第八章 デヴィット青年がダルマパーラを名乗るまで
・ブラヴァッキー夫人のインド追放
・HPBロンドンに死す
・その後の神智学協会〜仏教からメシア信仰へ〜
・スリランカ奥地への旅
・シンハラ・ナショナリズムの目覚め
《注釈》
▼ブラヴァッキー夫人のインド追放
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ブラヴァッキー夫人 |
デヴィット青年がアディヤールでの短い滞在を終えてセイロンに帰還。貝葉紙をめくってパーリ語の習得にいそしみ始めた頃、彼の崇拝するブラヴァッキー夫人は人生最大の危機を迎えていた。彼女の反キリスト的な過激な言動はインドで活動するキリスト教宣教師たちの目の仇だったが、このとき宣教師たちは彼女の起こした「奇跡」にまつわるトリックの証言者を担ぎ出し、大々的なスキャンダルに仕立て上げることに成功したのである。暴露担当はブラヴァッキーの家政婦クーロン夫人。HPBがカイロにいた時に知り合った女性で、事業に失敗して食い詰めた大工の夫と共にインドに渡り、ブラヴァッキーに「拾われた」女性であった。
1884年、神智学協会のインド上陸からすでに五年の時が流れ、彼らの南アジアにおける地位は盤石にみえた。ブラヴァッキーは安心してインドを離れ、ヨーロッパへの旅行に出かけられると判断した。油断といえばあと知恵だが、これがいけなかった。「HPBを崇拝することで始まり、最後にはHPBを憎むことによって終わった」クーロン夫人は、主人の留守を狙って、『クリスチャン・カレッジ』誌の編集者であるキリスト教伝道師に「告白」(つまりタレコミ)をしたのである。HPBを憎んで止まぬインドのキリスト教関係者は色めきたった。チャンスだ!
クーロン夫人は「HPBがクート・フーミ(神智学を霊的に指導するマハトマのひとり:筆者注)の人形を造り、月夜にそれを肩にかついで歩き回ったとか、マハトマから届いたと称する手紙を晩餐の席上で、二階の部屋から天井の隙間を通して落とすことによって「超自然的に配達された」かのようにみせた」(『オカルト』C.ウィルソン)などなどのスキャンダルを次々に暴露していった。スキャンダルの炎はすぐHPBのいるヨーロッパにも飛び火した。
同年、英国心霊研究会(SPR)はインドに調査官としてR.ホッジソンを派遣。神智学協会本部への実地調査ののち、SPRはブラヴァッキー夫人を「歴史上もっとも成功した巧妙で興味深い詐欺師として永遠に記憶に残すに値する人物という肩書きを得た」と決めつける報告書をものす。女傑ブラヴァッキーはいきりたって反論に乗り出そうとしたが、あいにく不摂生と肥満による病気をいくつも併発して満身創痍。HPBはいよいよ窮地にたたされた。
ブラヴァッキーに「いかさま師」のレッテルを張った英国心霊研究会(SP R)は主観性と思いこみが命の心霊現象に対して、科学者らしき距離を保った心霊研究の権威であった。しかし、ホッジソンの調査が果たして公平なものだったかは疑問が残るところだ。なにせ彼はHPBがロシアのスパイであり、インド人たちに“英国支配への反感”を植えつけようと画策した、とまで示唆しているのだから。【*1】それでも、敵の論証は神智学協会を大混乱に陥れるには充分のインパクトを持っていた。
小康状態を得て急遽インドに引き返し、告訴も辞さないと息巻いていたHPBも、組織防衛をはかるオルコットらの説得を受けてインドを立ち去ることを決した。1885年三月末のことである。近代オカルティズムの巨魁は、こうしてインドから、事実上「追放」された。
▼HPBロンドンに死す
ドン・デヴィットは、コロンボに立ち寄った船の上で、ブラヴァッキー夫人ともはや生涯最後となる別れを告げた。もちろん、ダルマパーラは終生一貫して、HPBは単に「バカげた陰謀の罪のない犠牲者」であり、「彼女は仏教徒であり、また仏教徒であるヒマラヤのマスターたちの代行者であった」と信じ続けたけれど。
ブラヴァッキーは残りの生涯を主にロンドンで過ごし、当地のオカルトサークルでもトラブルメーカーぶりを存分に発揮しつつ、晩年の大著『シークレット・ドクトリン』を書き上げた。やがて同書の熱心な読者であったアイルランド出身のアニー・ベザント夫人(もとはフェビアン協会の社会主義者で、一時はバーナード・ショーの愛人でもあった)と出会い、幸いにもHPBは神智学協会の未来を託すべき後継者を得ることもできた。1891年五月八日、ヘレナ・ペトゥロヴァ・ブラヴァッキーは六十歳で死んだ。
▼その後の神智学協会〜仏教からメシア信仰へ〜
こののち老将軍オルコットの指導期を経て、政治好きのベザント夫人に率いられることとなった神智学協会は、インド自治運動へのコミットを強めた事もあって次第に仏教色を払拭し、むしろインド多数派であるヒンドゥー教へと傾倒してゆく。また二十世紀に入ると、ベザントはインド人少年ジッドゥ・クリシュナムルティを「世界教師(ワールド・ティーチャー)の器」として喧伝する奇怪なメシア思想に熱中しはじめた。そのような動きはドイツのルドルフ・シュタイナーなどから痛烈な批判を受ける。神智学協会は絶え間ない内紛と疑心暗鬼を原動力に多数の分派を産み出しつつ、混迷の度を深めていった。
一方で伝統的な上座仏教への造詣を深めたダルマパーラは、神智学協会に対して次第に距離を置きはじめる。彼は1897年頃、オルコット大佐に向かって『仏教徒神智学協会』の名称から「神智学(Theosophical)」の語を取り除くことを提案したが、大佐は激怒し、撤回せざるを得なかった。ダルマパーラの恩知らずとも思える言動は、ある意味で“養父”オルコットからの「独立」のシグナルでもあった。シンハラ仏教というアイデンティティを確率したダルマパーラにとって、本家である神智学協会の八方美人のシンクレティズムはもう我慢ならなくなっていたのだ。
オルコットとダルマパーラの親子にも似た師弟関係は次第に冷えてゆく。二十世紀の初頭、両者はそれぞれのメディアを使った非難の応酬を繰り返し、1907年にオルコットが死去したのちも、ダルマパーラはベザント夫人率いる神智学協会を「仏教からの逸脱」あるいは「(敬虔な仏教徒であったはずの)ブラヴァッキーの教えからの逸脱」として激しく非難することを止めなかった。【*2】
▼スリランカ奥地への旅
ひとまず舞台を十九世紀末、1885年に戻そう。デヴィットは名家の嫡男でありながらもヘーワヴィタルネ家を離れ、『仏教徒神智学協会』の活動に全エネルギーを投入した。翌年、1886年の二月にオルコット大佐と協会幹部のC.W.リードビーターが仏教徒教育財団の募金活動のためコロンボに到着すると、デヴィットは二人とともにセイロン全島を回る二ヵ月間の演説旅行に同行した。旅行用には二階建ての大きな車(馬車あるいは牛車か?)が仕立てられ、二階にはオルコットとリードビーターが、一階にはダルマパーラが寝起きした。コロンボ生まれの都会っ子(といっても比較の問題だが)だったデヴィット。彼にとってスリランカ農村地帯への旅は、祖国が置かれた現実に対する危機感をさらに深めさせる体験となった。
「キリスト教の宣教の影響が、いかに広くかつ深いか、そしてそれが人々の核心に食い込み、国民性のあらゆる高貴なものを浸食しているか…」彼が目の当たりにしたのは、ランカーの村人の間で守られてきたはずのダルマの信仰が、“宣教師やその傭人”の攻撃になすがままに荒らされている光景だった。
▼シンハラ・ナショナリズムの目覚め
この講演旅行では、デヴィットのアジテーターとしての優れた力量が存分に発揮された。彼はそのほとんどが文盲である田舎の聴衆に向かって、オルコットが英語で話す言葉の意味をかみ砕き、ユーモアと素朴な喩えを駆使しながら伝えていった。そして後にランカーの獅子“アナガリカ・ダルマパーラ”の思想の核となった、排外的シンハラ・ナショナリズムの片鱗は、この当時の演説のなかにすでに見出せるのである。
彼はシンハラ人の高貴な“伝統”にそぐわぬ異国の習慣が村人の生活に入り込んでいることを見て、烈しく憤った。そして「若々しい熱心さで古代の繁栄を賛美し、現代のランカーの衰退を嘆いた。彼は肉食の習慣をどなりつけ、外国風の名前や衣類を用いることを罵った。」【*3】 彼が聴衆から喝采を受けたのは、「シンハラ人がマレー人から取り入れた、頭の櫛(くし)を捨てさせた」ことだった。
デヴィットはこの旅行の後、教育省での事務員の仕事も辞職してしまった。彼は仏教復興運動の若きリーダーとして、シンハラ語の週刊誌『サンダレーサ』と英文誌『ブッディスト・プレス』( 共に1888年十二月創刊) の発行準備に熱中し、仏教学校の支配人、仏教擁護委員会の事務長補佐といったいくつもの肩書きをかかえて働きまわった。その過程で、彼はヨーロッパ風のデヴィットという名前を捨て、『ダルマパーラ』(仏法の守護者)と自ら改名した。奇しくもちょうどその頃から、ダルマパーラと極東の島国・日本との接点が結ばれたのだ。
「我が愛する同交の信者よ。予は貴君らが日本において仏教哲理の弘布に尽力せらるゝを喜び、今こゝに我々が仏教のため錫蘭において運動の履歴を述ぶる…予は恵みある宗教の進歩に向って力らの及ばん限り凡ての勤務をなすべく幸を被むれり。我が仏教は人類に成仏の真の望みを与える所の教旨なり。尚再信を望む。」【*4】
日付は1888年一月。ダルマパーラが日本の仏教関係者に送った、おそらくは最初期の書簡である。
■注釈
【*1】 『英国心霊主義の抬頭』ジャネット・オッペンハイム p551 注釈
【*2】 スリランカには仏教教育の普及運動としての『仏教徒神智学協会協会』とダルマパーラの『大菩提会』が並行して存在していたが、ダルマパーラはその後も「神智」の名称の削除を主張していた。 (MBJ. Vol.21-6, Jun-e,1913, P.126. 参照)
【*3】 "FLAME IN DARKNESS The Life and Saying of Anagarika Dharmapala" Sangharakshita, Triratna Granthamala, 1995, p48
【*4】 「ダンマパラ、ヘバビタラナ氏書信」1888年一月インド発。高楠順次郎らによって創刊されたばかりの『海外仏教事情』第一集(明治二十一年十二月十八日)に掲載された。ダルマパーラは本書簡でこう述べている。「錫蘭に日本僧興然と称するものあり。自ら仏教の哲学を勉強せり。予の私見にては当国の仏教と(浄土)真宗の教義とは少しく差違する処ありと思う。されども自他感情の合同せるとには此の差違も全く消するに至るべし。併ら根本の説においては両ら同一なり。」
同じ号に掲載された「四月インド発」の書簡では、ダルマパーラはオルコット招聘運動の進捗状況につき問い合わせるとともに、自らの改名の経緯について「(仏教徒の地位回復運動に関して)現今殊に主張する所は改名の一事にて、元来我輩仏徒は蘭人の強迫に依て従来の仏称を廃し、耶称を以て其姓名を呼ばざるを得ざる次第なりしが、自今は断然耶称を排棄し仏称を回復せんとの趣旨に有之…拙生は衆人に率先して其姓名を改め此迄ドンダビット(耶蘇教名)と称し来りしを当時の名称ダンマペラ、ヘバビザラナ(仏教名)と相改め候…」と述べている。
ダルマパーラが日本についての知識を得たのは、1887年、"Fortnightly R-eview"という隔週紙に掲載された記事がきっかけだったというが、同じく「四月インド発」には「此頃貴国へ我会長オルコット氏御招請の義は平井金三氏の発起にて当時其計画中に有之由に候。右は如何相成は哉。拙生よりも数月前赤松(連城)氏に宛一書を呈し置き候。嘗て「フォルトナイトリーレヴュー」(二週一回発兌の雑誌)と云える雑誌を閲覧中其紙上にて同君の尊名を見当り候。」とあるから、彼が読んだのは日本の仏教に関する記事だったのだろう。
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