第四章 インド洋の「仏教国」スリランカの来歴
 ・光り輝く島
 ・インド文化圏への窓
 ・シンハラ人とタミル人
 ・仏教とナショナリズム
 ・“仏教国”の危機
《注釈》
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光り輝く島

スリランカの地図
スリランカの地図
 いまや九億もの民がひしめく喧騒のインド亜大陸から東南約三〇kmの海に、先週はマンゴと謂いましたがむしろ洋梨か、いや乙女の涙粒のごとき姿をさらした大きな島があります。この島全体をスリランカ民主社会主義共和国といって。64454平方kmつまり北海道よりひとまわり小さな面積に、約千八百万人の人口を抱えている。ご年配にはセイロンという呼び名のほうが通りがよいだろう。スリ・ランカとは“光り輝く島”くらいの意味で。名前に違わずルビー・サファイアなど宝石の産出地として知られ、セイロン・ブランドで有名な紅茶の名産地でもある。欧米人の間ではリゾート地としての人気も高く、『2001年宇宙の旅』のアーサー・C・クラークが住着いていたりする。
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インド文化圏への窓

 『千夜一夜物語』やマルコ・ポーロの『東方見聞録』にも登場するスリランカだが、極東の豊葦原之国との縁は薄かった。それこそ比叡山あたりの坊さんが、『法顕伝』(AD399年から414年まで中央アジア・インド・スリランカを巡った中国僧・法顕の求法旅行記)や『楞伽経』(釈迦がスリランカ島に降下して説いたという唯識系の大乗教典)を読んで間接的に知っていた程度であろう。

 しかし日本が鎖国の太平から目覚めたあたりから、少しく様子が変わってくる。セイロン島は日本と欧州を結ぶ航路の寄港地に当たり、幕末から明治初期にかけて、欧州に使節や留学生として渡った日本人の多くが、おざなりだがスリランカの見聞録を残してきた。

 たとえば明治四年末に欧米文明の視察を目的に派遣された岩倉使節団は、長旅の復路スリランカへ寄港した。その際、久米邦武が『米欧回覧実記』にスリランカ見聞記を残したのは割と知られている。有名どころでは夏目漱石や徳富蘇峰、後述する森鴎外といった人々も、洋行の往復セイロン島に寄港した。悲しいかな当時スリランカ全島は大英帝国の植民地で、英領セイロンという屈辱的な名称に甘んじていたのだが…。

 野口復堂がオルコット大佐を求めて旅立った明治二十一年の頃、インド亜大陸を訪うた日本人はまだまだ少なかった。明治時代にインド洋経由でヨーロッパに向かった知識人たちは、いうならばスリランカという島国を通して、南アジアのインド文化圏に触れたのである。
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シンハラ人とタミル人

 その狭い国土に多民族・多宗教を抱えた国でもある。人口の約七割を占め、上座仏教(いわゆる小乗仏教)を信仰するアーリア系のシンハラ人と、人口の二割弱を数えヒンドゥー教を信仰し言語も異なるタミル系住民との間では、タミル人多数地域である北部の分離独立をめぐって泥沼の内戦が続いている。

 ほかにも少数派ながらエリート層に隠然たる勢力を保つキリスト教徒やイスラム教徒と、多数派シンハラ仏教徒との間の緊張も絶えない。スリランカには民族・宗教紛争という冷戦終結後の宿痾を象徴する国というイメージが定着しており、国名が新聞やテレビに登場する機会は、ほとんどテロと内戦のニュースに限られる。ゲリラと政府軍の弾の撃ち合いばかりではない。自らの体に爆弾を巻き付け、要人もろともに自爆を計る若きタミル人青年もあとを絶たぬ。

 スリランカをさいなむ民族の確執は長い歴史を持つとされる。島の中心部を基盤とするアーリア系のシンハラ人は、紀元前より続く仏教信仰を誇り、仏教の守護者たることをシンハラ王権の正統性の証としてきた。西暦四〜五世紀に書かれたというスリランカ最初の歴史書『ディーパワンサ(王島統史)』、そして1815年のキャンディ王朝滅亡までを記述した『マハーワンサ(大王統史)』は、上座部仏教の経典語であるパーリ語によって記されており、同時にスリランカ仏教史書としての性格を持っていた。つまりスリランカの歴史観やナショナル・アイデンティティに関わる知識は、仏教僧侶が独占していたのだ。

 これに対し現在、島の北部と東武沿岸部に居住するタミル人勢力は、歴史的には大乗仏教の洗礼を受けたものの、現在は主にヒンドゥー教徒である。タミル勢力は北からシンハラ王朝を圧迫する形でじわじわと南下を続け、シンハラ王朝はアヌラーダプラ(大規模な古代仏教遺跡や灌漑遺跡が集中し、シンハラ王朝文化栄光のシンボルとされている)を中心とする北部から追われ、幾度も南への遷都を余儀なくされた。
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仏教とナショナリズム

 しかし、シンハラ王朝とタミル王朝の間には同盟や姻戚関係が結ばれた歴史もあり、そこに現在の価値観で「数千年にわたる民族紛争」という図式を当てはめるのは無理がある。前述のキャンディ王朝もまた、南インド・マドゥライのタミル系領主と縁戚関係を結んでおり、第九代の王位継承者は南インドから招かれた。彼らが仏教サンガの保護に尽くした事はいうまでもない。

 シンハラ人と他民族との緊張が先鋭化したのは、欧米の植民地支配によって伝統文化の危機があらわになってからのこと。特に1815年から一世紀以上に渡って続いたイギリス植民地支配の間、紅茶プランテーション労働者としてインド南部からタミル人(現在、インド・タミル人と呼ばれ、インドとスリランカの緊張関係の狭間で犠牲となっている)が大量に移住させられたことで、伝統的な民族間の均衡は大きく崩された。植民地支配の常套手段である陰湿な「分割統治」もまた、民族対立の炎に確信犯的に油を注いだ。【*1】そしてランカー島の富をありったけ貪ったイギリス人は、第二次世界大戦によって大英帝国が破産すると、スリランカ人に西欧文明への抜き難いコンプレックスと相互不信を残したまま、さっさと島を出ていったのである。

 のちにこの島を覆う「シンハラ仏教ナショナリズム」は、じつは植民地支配のもとで、シンハラ人知識層が伝統的な史書を近代的な文脈で読み直すことで確立された。その際に彼らが重要視したのは、特に仏教色の強い『マハーワンサ(大王統史)』であったという。日本では戦前の歴史教育に記紀(古事記・日本書紀)を絶対視する史観が援用されたように、植民地支配にあえぐスリランカ知識層のナショナリズム形成には、仏教護持を王統の中心に据えた“『大王統史』史観”(杉本良男)が大きな役割をはたした。そして仏教を護持すべき主体は、伝統的な“王権”から近代の概念である“民族”へと引き継がれたのである。

 だから、今風に穿ったモノイイをするならば、『大王統史』再解釈の過程で、スリランカの多数派である仏教徒は“ブッダに聖別された民族”シンハラ人仏教徒として再編成されたのだ。じっさいシンハラ人を支持基盤とするスリランカ政府は、第二次世界大戦後の独立以来ことさらに「シンハラ仏教ナショナリズム」を煽り、民族対立の先鋭化を助長した。飽きるほど連呼された、暝く熱を帯びた“血の論理”の声の向こう側に、私たちはやがてアナガーリカ・ダルマパーラという異形の仏教者の姿を見ることになるだろう。しかしそれはまだ先の話だ。
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“仏教国”の危機

 ともかく、二千年を超える繁栄を誇った「仏教国」スリランカも、十六世紀以来、1948年に独立を果たすまでの間、ポルトガル・オランダ・イギリスといった西欧列強による圧迫と植民地支配、そして宗教弾圧にさらされ続けていた。古代インドの英雄アショーカ王のミッションに遡るといわれる島の仏教の歴史は、1815年、仏教に庇護を与えてきたキャンディー王朝が滅亡、全島がイギリスの植民地と化したことで存亡の危機に瀕した。【*2】

 本書のもう一人の主人公、アナガーリカ・ダルマパーラが生まれ育ったのもそんな時代だった。彼の伝記から、やや扇情的な一文を引こう。

「前世紀(十九世紀)六十年代のセイロン仏教の状況はまさに暗黒であった。ポルトガル・オランダ・イギリスの相次ぐ侵略によって、この国の多くの伝統文化は一掃された。宣教師らはこの銅色の島にイナゴの雲の如くやってきた。考えうるかぎりのキリスト教宗派の学校が開かれ、そこで仏教徒の少年・少女たちは聖書の教えをつめこまれ、己自身の宗教・文化・言語・民族・皮膚の色を恥るよう教えられた。

 …オランダの占領地域では、仏教徒は強制的にキリスト教徒であると宣言させられた。英国支配に替わった後も、1884年にセイロンの仏教徒を代表したオルコット大佐がロンドンの植民地大臣に抗議し、ようやく廃棄されるまで、この法律は七十年間も強制的に施行された。仏教徒の親から生まれた子供たちは、登記のために教会につれて行かれ、そこで聖書にちなんだ名前を授けられた」("FLAME IN DARKNESS The Life and Saying of Anagarika Dharmapala" Sangharakshita, Triratna Granthamala, 1995, p17)

 香料の 香つたう微風は   
 セイロンの島 やわらかに包み
 よろこばしき よろずのなかに
 卑しきは ただ人間のみ 
 惜しみなき 主の親切もて
 振りまかれたる 恩寵も空し 
 盲いたる異教徒どもは
 木や石にひれ伏す

 続いて引いたのはイギリス国教会ヒーバー主教の手による聖歌『セイロン賛歌』である。植民地支配と手を携えたキリスト教宣教師の尊大さがあまりにあからさまで、かえって微笑を誘う。しかし当人はマジ。そしてスリランカで仏教復興・民族復興の胎動が始まったのは、まさにこの暗黒の時代。十九世紀後半のことであった。 次節では、そのあらましを紐解いてみたい。
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注釈

【*1】 スリランカの伝統的な民族構造と、植民地統治後のナショナリズムの形成過程については『暮らしがわかるアジア読本 スリランカ』(杉本良男編 1988 河出書房新社)『現代スリランカの上座仏教』(前田恵学編 山喜房仏書林 1986)などに詳しい。

【*2】 キャンディ王領を大英帝国へ引き渡す際に交わされた、キャンディ条約第五条には、「仏教の不可侵・保護」が盛り込まれていた。しかし植民地や英イギリス本国のキリスト教団体が植民地での仏教保護政策に抗議したことなどから、十九世紀中ごろには、キャンディ条約をほごにしたキリスト教優遇と仏教徒に対する改宗政策が取られていたのである。(『キリスト教か仏教か 歴史の証言』金漢益訳注 中村元監修 山喜房刊 1995 訳者あとがきを参照のこと)
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