第五章 パーナドゥラ論戦〜グナーナンダの勝利〜
・パーナドゥラの論戦
・論争の行方
・グナーナンダの勝利
・神智学徒からの手紙
《注釈》
▼パーナドゥラの論戦
西暦1873年八月二十六、二十八日の両日。コロンボから南に十五マイルほど下った海辺のパーナドゥラ村で、スリランカの歴史に残る公開宗教論争【*1】が繰り広げられた。対論者はメソジスト派のデイヴィツ・デ・シルヴァ牧師ら二人のキリスト教宣教師、そして仏教僧モーホッティワッテ・グナーナンダ(1823-1890)。
グナーナンダは、当時のセイロン仏教界を代表する論客として知られ、1870年代初頭からキリスト教徒との論戦を手がけていた強者だ。中年の精気にあふれ、爛々と輝く瞳とやけに大きな口が、天性の雄弁家ぶりを感じさせる御仁。彼はキリスト教徒が多住するコロンボ近郊のコタヘーナ寺院で住職をしていたこともあり、仏教の将来への危機意識も人一倍強かった。
論争に先だってキリスト教・仏教双方の代表者等は以下の内容の協定書に調印した。
一 論争は口述ですること。
二 両方の対論を記録紙、対論者がそれぞれ記録文に証明のサインをすること。
三 対論者は、引用する書物と論文の名称を正確に示さなければならない。
四 一人の対論時間は一時間とする。
五 初めの時間は、キリスト教徒側に与える。その時間は、仏教の虚偽性を提示することに使用し、次の時間は仏教側から、仏教の虚偽性に対するキリスト教の対論に対して必ず答弁した後、キリスト教の虚偽性に対する対論を行わなければならない。
六 この対論は、八月二六日と二八日の両日行う。
七 演説時間は、午前八時から一〇時まで及び午後三時から五時までとする。
八 対論中、双方騒動が起らないようにそれぞれが責任をもつ。
九 対論中は対論者以外の全ての人々は、静けさを保つよう忍耐しなければならない。なおこの協定書にサインをする人々には、聴衆を平穏かつ冷静に保つすべての責任を与える。
一〇 パーナドゥラ・パッティヤ町のドムバガハワッタという場所にこの対論を行うため特別に一階建ての建物を造ることを認める。
(『キリスト教か仏教か 歴史の証言』金漢益 訳注 p9 括弧内省略)
▼論争の行方
パーナドゥラの言論戦は、諸宗教の融和を大前提に交わされる微温的な「対話」ではなかった。それは“あくまで「対論」であり、「論争」”(金漢益)であった。世界三大宗教の二雄の間で、勝ち負けを決するための論戦である。会場はすでにキリスト教・仏教それぞれの指導者、そして一万人あまりの群衆で埋まっている。八月二十六日朝八時、キリスト教側の一番手、デイヴィツ・デ・シルヴァ牧師によって論争の火蓋が切って落とされた。
今回のパーナドゥラ論戦、そもそもはキリスト教側から半ば挑発として仕掛けられたのである。しかも二対一のハンディ・マッチ。にもかかわらず、実際の言論戦は終始グナーナンダの優位を聴衆に印象づけていた。グナーナンダは仏教の正統性を理路整然と主張するばかりでなく、会場に集まったスリランカ民衆の心性にもずっしりと響く、卑俗な比喩を使いこなしてキリスト教を攻撃した。曰く、
「旧約聖書「士師記」(Judges)第一章一九節をよく聞いて下さい。
「エホバがユダと共におられたので、ユダはついに山地を手に入れたが、平地に住んでいた民は鉄の戦車をもっていたので、これを追いだすことができなかった。」
つまり、ユダと共におられたエホバは、平地に住んでいた民が鉄で造った戦車をもっていたので、彼らを追い出すことができなかったことがわかります。エホバが真の全知全能者であると信じているキリスト者の信仰は、いかに幼稚なものであるかがわかるでしょう。
鉄を恐ろしく考えるというのは、スリランカ人の誰しもが知っているごく一般的なスリランカの習慣であります。もし、暗い夜、誰かの家を訪れる時や、あるいは飲食をもって行く時は、飲食といっしょに鉄で造った何かをもっていくのです。これは昔からスリランカに伝わる習わしです。そして、また漢方薬のように煎じる場合は、煎じる容器の表面に鉄でできたある物を糸で縛っておいて、薬を煎じるのであります。それは悪霊たちの悪行の侵害を防ぐための一手段であるからです。ですから、もしエホバが鉄の物を恐がったというならば、そのようなエホバを、いったいどのような人だと皆さんはお考えになるのでしょうか?」(同上 p44)
まるで文化人類学者のような口ぶりで、全知全能のハヤウェをランカーの悪霊と比較したグナーナンダ。彼の言葉に一瞬眉をひそめて合点する聴衆、そして苦虫をかみつぶしたキリスト教関係者の姿が目に浮かぶようではないか。二日間続いた論戦の争点は「霊魂の不滅説と輪廻説の対比」「仏陀とキリストの伝記の検証」「妬む神エホヴァは信仰の対象たりえるのか」「須弥山説に科学性はあるか」など、多岐にわたった。しかし、セイロンきっての学僧グナーナンダが、インド古典や近代聖書研究の知識まで動員して繰り出す鋭い舌鋒に、仏教教理に対する基本的無知をさらしがちの宣教師が対抗できるわけもなかった。こりゃぁ相手が悪すぎた。
▼グナーナンダの勝利
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グナーナンダの像 |
論戦の舞台となったパーナドゥラ村には、現在は金色に彩色されたグナーナンダの立像が建立されている。よく手入れされた花壇の直中にそびえるその像は、五色の仏教旗をバックに、一百数十年前その地で雄弁を振るったそのままの姿を保存しているようだ。長丁場の論戦のすえ、自らの勝利を確信したグナーナンダは、左足を聴衆に向かって踏み出し、右手を力強く振り上げ天を指しながらこう語った。
「人間がもしそのことに正しさを見出すならば、それを認め実践するというのが、分別のある人の良識であります。したがいまして、皆さんが真の宗教である仏教を信じ、輪廻の苦しみから脱して、ニルヴァーナという安楽の世界で生を営むように精進して下さる事を心より願って止みません。」(同上p193 括弧内省略)
彼のひとことが討論を締めくくると、会場に詰めかけた群衆から一斉に「サードゥ、サードゥ」と賞賛の声が沸きあがった。規約に忠実なグナーナンダと牧師らの紳士的呼びかけにより、会場はすぐに落ちつきを取り戻した。溜飲を下した喜びを隠せぬ仏教徒と対照的だったのは、敗北感に顔を曇らせる宣教師・キリスト教徒の後ろ姿であった。ともかく、キリスト教徒側の意に反し仏教の勝利を人々に印象づけたこの論戦。数百年にわたる西欧の侵略と植民地支配の下で圧迫されてきた仏教徒の自尊心をいささか回復し、植民地主義と癒着したキリスト教に対する反撃の狼煙となった…。
以上が、『パーナドゥラ論争』と呼ばれた事件のあらまし。ちなみにスリランカにおけるキリスト教と仏教との論争はこれが最初ではなく、両宗教間の言論戦は1860年代から幾度も繰り返されてきた。しかしパーナドゥラ論戦は「五大論争」と総称される論戦のハイライトとして長く記憶されることとなった。論戦の模様は、セイロンの主要英字新聞セイロン・タイムズ紙(The CeylonTimes)ジョン・カッパー記者の手でリアルタイムに報道され、『パーナドゥラ論争』はローカルな宗教論争のスケールを飛び越え、西欧社会の人士にもひろくインパクトを与えるに至ったのである。【*2】
▼神智学徒からの手紙
アメリカ人のJ.M.ピーブルズ博士は、南アジアをめぐる旅行中に偶然このパーナドゥラ論争と出くわした。彼はスピリチュアリストで、オルコット大佐とは旧知の仲だったという。グナーナンダの勝利に強い感銘を受けたピーブルズは、アメリカ帰国後、カッパー記者の原稿をもとにパーナドゥラ論戦のあらましを出版した。ピーブルズの本はオルコットとブラヴァッキーの手にも渡る。『太古の叡知』を探し求める神智学徒の魂を、グナーナンダの舌鋒が刺激しなかったはずはない。
数年後、グナーナンダのもとへニューヨークからの書簡が届く。手紙の主はもちろん、オルコットとブラヴァッキーだ。二人の神智学徒からの親書には、グナーナンダの勝利への祝福とともに、1885年の神智学協会設立を知らせる文面が綴られていた。併せて封筒には、どっしりとボリュームあるブラヴァッキーの新著『ヴェールを脱いだアイシス』が同封されていた。
グナーナンダは神智学協会と定期的な通信を交わすようになった。彼らの手紙と『ヴェールを脱いだアイシス』の抜粋はグナーナンダによってシンハラ語に翻訳された。やがて「…ただかかる奇体なことあり、かかる妙な行法ある、というまでにて、いわば『古今著聞集』、『今昔物語』等に安倍清明、加茂保憲等のしき神を使いしこと多くのせたるようなことで、面白いばかり、一向核なきことなりし。…」(南方熊楠)と謂われるブラヴァッキーの著書が、西洋から突如名乗りを挙げた仏教徒の援軍のつゆばらいとして、セイロンの島中に行き渡った。
とにかくもこれ以後、オルコット大佐とブラヴァッキー夫人、この奇特な西洋人の名前が、期待と好奇心ないまぜに、セイロン仏教徒の間でささやかれるようになったのであります。【*3】
■注釈
【*1】 パーナドゥラ論戦については東方学院講師の金漢益師の邦訳によってその全容を日本語で読むことができる。ぜひ参照されたし。『キリスト教か仏教か 歴史の証言』金 漢益訳注 中村元監修 山喜房刊 1995
【*2】 論争の詳細はセイロン・タイムズ社の編集者の手でシンハラ語の単行本として発行され、後に英訳もなされた。(F.Katukolite;Panadura Vadaya,The Panadura Contovers. 1948 Lankaputhra,Colombo)スリランカにおける仏教・キリスト教間の五大論争については、上述の金漢益師が1997年に島内各地の論争地を二ヶ月にわたり詳細に取材したレポートを発表している。(「仏教国スリランカ再考」中外日報 1988.2.10, 2.12, 2.14)
【*3】 ここまで主に"the BUDDHIST and the Theosophical Movement 1873-1992" C.V.Agarwal, Maha Bodhi Society of India, 1993 の記述に依った。スリランカ仏教復興運動の歴史において、国内で積み重ねられた五大論争の実績に重きを置くべきか、あるいはパーナドゥラ論争の報道からオルコット来島に至る流れを重視するべきか…。そこにはナショナリズムの誘惑もからみあった微妙な問題が介在せざるを得ないだろう。我々はとりあえず難しすぎる問題は素通りし、「客人」の眼差しに沿って先に進みたい。
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