第二章 オルコット招聘運動顛末
 ・オルコット招聘運動と平井金三
 ・オルコット来ないなら寄付金返せ
 ・義兄金三の窮地に復堂先生起つ!
 《注釈》
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オルコット招聘運動と平井金三

 ヘンリー・スティール・オルコット著『仏教問答』日本語版の出版によって、インド神智学協会と日本仏教徒の通信はがぜん活発化した。明治十六(1883)年に建てられた鹿鳴館に象徴される欧化主義は、このころようやく反動期を迎えつつあった。おりしも明治二十一年には三宅雪嶺・志賀重昂らによって雑誌『日本人』が創刊され、国粋主義の旗が論壇にも翻る。キリスト教徒の攻勢に汲々としていた日本仏教徒はそのとき、釈迦の故国インドに、力強い援軍を見出していたのである。

 ほどなく「白い仏教徒」オルコット大佐をなんとかして日本に招聘せんという気運が、関西仏教徒の間で盛り上がる。この招聘運動は当時京都で新島襄の同志社英学校に対抗して英語塾『オリエンタル・ホール』を経営していた在家仏教徒の平井金三(1859-1916)と、浄土真宗僧侶の佐野正道が旗振り役となって進められた。

 佐野正道について詳しい履歴はわからない。一方の平井金三は安政六(1859)年十月二十五日、京都に生まれた。父は儒者で書家の平井義直(春江)、母は山科の西宗寺の出身。幼名を鱗三郎といい、のちに金三郎と改めた。明治四(1871)年、京都欧学校に入学。同校卒業後は長崎まで遊学し、外国人と交際して語学を研究した。それで外人にも呼びやすい金三を名乗ることが多かったのである。

 明治十七年二月、太政官文書局に翻訳官として出仕するが、約半年で辞職した。病気を理由にしていたものの、井上馨によるキリスト教優遇政策を嫌って建白書を突きつけての下野であった。野に下った平井は明治十八(1885)年一月、京都の室町御池に英語私塾『オリエンタル・ホール』を創設、新島襄の同志社英学校の向こうを張って優秀な人材を次々と輩出した。門下からは仏教学者の姉崎正治、加藤咄堂、歌人の甲斐和里子らが出ている。京都の知識人の領袖的な地位にあった平井は、もちまえの英語力と行動力をもって、オルコット招聘運動の中心を担ったのだ。

 平井たちは明治二十(1887)年の十月にオルコットから『神智学協会日本支部』の委任状を取り付けた。翌年二月にはオルコットのもう一冊の著書『仏教金規則(The Golden Rules of Buddhism)』を翻訳(佐野正道)出版し、ほどなく京都に『オルコット氏招聘事務所』が開設された。

 平井・佐野による盛んな運動の結果、同年末インド・マドラス近郊の神智学協会本部にて開催される神智学協会創立十三周年大会に野口復堂( 善四郎)を日本代表として参加させ、その足でオルコットを日本に招く事とあいなった。しかし、当事者の野口が語るところによれば、彼のインド行きはかなり泥縄的に決まったようだ。
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オルコット来ないなら寄付金返せ

「(オルコット氏招聘運動は)広く義捐を全国に求めしに、時運のせしむるところか忽ちに金は集まる。ところが佐野氏の不取締りから、大に不足を生じ、平井氏は自分の金側の時計まで売って、仏国メサジリ会社の汽船にてマドラス神戸間の二等片道切符を買いこれに招聘状を添えてオルコット氏へ差出し置き、一方佐野氏の穴埋めと、オ氏の接待費帰国の汽船費を要する事なれば、一層募金に努めて居ったが、印度よりは一向返事が来ない、世間の寄付者より 「いつオルコットは来るか、もし来ないならば寄付金返せ」との催促、そこで再度の案内状を出したが、これに対しても返事がない。平井氏はほとんど印度と日本の板挟みとなった苦しみである。」(野口復堂「這般死去せし『ダルマバラ』居士が始めて日本に入りし道筋」より)

 そこで平井から白羽の矢を立てられたのが野口復堂(善四郎)である。復堂の父は京都の商人。善四郎の学生時代に出家(日蓮宗)して貫名無着日信と名乗り、上京二組の戸長と愛宕郡小山村の村長をつとめた人物だ。十三人もうけた子供は不幸にもほとんど早世したが、残った善四郎は丈夫で利発だった。明治十(1877)年、西南の役にともない京都に移った明治天皇より学業天覧を賜り、学業俊秀のかどで官費英学校に進学したという。あとの詳しい学歴は不明だが、成人してからは英語教師として生計をたて、平井金三のオリエンタル・ホール幹事にも名を連ねていた。

 やはり平井の斡旋で、摂州三島の野口家に入り婿し、姓を改める。オルコット招聘運動の当時は、大阪府下の真宗大谷派茨木別院の三徳学校で英語教師をしていた。彼は「貫名善四郎」時代から、平井の同志として神智学協会との連絡を引き受けており、セイロン(スリランカ)神智学協会の幹部だったアナガーリカ・ダルマパーラとも文通を続けていた。
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義兄金三の窮地に復堂先生起つ!

 さて、オルコット招聘にまつわる騒動で進退窮まった平井金三は、ある日京都から摂州に野口の養家を訪ねて曰く、

「『平井の一命を助けると思って君、渡天してオルコットを連れて来て下さい。幸いに印度には霊智会創立後第十三回紀念大会が催される筈で、既に開き了ったか、未だ開かずにあるか、ともかく日本代表で御出席下さい。そしてオルコットを同道して来て頂きたい。そのうえ虫のえゝ話だが、旅費は君のお手にて一時お立換え置き下さい』とあったので、予は驚いた。

 それもその筈予が此家へ養子に来てから未だ半歳たつやたゝず、それに教職を辞し、郡役所、町役場、警察署への出教授も廃し、収入の道を杜絶した上、母に旅費の支出を請う事であるから断られるは当然と思ったから、ことを事後承諾法に託し、予は母にも相談せず、独断を以て承認し、平井氏の帰りし後に此事を義母に告げしに、義母は「あなたは平井を義兄として、当家へ貰い受けしものなれば、兄の難を助くるは当然なり」とさすが大塩平八郎の筋を引くもの、忽ち快く承諾して、三百年の家産たる田地を抵当に金を借入れ旅費を便じてくれた。」(同上)

 野口はただちに大阪府庁で旅行免状を取ると、祇園の栂の尾で送別の宴を受け、同年九月九日、神戸発のフランス郵船デショミナ号【*1】に乗り込んで単身インドへと旅立った。その時の心境を回想して曰く、「甲板の上より母に伴われ岩田帯の腹抱えて見返り見返りつゝ帰り行く妻の姿を見下ろした時は、さすがの復堂も落涙した。」(同上)野口善四郎青年明治二十一年のインド旅行はこうして始まったのである。
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注釈

【*1】 フランス郵船の当時の運賃については資料が見当たらず不明だが、日本郵船の航路が開いた明治二十九(1896)年の横浜〜コロンボ(野口の最初の目的地)片道渡航運賃は次のとおり【一等155円 二等110円 三等45円】(日本郵船横浜歴史資料館・山田仁美さんの御教示による)当時の物価:米10キロが1円12銭(明治三十年)大工の手間賃が54銭(同二十八年)薄給で知られた巡査の初任給が9円(同三十年)松山中学に赴任した夏目漱石の月給が80円(同二十八年)
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