽閉中のアラービーと会った日本人は復堂ひとりではない。横浜税関官吏の野村才二は明治二十年十二月、アメリカ欧州視察の帰路コロンボに立寄り、やはり官憲の監視下、アラービーと会見した。その記録は翌二十一年四月の日々新聞に掲載された後、小冊子『アラビー・パシャの談話』野村才二(明治二十四年七月 神奈川県戸太村)にまとめられた。アラービーは監視の目を盗み、日本がエジプトの轍を踏まぬようにと、亡国の惨状とその教訓を野村に伝えたという…。
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