第六章 白い仏教徒の闘い〜神智学協会と南アジア〜
・神智学協会インド上陸
・アーリヤ・サマージとの会見
・仏教徒となった神智学徒
・オカルティストの仏教理解
・アディヤールへの本部移転
・セイロン仏教の救世主
・仏教旗の制定・ウェーサクの祝日化
・プロテスタント仏教
《注釈》
▼神智学協会インド上陸
「旅の始まりはひどかった。船酔いに熱気と、それからアリア・サマジのボンベイ支部長から届いた多額の請求書--それがHPBを爆発させ、暴涜の言辞を吐かせた。にもかかわらず、協会の選んだ道は正しいものだった。」(『オカルト』下巻 コリン・ウィルソン p41 河出文庫1995.6.26)
1878年十二月十七日、ニューヨークを発った二人の神智学徒は、ロンドンを経て翌1879年二月十六日、インド西海岸の大都市ボンベイに到着し、積極的な講演活動を開始する。同年十月には、英文機関誌『ザ・セオソフィスト(The Theoso-phist)』を創刊し、大英帝国インド支配の協力者として育成されながら、後には独立運動の中核を担う英語を話すインド人知識層、またインド在住の白人層にも信奉者を獲得した。西欧の科学技術の独善を批判し、インドの精神文明を称賛するオルコットの主張は、イギリス植民地支配の下で鬱屈していたインド人士のプライドに強く訴えたのである。
同年十二月、ヒンドゥー教最大の聖地ベナレス(バラナシー)にある『ベナレス・サンスクリット学者(Pandit)文学協会』はオルコットを名誉会員に選出した。「異国で生まれたにも関わらず、彼はすでに紛れもなくインドの国民である!」古来よりヒンドゥー聖典の知識を守り続けてきた頑固なサンスクリット学者たちは、アメリカ生まれのオルコットを、最大限の称賛をもって迎え入れた。かくしてオルコットはひとまず“白いヒンドゥー教徒(The White Hindu)”となった。
▼アーリヤ・サマージとの会見
ボンベイ上陸からまもなく、神智学徒一行はアーリヤ・サマージのスワミ・ダヤーナンダ・サラスヴァティー、オルコットをして『インドのルター』とまで言わしめたヒンドゥー教改革運動家との会見を果たす。しかし不幸なことに、白いヒンドゥー教徒とアーリヤ・サマージのあいだには最初から微妙な思い違いが存在していた。
サラスヴァティーは神智学協会にヒンドゥー聖典ヴェーダへの無条件の帰依とアーリヤ・サマージのパトロン的な役割を期待していた。そしてサラスヴァティは神智学徒達があまりにも無邪気に「オカルト現象」への好奇心を表明するさまに眉をひそめてもいた。対してオルコットらはヒンドゥー教に限らず、仏教・ゾロアスター教・イスラム教といった、西洋人から見れば物珍しいあらゆる『太古の叡知』へ門戸を開いたシンクレティズム(諸教融合主義)…というかオカルトへの飽くなき興味に支えられた八方美人主義を保ったままサラスヴァティに接したのである。なにせ神智学協会のモットーは、“真理より尊い宗教(ドグマ)は無い”であったから。
しかし、「ヴェーダに登場する神々は名称が異なるだけで、神はただひとつである」と説いて神智学徒を感動させたサラスヴァティは、同時に「ヴェーダに帰れ」と叫ぶヒンドゥー原理主義者でもあった。言葉の壁と、調子のよい仲介者の弁舌で取り繕われていた同床異夢はやがて覚め、(この手の話につきものの金銭的トラブルに触れないとしても)アーリヤ・サマージと神智学協会との間には次第にすきま風が吹き始める。インドに幻滅を感じつつあったオルコットは、ゾロアスター教の失われた教典を発掘するため、イランへ渡って探検隊を組織する構想を練っていたという。
▼仏教徒となった神智学徒
ちょうどその頃、パーナドゥラ論戦の主役グナーナンダから、神智学協会幹部のセイロン入りを求める矢の催促が飛び込んでいた。気を良くした白人神秘主義者一行は、翌1880年五月十七日、セイロン島への最初のツアーに赴く。彼らは島南部、ポルトガル支配以来の堅牢な城壁がそびえるゴール港に上陸。待ちかまえていた僧侶連・仏教徒の群衆から熱狂的な歓迎を受けた。数日後、オルコットとブラヴァッキーは市内のウィジャヤナンダ・マハー・ヴィハーラ寺院で僧侶から三帰五戒を授けられ、晴れて仏教の在家信者とあいなりました。
「数世紀にわたり加えられたキリスト教による迫害と弾圧の後に、…長老風のグレイのあごひげをたたえ、高い額に鉤鼻、鋭く青い瞳を持ったこの貫録あるアメリカ人大佐と、指輪をはめた指、ふくれ上った頬、そして夢みるような催眠的な眼差しの、扱いにくいロシア婦人(彼らの支配者である白色人種)が、数千のキリスト教宣教師がなした如くダルマを攻撃するためでなく、それを防ぎ仏教をサポートするためにやって来た。…潮流は遂に変った。そしてグナーナンダは自分のすべての努力が無駄ではなかったと感じた。」("Flame in Darkness"p35)
▼オカルティストの仏教理解
ウィジャヤナンダ寺院は、ピリヴェナと呼ばれる仏教学校(寺子屋)の伝統を誇り、現在もゴール地区の仏教教育の拠点である。大講堂にはオルコットの胸像が残されている。かつてはオルコットが受戒した際の直筆のレリーフがあったというが、寺の修理の際に紛失したとか…。今年二月、筆者が訪問した際にも講堂(オルコットの胸像が置かれている)では仏教学校の授業をしている最中だった。あいにく住職は不在で話を伺うことはできなかったが…。ちなみに『PANADURA VADAYA』の訳者・金漢益師は、中外日報1998.2.14号にウィジャヤナンダ寺院への訪問記を書かれています。
オルコット一行が受戒したウィジャヤナンダ寺院(1999年著者撮影)
しかし、敬愛するサラスヴァティと論争してまで、諸教融合的な立場を貫いた神智学徒が、なぜいとも簡単に在家仏教徒となったのだろう。オルコットは受戒の当時を回想して曰く、
「…もしもブッディズムに単一のドグマを承認することを強いることが含まれたなら、我々はパンシル(五戒つまりパーリ語“パンチャ・シーラ”のシンハラ訛り)を受けなかったし、また十分間であっても仏教徒として留まらなかったろう。我々のブッディズム〜マスター・アデプト、ゴータマ・ブッダの仏教〜は、アーリヤン・ウパニシャット(アーリヤ人の秘教)や凡ての古代世界信仰のソウルと全く同様のものだ。我々の仏教は一言でいえば、哲学であって、主義・信条ではない。」("ODL" 2nd, p168)
オカルティストはオカルティストなりの流儀で、『ブッディスト』たることを受け入れたのに過ぎない。しかし幸いなことに、神智学とシンハラ仏教との蜜月は次の世紀に入るまで続いた。そしてオルコットとブラヴァッキーの来島によって、スリランカ仏教はリバイバルにむけた輝かしいスタートをきった。
▼アディヤールへの本部移転
オルコットの仏教への傾倒は、表向き良好だったアーリヤ・サマージとの関係を決定的に悪化させてしまう。1882年、サラスヴァティは公然と神智学協会への非難の論陣を張り、HPBとHSOを「一対のいかさま師」と切って捨てた。当然、オルコットも果敢に応戦する。同じ年、神智学協会はアーリヤ・サマージの根拠地でもあったボンベイから、南インドの大都市マドラス(現チェンナイ)近郊アディヤールに本部を移した。
神智学協会のシンボル(アディヤールにて撮影 1999年1月)
今年の一月、筆者はこのアディヤールを幾度か訪うた。南アジア第一の都市マドラスから海岸沿いをしばらくバスで揺られると、バニヤン樹の巨木が生い茂る広大な庭園に囲まれた神智学協会の本部に辿りつく。コロニアル風の白亜のホールには、仏陀・キリスト・クリシュナといったごった煮のレリーフと並んで二人の創設者、HPBとHSOの像が祀られていた。
ロッジの点在する庭園のなか、壮年の白人神智学徒たちがゆったりと休暇を楽しんでいる様子からは、インドの宗教ルネッサンスを牽引した往時の活気を想像することは難しかった。敷地にはオルコットによって創設された小奇麗で管理の行き届いた図書館と、こじんまりした神智学書店があり、筆者はそこで本稿を書き進めるための資料のいくばくかを得た。
▼セイロン仏教の救世主
さて、神智学協会を迎え入れた1880年代のスリランカは、『白い仏教徒』オルコット大佐の独壇場と化した。口やかましいブラヴァッキーの束縛から解き放たれたオルコットは、この南アジアの小島で八面六臂の大活躍を見せたのである。
オルコット来島当時、セイロンには政府に認められた仏教学校はわずか三校しか存在せず、多くの仏教徒子弟はキリスト教会の経営する学校に通わざるを得なかった。そこでオルコットは上陸からまもなく、仏教徒の教育を援助する目的で『仏教徒神智学協会(The Buddhist Theosophical Society)』を設立した。協会の活動によって、十二年後の1897年には併せて四十六校にも及ぶ仏教学校が開かれる。1903年には協会管理下にある学校は百七十四校にまで増え、三万人もの児童が仏教学校の教育を享受するにいたった。【*1】
1881年七月、オルコットは簡潔な仏教入門書、『仏教教理問答』(ブッディスト・カテキズム) を執筆。クリスチャンがセイロン島内に大量にばらまいたキリスト教布教用の教理問答集(カテキズム)に目をつけ、その仏教版をみずから執筆したのである。同書は当時スリランカ仏教界の長老格であったスマンガラ僧正のお墨付きを得、シンハラ語をはじめ二十カ国以上で翻訳された。その邦訳が廃仏毀釈で意気消沈した日本の仏教徒を発憤させ、平井金三らによるオルコット日本招聘運動を巻き起こしたのは前述した通り。
▼仏教旗の制定・ウェーサクの祝日化
そして、オルコットは1885年四月に制定された『五色の仏教旗』の普及にも努めた。彼は仏教の社会的地位の向上のためには、キリスト教の十字架に相当する「仏教徒共通のシンボル」が必要だと痛感していたためである。オルコットの音頭によって広められた仏教旗は、ブッダガヤの菩提樹下で悟りを開いた釈迦牟尼の身体から発したとされる後光の色、左から青・黄・赤・白・橙を縦に並べ、六列目に五色を合わせた縞模様を配した、覚えやすく明るいデザインの旗だ。現在も世界中の仏教圏で祝祭等に用いられ、日本にも1889年のオルコット来日の際もたらされた。旗の意味するところはほとんど忘れ去られたが、現在でも時折、掲げられているから、お寺参りの際にはチェックしてみて下さい。
仏教旗
もうひとつ。スリランカをはじめとする上座仏教圏の、最も大切な年中行事にウェーサクの祭りがある。ウェーサーカ月(四〜五月)の満月を中心に数日間にわたり寺院礼拝や祭が繰り広げられる大祭だが、南伝仏教の伝承ではこの満月の日に釈尊が生まれ、悟りを開き、入滅したと伝えられている。植民地支配下で逼塞させられてきたこの仏教徒の伝統行事を、植民地政府に掛け合って正式な祝日と認めさせたのもオルコットであった。
▼プロテスタント仏教
慧眼の読者はもうお気付きだろうが、オルコットが組織した仏教復興運動は、ことごとくキリスト教宣教師のノウハウを換骨奪胎したものだった。オルコットが指導した近代スリランカ仏教復興運動は、のちに『プロテスタント仏教』(スリランカ出身の社会学者オベーセーラカによる)と呼ばれた。そこには“植民地支配へのプロテスト【抵抗】としての仏教”という明快な意味とともに、オルコットの仏教は、“プロテスタント的語法によって解釈された仏教”だったのではないか?との問題提起も含まれる。
アメリカの厳格なピューリタン家庭に育ったオルコットは、心霊主義・オカルト・仏教という精神の遍歴を通じて、伝統的なキリスト教信仰を捨てた“背教者”の烙印を押されることをなんら恐れなかった。しかし本当は、オルコットは生涯、自らのルーツである「ピューリタン精神」から脱することはなかったのではなかろうか?オルコットは近代科学の攻勢に耐えきれないキリスト教に見切りをつけたが、そこから自らのルーツであるピューリタン・スピリッツを救い出すことを忘れなかった。オルコットはアメリカから持ち出したヤンキーのストイシズムを、無意識のうちに、アジアに残る『太古の叡知』とやらに投影していたのではないか。
プロテスタント仏教とか、クレオール仏教【*2】といったオルコットに纏るいささか過激なレッテルは、『白い仏教徒』と近代仏教の来歴を語る際に必ずつきまとう“すわりの悪さ”をものがたっている。しかし視点をセイロン仏教の側に転ずるならば、伝統的な“シンハラ王権による保護”を失った仏教が近代社会でサバイバルするためには、宗教倫理を内面化し、(マックス・ヴェーバー流に言えば)世俗内禁欲を遂行する“自覚的な仏教徒”の成立が不可欠だったことに変わりはない。たとえオルコットの到来を待たずとも…。
スリランカ仏教を、近代という時代に適応した“あるべき宗教”へと再編成すること。善かれ悪しかれ、それが彼の担った歴史的役回りであった。アメリカで世俗的な成功を収めつつ、西欧社会の価値観そのものには安住しきれなかったオルコット。西洋文明を自家薬籠中のものにし且つ相対化できるだけの社会的エリートが育っていなかった当時のセイロンにあって、彼は確かに歓迎に値する人物であった。
先回りすればオルコット大佐が念入りにフォーマットした『シンハラ仏教復興運動』は、この島の仏教がナショナリズムという“近代の魔物”と結びつくに至る、スリリングでやがて憂鬱な物語へ展開する。本編のはるか後方では、もう一度このややこしいテーマにお付合い戴くことになると思うのでよろしく。
とまれ、かくも広範囲に及んだ『白い仏教徒』の遺徳。どうりでコロンボ駅前どまんなかに銅像が建つはずだ。1967年にはオルコット記念切手も刷られている。(逓信総合博物館などで見られます)しかし彼が後世に残した最大の功績は、のちに『ランカーの獅子』と呼ばれるひとりのシンハラ人少年を、見出したことにあるかもしれない。
■注釈
【*1】 "BUDDHIST IN SRI LANKA" A SHORT HISTORY,H.R.Perera,p.80 その成果としてもっとも有名なものはコロンボのアーナンダ・カレッジであり、同校はスリランカ最初の仏教英語学校となった。あえて日本の同類を探すならば、平井金三のオリエンタル・ホールが値するだろうか。
【*2】 オルコットに関する研究書、"The White Buddhist -The Asian Odyssey of Henry Steel Olcott-" ( Delhi 1997)の著者Stephan Protheroによる。Protheroは、オルコットの「仏教」とはあくまで西欧のキリスト教的な文法構造の上にブッディズムの単語を配した如き“仏教なまりのキリスト教”だと喝破する。あたかも、植民地において用いられる混淆語(しかもその文法構造はあくまでも支配者の言語に依る)のような宗教…。あるいは“アジアに転移したプロテスタンティズム”。