第七章 “ランカーの獅子”の誕生
 ・その生い立ち
 ・少年時代の原風景
 ・ミッションスクールでの葛藤
 ・神智学との出会い
 ・アディヤールヘの旅
 ・オカルトからパーリ語へ
←前章 次章→ 総目次


その生い立ち

アナガーリカ・ダルマパーラ
アナガーリカ・ダルマパーラ(1893年頃)
「ダルマパラなる語は梵語にして漢字に訳すれば「護法」となり。而して法名である。戸籍上の俗名はクリスチヤン・ネームでエッチ・ドン・デビッドで錫蘭人でありながら亡国の民の悲しさブリッチッシュ・サブゼクト即ち英国臣民であって生れしところは錫蘭島のコロンボで、家は家具製造を職とする。

 島中屈指の富豪の嫡男なるが、生来脚に病あり。二弟をして英国倫敦の大学を卒業せしめ、一は家職を次ぎ、他は官吏たらしめ、自分は不具者故仏門に帰依し、単身無妻にして跛足を曳きつゝ、印度内地の仏趾を歴訪し、当時マドラス市に創立なりし露国婦人マダム・ブラバツキーのセオソフィカル・ソサエチィ即ち霊智学会の第二世たる米国陸軍大佐コロネル・オルコツト氏と相知り、父子の如き交わりを訂し、帰島以後は、同島マリバン・ストリート街の霊智学会支部の長となりて、仏教再興に努力しつゝありたり。…」(「這般死去せし『ダルマバラ』居士が始めて日本に入りし道筋」より)

 野口復堂の勘所を押さえた説明を引きとって、本書のもうひとりの主人公、アナガーリカ・ダルマパーラの生い立ちに触れたいと思う。ダルマパーラは1864年九月十七日、コロンボのペッタ地区で裕福なゴイカマ(農業)カースト、ヘーワヴィタルネ家の長男として生まれた。ちょうど日本では英仏蘭米の四国連合艦隊が下関を砲撃し、長州藩があっけなく降伏した直後。大陸に目をむければ洪秀全の太平天国が、南京陥落によって滅亡した二ヶ月後のことだった。

 スリランカ南部のマータラで家具工場を経営していたヘーワヴィタルネ家は、その頃のシンハラ人エリートとしては珍しい敬虔な仏教徒であり、一族から高名な僧も輩出していた。しかし赤ん坊は当時のシンハラ人エリートの多くがそうであったように、“ドン・デヴィット”。聖書にちなんだ欧風の名前をつけられた。
↑index

少年時代の原風景

「私の一族はシンハラ人〜二千二百年にわたって途切れることない仏教の信徒〜である。私はセイロンの首都コロンボにある、先祖伝来の家に生まれた。年老いた母は、いまだにそこに暮らしている。私の最も古い記憶は、涼しいココナッツの木立のもとでインド洋から吹くそよ風に吹かれていた事、そして広々としたベランダから、シナモンやオレンジ樹の繁茂し朱色と紫の石楠花・珊瑚樹が深紅に燃え上がる庭園を見おろしたこと。

 庭園は子どもにとって魅力的な世界だった。蜂鳥は大きな果樹花の周りを舞い、陸亀は陽光の下ひなたぼっこをし、さらに蛇がからまった下生えのあいだを優雅に滑り抜けていた。あたかも庭園に住む全ての生き物たちが、この住処は〜彼等の棲息を妨げることのない〜仏教徒の手によって作られたとわきまえているかのようだった…。」("Return to Righteousness" p682)

 かつての“ドン・デヴィット”は、特別長くはないが間違いなく充実していただろう人生の晩期に、自らの幼年期をこう回想している。あたかも、彼の半生を決定づけたイデオロギーと、少年の思い出とを美しく混濁させた"原風景"のように…。筆者はデヴィットの少年時代の写真や肖像を見たことはないが、恐らく鼻筋のよく通った端正な顔立ちの上に黒々とした巻き毛を載せた、そして褐色の手足は棒のように細い、スリランカの街角のどこでも見かける、典型的なシンハラ少年だったのではないか。
↑index

ミッションスクールでの葛藤

 デヴィットは家庭では父母のもと、伝統的なシンハラ仏教徒の信仰と生活習慣を身につけていた。しかし彼が幼少期を過ごした1860年代、セイロンの学校教育はキリスト教徒に牛耳られていた。デヴィットはほんの二年間だけ私立のシンハラ人学校に通った事を除けば、カトリックやプロテスタントの宣教団が経営するミッション・スクールに通い、バーガー(シンハラ人とヨーロッパ植民者との混血)がほとんどを占める教室で英語によるキリスト教教育を受けざるを得なかった。植民地支配下でシンハリーズがいくばくかの立身出世を目指すための、それが唯一の選択でもあった。

 六歳のみぎり、ペッタのカトリック・スクールに籍を置いていたデヴィットは、学校を訪問したカトリック司教に額づき、うやうやしく彼の指輪にキッスをした。「私はそれを断って、『なぜ彼の指輪にキッスしなければならないのか』と問いただすには余りに若すぎた…」しかし、頭の回転が速く議論好きだったデヴィット少年が、植民地の教育にいつまでも従順だったはずはない。1878年、デヴィットはコロンボ北部のセント・トーマス学院に入学した。彼はそこでクリスチャンの教師に反抗して五月のウェーサク祭への参加を宣言し、懲罰を受けながらも毎年、意固地にウェーサク当日の欠席をつづけたという。

 デヴィットは読誦を強いられたバイブルを、その美しい韻律に酔いしれつつも、若者らしい批判精神を発揮して丹念に読み込んだ。「ねぇ、神が第一原因だというのならば、神はいったい誰が創造したんだい?」「もし『汝殺すなかれ』という誡(いましめ)があるのなら、どうして十字軍が起ったのですか、先生?」…キリスト教の不合理と矛盾をあげつらい、学友や宣教師に論争を吹っかけることは、デヴィットにとって一種の趣味となっていた。(また、彼がのちに欧米で仏教布教をはじめたとき、聖書に対する造詣の深さは大いに役立った。)
↑index

神智学との出会い

 デヴィット少年がセント・トーマス学園への道すがらよく通ったコタヘーナ寺院には、1873年のパーナドゥラ論戦で名高いグナーナンダ和尚がいた。聡明なデヴィット少年は当然、グナーナンダのお気に入り。グナーナンダはその頃、パーナドゥラ論戦を縁にブラヴァッキー・オルコットとの通信を続けており、デヴィットもまた、コタヘーナ寺院への訪問を通じて神智学協会への興味を抱きはじめていた。

「少年時代から神秘的な修道生活に惹かれていた私は、アラハット(阿羅漢)とアビンニャー(神通)の科学についてニュースを探し求めていた。セイロンの比丘たちはアラハットの悟りについて懐疑的であり、彼らは「アラハットは過去の存在だ。修業によって現世でアラハットの悟りを得ることはもうあり得ないことだ」と語っていた。それからのち、私は(神智学協会の機関誌)『セオソフィスト』の定期購読者になった。」(同上 p699)

 天性の宗教家気質を持ったデヴィットにとって、欧米からもたらされた新しい「オカルト・サイエンス」は若者らしい性急で短絡的な「真理への渇望」を容易に満たしてくれる、魅力的な存在にみえたのだろうか…。

 二人の白人オカルティストがスリランカで仏教に帰依してまもなくの1880年六月、デヴィットは父と叔父に連れられてオルコットの演説会に出かけた。学校からコロンボの講演会場まで、てくてくと歩いていったデヴィット。この講演会は、彼に生涯消えない強烈な印象を与えたようだ。「私はあの人たちといて、共に“さようなら”と握手を交わしたときの感激をいまだに記憶しているよ…」神智学徒との出会いから半世紀以上の後、自らの死を目前にしたダルマパーラ(かつてのドン・デヴィット)は感慨深げに回想している。そしてデヴィット少年は、短い会見のさなか、直観的に、ブラヴァッキー夫人に"溺れて"もいた。
↑index

アディヤールヘの旅

 さらに三年が過ぎた1883年三月、コタヘーナで勃発したカトリック教徒と仏教徒の衝突事件をきっかけに、デヴィットは激昂した父の命でセント・トーマス学園を退学してしまう。大学受験資格を取得する前だったので、彼は植民地支配下のシンハラ人にとって当時望みうるエリートコースからこの時ドロップ・アウトした。「デヴィット、我々はセイロンへ君に英語を教えに来たのではない。君をキリスト教へ改宗させるために来たのだよ」「先生、僕は新約聖書は好きですけどね。旧約聖書を信ずることはどうしてもできませんよ。」こまっしゃくれのデヴィットに手を焼きつつ、愛してもいた同校のワルデン・ミラー師は、退学する異教徒の教え子のため「成績優秀」の証明書を渡すことを厭わなかった。

 その後、デヴィットは教育省の下級事務官として働くかたわら、ペッター図書館で独学に励んだ。彼の読書領域は倫理学・哲学・心理学・伝記・歴史(あ、文系だ)へとやみくもに拡がった。夢見がちな青年らしくキーツやシェリの詩に耽溺してもいる。フェイバリットは叔父貴の書斎で偶然みつけたシェリの『マブ女王』。そして孤独な読書を通じて、神智学の教義(つまりオカルト・サイエンス)はますます強く彼を捉えていった。

 “ヒマラヤのマスター(ヒマラヤの聖域に住み、神智学徒を霊的に指導しているとされていた仙人)から直接に指導を受けたい…”デヴィットの渇望はますばかりだった。この年の11月、デヴィットはブラヴァッキー宛ての封書に「ヒマラヤのアデプト」への切々たるメッセージを同封した。そして翌1884年一月のオルコット来島を機に、彼はマリバン通の臨時神智学協会本部において、晴れてこのオカルト組織への正式入会を果たしたのである。

 ちなみに当時スリランカの神智学協会総裁はデヴィットの祖父が務めていた。アナガーリカ・ダルマパーラを生んだ富豪ヘーワヴィタルネ家は、その後十九世紀末から二十世紀前半にかけて、後に触れる如くさまざまな悲劇的な犠牲を払いつつも、まさに一族ぐるみでスリランカの仏教復興に献身してゆくのである。

 同年の十二月、デヴィットは神智学協会の二人の創設者に従って、インドのアディヤールへ赴くことになった。デヴィット青年の目前に、ヒマラヤのマスターへの奉仕の道がようやく開かれたのだ。しかし出発の直前、「不吉な夢」を見たデヴィットの父親は、血相変えて息子のインド行きに猛反対し、祖父やスマンガラ大長老もこぞって彼を引きとめる騒ぎとなる。

 オルコット大佐もデヴィットの同行を半ば諦めた時、同席していたHPBは「もしあなた方が彼を行かせなかったら、この子は死にますよ。私はどうしても、彼を一緒に連れていきます。」("Return to Righteousness" P.687)と言い放ち、なかば力づくでデヴィットをアディヤールへ連れていった。
↑index

オカルトからパーリ語へ

 デヴィットは当然、アディヤールの神智学協会本部で『ヒマラヤのマスター』たちに通ずる神秘主義を学ぶ心づもりでいた。肉体的にも精神的にも純粋(うぶ)だった彼は、すでに十九歳の時、自らの一生をオカルト・サイエンスの考究に捧げることを決意していたのである。しかし、ブラヴァッキー夫人はある日デヴィットを側に招き寄せると、彼に祝福を与えつつ、意外な言葉をささやいた。

「あなたが生涯を人類への奉仕に尽くしたいなら、オカルティズムを学ぶ必要はありません。パーリ語を学ぶなかで、必要なすべてをそこに見出せるはずです」(同上 P.687)

 彼をインドに誘ったのはHPB自身である。それに彼女が構築した神智学「太古の叡智」のパンテオン(カタログリスト)では、南アジアの上座仏教に最高の評価が与えられていたわけではない。彼女の意図が那辺にあったかは不明だが、いづれにせよ、ブラヴァッキーの謎めいたこの言葉はデヴィットの人生に大きな転機をもたらした。

 彼を怪しげなオカルト・サイエンスから『仏典の教え』へと転回させたのは、近代オカルティズムの祖ブラヴァッキーだった。その原体験ゆえか、デヴィットは「ダルマパーラ(仏法の守護者)」を名乗るようになって以降も終生、ブラヴァッキーを“真の仏教徒”と信じて、思慕し続けた。

 アディヤールでのわずかな滞在ののち、彼はスリランカに戻りパーリ語の学習を始めた。パーリ語の書物はまだ一冊も印刷されておらず、彼はシンハラ文字で記された伝統的な貝葉写本(ヤシの葉の写本。パーリ語には独自の文字フォントは存在せず、上座仏教を信奉する各国のアルファベットを用いて記載される)を用いて学んだ。

 語学の習得と並行して、彼はスマンガラ、グナーナンダら当代きっての学僧から伝統的な上座仏教教理について教えを受けた。デヴィットはいま、次世代のセイロン仏教をになう“ランカーの獅子”への一歩を踏みだしたところだ。
↑index

←前章 次章→ 総目次 メールマガジン窓口
著作権は佐藤哲朗に帰属します。
Copyright © 1999-2002 Sato Tetsuro. All rights reserved