第二十章 病床のダルマパーラ
・ダルマパーラの入院
・オルコットの霊能力
・日本人の熱心な称賛者
・仏教復興は民族独立ヘの道
《注釈》
▼ダルマパーラの入院
閑話休題。知恩院での歓迎の後、ダルマパーラ青年はいよいよ病状が進んで京都療養院に運び込まれた。闘病生活を送る彼のもとには、多くの青年仏教徒が訪れた。高楠順次郎は、昭和八(1933)年、ダルマパーラの訃報に寄せた文中でこう述べている。
「若い外来の仏者に交わるべく、最初に会合したのが、秦千代丸( 後の敏之) 澤井洵( 後の高楠順次郎)であった。三人は非常なる前途の希望に燃えて、日々京都東山公園の中村樓の宿舎に会し、仏教者の行くべき道を論じつつあったのであった。…極寒の日本は常夏の獅子州の青年を無残に苦しめた。遂に強度の神経痛を発し、寸歩も運び得ない状態となった。居士は遂に三ヵ月間病床の人となった。その間昼夜側近く看護し慰安したのは、秦、澤井の両人であった。」【*1】
「私はこの日本帝国に来るや不幸にもこのような難病に苦しめられている。病魔のために私の身命を失えば、故国の父母は深くこれを悲しむだろう。故国の姉弟は深くこれを嘆くだろう。故国の親友は深くこれを憂うだろう。それでも、盛大なる仏教国(日本)を訪うた事で私の心は満足している。」【*2】
ダルマパーラが病床で繰り返したというけなげな言葉は、感じやすい青年仏徒の心に強く訴えた。当初ダルマパーラの容態は、医薬が役立たぬほど重かったという。これを軽癒せしめたのは、高楠によれば、なんと「オルコット大佐の催眠術」だった。
▼オルコットの霊能力
「始めは医薬の功なきを知るや、ダンマパーラ居士は実に失望の極にあったが、今はオルコット大佐より外に寄る辺なきを感じたらしいので、大佐も何とかして慰めんとする心持ちで日夜時刻を定めて枕辺に見舞った。初めは単に慰安の為に両手の掌を拡げて胸から腹へ、腹から脚へ力を籠めて撫でるような姿勢を以て、病人の体と平行して動かすのである。この姿勢を続けること凡そ十分にして病人の眼はそろそろ眠りを催すようになった。大佐は、しめたと云うような風で眠りに落ちるを待ってその室を去る。
次の日も同じことを繰り返えす。二十分位で已に眠りに就く、次の日は十五分、その次は十分と云う風に、時に多少の差はあるが、段々に短い時間に眠るようになった。こうなると本人は大佐の来るのを待つようになる。後には大佐の顔を見ると已に眠りを催すようになる。最後には大佐が来るべき時刻が来ると已に安心して眠る。大佐の催眠術は実際の奏功を示したのである。」【*3】
ここでようやく、オカルトっぽい雰囲気の話題が登場した。オルコット大佐はスリランカで仏教復興運動をオーガナイズしたが、その過程で神秘的な病気治しの「秘蹟」を行っていた事は案外知られていない。彼はスピリチュアリスト時代から催眠療法を嗜んでいたが、その素地は南アジアにおいて神がかった治癒力となって開花したのだ。彼自身、自分の行為が単なる暗示によるものか霊能力によるものか半信半疑だったようなのだが…。とにかく一八八二年後半から翌年にかけ、オルコットはスリランカ・インド各地を巡業し、数多くの病人や身体障害者に病気直しの秘蹟を施したのである。
“ヒマラヤのマスター”との交信を一手に引き受け、天性のカリスマ性で神智学協会を引っ張ったブラヴァッキー。それに比してオルコットは「実務家」としての側面ばかりが強調される。その彼がスリランカやインドで大衆の間にカリスマの地位を築き得た背景には、霊能力による(と信じられた)病気なおしの実践があった。
つまり十九世紀末に始まった仏教復興運動を初動で支えたのは、一面ではオルコットの「カリスマ性」へのセイロン民衆の盲目的帰依でもあった。オルコットは啓蒙的な「生き仏」の役回りを引き受けたのである。若いダルマパーラのオルコットや神智学協会への耽溺ぶり、「この時期において、大佐への特別な献身が彼の人生のおもな情熱の一つであった」と語られる背景も、恐らく、そんなところにあったのだろう。
▼日本人の熱心な称賛者
オルコットの「催眠療法」によって危機を脱したダルマパーラの許には、医者や僧侶、仏教学生や教師・作家・哲学者・事務員までがひっきりなしに慰問にやってきた。「大佐の場合はマホメットが山に会うために行ったとすれば、ダルマパーラの場合は山がマホメットに会うためやって来たのだ。」彼の伝記は大げさな表現で伝えている。そしてダルマパーラは退院が近づく頃には日本について知識を増し、日本人の熱心な称賛者になった。
ダルマパーラは日本では病にふせっている時間が長かったが、小康を得ると川上貞信(後、オルコットに従ってセイロンに留学した青年僧)の翻訳で『愛理者之殷鑑』と題したパンフレットを出版した。また退院したダルマパーラが、帰国直前に日本で行った演説記録もいくらか残されている。
▼仏教復興は民族独立ヘの道
病気の癒えたダルマパーラは四月の下旬からはオルコットとの旅行に同行し、五月六日から西日本巡行に向かうオルコットを見送った。この時京都で開かれた両者の送別会は知事等が出席する盛大なものだった。次に五月初頭、知恩院オルコット告別演説会におけるダルマパーラの演説(正確な日時は不明)を少し長くなるが引用したい。
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アナガーリカ・ダルマパーラ(1893年ごろ)
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「我がセイロン島は堅三百二十五英里…幅二百二十五英里…の島国にてインド海の南辺に在り印度の海岸に向いて出船する時は僅か十四時間に達すべし。人口は二百五十万其の内僧侶六千人あり。このセイロン島の歴史は二千五百三十七年前に始まれり…釈迦牟尼佛の入滅と同日に中央インドの或太子は、兵士を率ねてこの島に伐ち入り土人に打ち勝ちて此の地を領せり。それに随いたるマハダ国(本邦に伝うる所の摩羯国)の公子及びその従者三百人は、そのまま留まりて本国より妻を迎え来れり。されば我がシンハリーの国民は、この公子及び従者の子孫なり。」
この後ダルマパーラはいわゆる『大王統史(マハーワンサ)』史観に基づくセイロン島史を詳述するのだが、紙面の関係で略す。釈迦の入滅と同じ日にスリランカに上陸した「中央インドの或太子」とは現在もシンハラ人の間でスリランカ建国の祖とされているウィジャヤ王の事だ。スリランカはその建国神話のなかでも仏教との密接な関係が暗示されている。ダルマパーラはランカーの栄光の歴史に引き続き、祖国が西欧の侵略によって蒙った屈辱について語りだした。
「…諸君よ吾国も最初アショカ王が佛教を伝えてよりポルトガル人が来るまで千九百年ばかりの間は日本と同様に太平の幸福を享けたりしが、三百年以来は外国人のために蹂躙せられて種々様々の国難に当り、国民はほとんど塗炭の苦を受けたり。されどもなお独立国の面を失わざりしが、七十年来は全く英国の奴隷同様に成り果てて今は如何とも致し方なき我々が心中は如何ならん、諸君御察しされよかし。
諸君も御承知の北アメリカ州は我国と同じく英国の圧制を受けたる国なりしが、国民の発奮より遂に英国に打勝ち今は立派なる独立国となりて諸君も同様の幸福を受けて居るを見るに付けても我々が感情は如何あらん。諸君よ、なお一層の御察しを給われよかし。我々はイギリスのために恨み骨髄に徹するものあり。それはポルトガル人オランダ人よりも尚一層残忍なる暴虐を逞しうして耶蘇教を信ぜぬ佛教者を鏖殺にしたる事これなり。之に依って佛教は殆ど滅亡の姿とは成りぬ。諸君よ察し給え心にもあらぬ耶蘇教を信じたる顔付きなしてイギリス人の乱暴を免がれ、真底より信じたる佛教を色にも出すこともならざりし属国人民の心中は如何に憐なる事ならん、諸君よ篤と御察し下されよかし。
然るに佛天のこの憫然なる風情を憐み給う所なるか、千八百八十年即ち今より九年前に外国より耶蘇教を打仆(たお)して佛教を引起すの総督を得たり。…オルコット氏と彼のブラバストキー夫人とが我国へ来られたる是なり。殊にオ氏は公然とみづから任じて山間僻地いかなる処にても佛教のためには奔走尽力して布教伝道せられしが故にさしも圧制せられたる佛教が光を放らて今は佛教は学術の正義に叶いし自然真理の宗教なりと云う事は国民の信任する所となれり。これまで佛教信者は官に対して堅く秘したりしが今は公然と公衆に対して我は佛教徒なりと誇る事を得るに至れり。
セイロンにて一定の祭日はただ耶蘇教のクリスマス…のみなりしがオ氏が官民の間に尽力して釈迦牟尼佛の降誕日を一定の祭日と致されしより今は国内第一の盛大なる祝日となれり。セイロンにては佛教上の書籍出版所は一箇所も無かりしが、今は佛教の完全なる書物を出版するようになれり。かつまた佛教新聞は一も無かりしが、今は立派なる佛教新聞を発行せり。セイロンには佛教学校は一も無かりしが今は山間僻地に至るまで佛経読誦の声の絶ゆる処は無きに至れり。
およそ是等の事は悉く皆オ氏の功労なるが故に、オ氏は我が国佛教者の首領にして我等佛教信者は之に従いて運動する事を得ること実に悦ばしき事の限りなり。されば今のセイロンは九年前のセイロンとは全く反対にて今は佛教者が却って耶蘇教者を嘲弄するの有様に至りたり、豈愉快ならずや。
…嗚呼我等が精神を支配する佛教は、神智学会の功力即ちオ氏の功績によりて既に恢復の途に上れり。我等が身体を圧制する束縛は何れの日にか之を解くことを得ん。諸君よ、篤と御高察下されて篤と御覚悟なされよかし。」【*4】
最後の一節は特に印象深い。ダルマパーラはこの時すでに、仏教復興がシンハラ人の精神的な独立を促し、「身体を圧制する束縛」つまりイギリスの植民地支配を打ち砕くに至るであろう事を強調していた。講演を筆記した日本國教大道社(後述)の藤本重郎は、「嗚呼オルコット氏やダンマパラ氏や実に能く勉たり実に正法を恢興して他日セイロン独立の基礎を立てたり。苟も護国護法の心あるもの誰か二氏を賛せざらんや」とパトリオットらしい直情な賞賛を附記している。ダルマパーラのメッセージは、或いはオルコット以上に日本人の琴線に響く、亡国の民の諄々たる訴えであったかも知れぬ。(つづく)
■注釈
【*1】 「ダンマパーラ居士の訃音」『現代仏教』No.106, 1933.8.
【*2】 『愛理者之殷鑑』ダンマパラ著 川上貞信訳(菊秀堂 M22.4)前書きより。
原文を現代語訳した。
【*3】 「ダンマパーラ居士の訃音」
【*4】 日本國教大道叢誌第拾壹号抜粋「神智学会書記ダンマバラ氏の演説」藤本重郎記 M22.12(誤記修正:2004/01/30 なおこの演説の日時については、『川合清丸全集』第九巻、「落涙演説」の序に明治22年4月7日とあるそうです。)
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