第十七章 釈興然 〜日本に上座部仏教を伝えた留学僧(二)〜
・日本初!上座仏教教団の設立へ
・日本は“大乗相応の地”か?興然の孤独
・河口彗海をスカウトする
・「小乗仏教」を信じるということ
・興然と宗演 セイロン留学僧の対照的な生き様
・タイ王室に招かれる 晩年
・ボダイジュの浮き彫り 釈迦牟尼ヘの追慕
・墓碑
《注釈》
▼日本初!上座部仏教教団の設立へ
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釈興然 比丘は辛いよ… |
明治二十六(1893)年九月、釈興然はセイロンでの受戒と念願のインド仏蹟巡礼を果たし、日本へ凱旋する。余談になるが、ここで、釈興然のその後について触れておきたいと思う。
「不肖義去ル明治十九年九月十九日横浜解(糸に覧)ニテ印度楞伽州二入(口に比)那耶(注:ヴィナヤ、律)蔵ヲ研究罷在候将亦彼伝承現存之僧宝ヲ探究シテ遂二明治廿三年六月九日夜第二更、花法寺之戒壇二登リ具足戒之実行之淳粋ナルヲ伝ヘテ即本九月(サーワナ廿七日)午前九時横浜ヘ上陸シ翌日帰院仕弥以如来正風之正規ヲ実践修行仕候間…」
帰国の翌月、十月十三日に彼が高野山宛てに送った「御届」には、セイロンから釈迦直伝の教え「如来正風之正規」を持ち帰ったという強烈な自負心が読み取れる。興然は帰国後もセイロン仕込みの黄色い袈裟を脱がず、横浜市の三会寺にあって頑固な持戒生活を続けた。十月十七日には、南方上座仏教の日本移植を目指して『釈尊正風会』を結成。当初は日本仏教の留学僧としてセイロンに入った興然だったが、彼は、いつしか“釈迦直伝”の上座部仏教(いわゆる小乗仏教)への完全な帰依を決意していたのだ。
『釈尊正風会』は林董を会長とし、国内多数の名士の賛助を求めた。上座部の僧団規定では、227項目にも及ぶ厳しい戒律(具足戒)を守る僧侶が四人以上集まってこそサンガ(僧団)と呼ばれ、五人にして始めて出家を求める修行者に比丘戒を授ける資格が成立する。興然が日本に於いて上座仏教の教団を開宗するためには、なんとしても、最低五人の清浄な比丘が必要だった。彼はその死までに、合計五名の日本人青年僧をスリランカに派遣し、当地で受戒せしめ、日本で最初の“上座仏教サンガ”の設立を期したのである。
▼日本は“大乗相応の地”か?興然の孤独
同年「長名話の縁」で米国シカゴ宗教大会に出席し、十月末にダルマパーラと伴って日本に帰国した野口復堂は、日本でセイロン帰りの興然と再開した。興然が最も意気顕揚としていた頃だろう。
「(興然は)伯父に当たる東京目白の釈の雲照律師と反目争議の真最中で、其の所論を訊いて見ると、興然師の方は『雲照は予の師匠であり且つ伯父なる長上の位置に居れど、彼れに戒を授けし者は日本僧にして、言わば製造元よりの直輸入にあらず、支那なる仲買の手を経ている。之に反して此の興然は製造元で授戒されたもの、佛教正統の比丘であるが故に、同じ佛教の流れに住めば佛と重んじて、正統の興然に下るべきである。之れ興然を重んずるに非ずして佛を重んずる所以である』と云うのであって、雲照律師の方は『自分が最初渡天の覚悟であったが、高齢の事故弟子中彼を抽ん出て予の名代となし、青木(筆者注:雲照のスポンサーだった青木貞三)と頼んで資金の調達迄なし、漸やく入竺せしめて、やれやれ嬉しや興然帰りしかと言う時、『下座しろ、末席に付け』ではお話にも何んにもならない。
彼れがそれ程正統呼ばわりするならば、こちらにも申分がある。彼はあちらにて托鉢中、鉄鉢の中へ投げ込まれし魚肉を喰いし由。そんな破戒僧の末座へ何うして此の清浄の雲照が座れようか』と云うので、又之れに対して反駁は『假令い魚肉と雖も、布施の心を以て鉄鉢へ入れた以上は、不浄は変じて清浄となって居る。食して何等の疚しい処はない』と双方互に譲らず、我々俗人の深く這入るべき事ではないが、律師は戒定慧の三ツは佛教の骨格、其中戒最も重きをなすと言われるが、予を以て見ると律師は小乗の幼稚科、又興然師にしても授戒場の相違位で長者に下座を命ずるも出来過ぎて居る。兎も角這麼つまらない議論で赤目の釣り合いは佛教の恥である…」(「四十年前の印度旅行」より)【*1】
師であり伯父である雲照と戒律観をめぐって対立した興然だが、彼の活動は“日本は大乗相応の地である”というイデオロギーに支配された日本仏教界の大勢とも真っ向から対立するものだった。
▼河口彗海をスカウトする
興然は『禅(Zen)』を世界に広めた鈴木大拙、チベット探検で有名な河口彗海らにパーリ語を教授した事でも知られている。むろん彼に教えを受けた人物が、必ずしも彼の「上座部仏教移植」の情熱まで受け継いだ訳ではない。
このうち、河口慧海はチベット潜入の準備期間であった明治三十(1897)年二月まで、一年余り興然のもとで学んだ。河口慧海は興然がパーリ語教授の合間に諄々と説いた言葉を伝えている。曰く、
「そんな大乗教など信じてチベットへ行くなんという雲を掴むような話よりかここに一つ確実な事がある。それはまずセイロンに行って真実の仏教を学ぶことである。学べば仏教の本旨が分るから大乗教云々など言うては居られはしない。私の弟子として行きさえすれば船賃も出るしまた修学の入費も出来る訳だからそういう風にして行くが宜かろう。お前たちがどの位骨を折っても外国で学ぶ金が完全に出来るものじゃない」
興然は慧海に『釈尊正風会』を通じたセイロン留学を熱心に勧めたのだ。しかし慧海は…
「たといどれだけお金を戴きどういう結構な目に遇いましたところで、私が日本国家に必要なりと信ずる大乗教の主義を棄ててあなたの信ずる小乗教に従うことは出来ません。今日まで教えを受けたのは有難うございますけれどもそれはただ語学上の教えを受けただけでその主義に至っては始めから教えを受けたのではないからこれは全くお断りを致します」
とはねのけたから、興然も大いに感情を害し、慧海は追われるように興然の許を離れたという。【*2】万が一、このとき慧海が興然のスカウトに応じていたならば、後生に残る『チベット旅行記』は存在しなかったわけである。
▼「小乗仏教」を信じるということ
そもそも「小乗仏教」とは釈迦の死後五〇〇年ほど経ってから始まったとされる「大乗仏教」運動の支持者が、伝統勢力(厳密には、当初は説一切有部という特定部派への批判が主だったという見解もある)に対する蔑称として用いてきた言葉である。東南アジア各国でいまも奉じられている伝統的な仏教教団はもちろん、自ら「小乗(劣った教え)」などと名乗るはずもなく、「テーラワーダ(上座部 長老部)」と自称している。大乗仏教の経典には、いわゆる「小乗の徒」への罵詈雑言が溢れかえっているが、対する上座部は馬耳東風でさして反論も残していない。大乗仏教の勃興期には様々な論争も起こったであろうが、宗教戦争に至るほどの先鋭的な対立はなかった。だいいち仏教発祥の地インドでは、「小乗」も大乗もなかよく滅亡してしまったのだから、優劣などつけようのない話だ。
日本や中国・チベットなどの「大乗仏教」諸国にはそもそも伝統的な上座部仏教の教団は伝わらなかったのだから、「小乗」という言葉自体、実体を伴わない観念的な仮想敵でしかなかった。千数百年に渡って観念のなかで肥大してきた「小乗仏教」のイメージと、実際に東南アジアで信じられている上座部仏教とがイコールで結びつくわけがない。しかし一度形成された宗教的な偏見がそう簡単に払拭されるわけもなかった。明治時代、スリランカの小乗仏教もとい上座仏教を「釈迦直伝の仏教」と信じた釈興然が日本で直面した無理解は、良くも悪くもものわかりのよい価値相対主義に浸された現代人の想像を絶するものだったに違いない。
▼興然と宗演 セイロン留学僧の対照的な生き様
ちなみに興然と同時期にスリランカのゴール港に留学していた釈宗演(1859〜1919)は福沢諭吉の慶應義塾にも通った開明的な僧侶であった。宗演は明治二十(1887)年三月、福沢の薦めで「仏教の源流を究めるため」スリランカ留学に赴いた。滞在中には福沢が経営する『時事新報』に詳細な「錫蘭風俗紀」【*3】を寄稿し、翌年に帰国してからは、同じくセイロンの社会・宗教事情などを記した『錫崘島誌』【*4】を出版した。彼はその後、臨済宗の指導者として辣腕を振るい、明治二十六(1893)年にシカゴで行われた『世界宗教会議』で演説し、欧米社会にも名を轟かすに至る。
宗演は弟子の鈴木大拙をアメリカに送り「禅仏教」の海外進出を盛んに企てた。彼はスリランカで南方仏教の教義や戒律を学んだが、宗教的には大乗仏教の優位を確信しており、上座部仏教を退嬰的な「小乗仏教」と見切って外部からの観察者に徹していた。
まさに興然とは対照的な道筋を歩んだわけだが、風狂だったのは勿論、興然和尚のほうだ。野口復堂は宗演と興然を引き比べて曰く、
「此の禅師(宗演)は…却々の才子で、機鋒鋭俊容易に当るべからざる所がある。米国より帰朝のお土産の中にはダイヤの指輪がいくつもあり、お負けに復堂の買いし分迄お買い上げになると云う豪勢。それ故東京での禅堂は三井倶楽部、お弟子には河野廣中、野田大塊を始め大臣や名士が袖を連ねるのみか、禅那の中には帝劇の女優も居ると云う派出やかさ。
之れに引換え興然師は愚直に如実に頭も眉も剃り落し、朔風雪を捲く厳寒の中、麻の三衣即ち大風呂敷を素裸に巻き付け、ブルブルと慓えながら、鉄道局の復堂の許へ入り来り、先ず火の前で丸くなり両手を火に翳しつつ、『何うしても斯波宗教局長が、予が一家の創立を許してくれぬ。信徒の数が少くとも二万以上なければならぬと云う。実に困って了う』との落胆。
そこで復堂は、『世間普通の理屈から言えば、抑も一宗の開山たるべきあなたの服装は如何。印度は熱国故素肌に麻の三衣もよいが、此の寒い日本の冬に熱国同様の扮装、之れには尋常以上の理屈がなければならない。其の尋常以上の理屈を尋常の人に会得せしむるは容易の業ではない』と言って居る処へ、コンコンとノックの音が聞こえると、興然師は大声で『ヘンヅリかヘンヅリか、明けて這入れ』と言われたので、復堂は魂消居ると、戸を明けてそれへ這入って来たのは真黒な錫蘭のボーイであって、東神奈川迄の切符二枚と釣銭を列べて見せて居る。興然師は頻りに眼で見て勘定して居るが手には触れない。
そこで復堂は『不自由ですな興然さん、今時のお寺さんは金銭に余り手を触れすぎてよくないが、又あなたの様に嫌過ぎるもよくない。又ボーイの名は何んですヘンヅリ【*5】なんて、若し此席に欧米婦人でも居ったら貴女侮辱で国際問題を起こしますぞ』と言って、早速名を改めさす事に致しました…」(同上)
比丘が直接金銭に触れないというのは、もちろん上座部仏教の戒律である。しかし風土も国柄も違う日本において、上座部仏教の戒律を、それを釈迦直伝の仏法と信じて頑なに守り続ける興然の姿には、復堂の話術に頼まずともどこか悲哀と喜劇性が伴っていた。復堂の謂った如く“尋常以上の理屈を尋常の人に会得せしむる”のは容易の業ではなかった。
興然が期待をかけ『釈尊正風会』を通じてセイロンに送り出した青年僧たちの身の上にも、現地での病死、日露戦争による招集など様々なトラブルが続いた。法運つたなく、興然の夢見た「日本サンガ」の結成は遅々としてすすまなかった。
▼タイ王室に招かれる 晩年
日本では孤立無援に近かったその興然に、ひととき華やかな舞台を提供したのは、東南アジアの仏教国タイだった。明治四十(1907)年十月、五十九才の興然は、タイ公使ピヤナリンの懇請に応じてバンコクに赴く。興然師弟四人は現地で手厚くもてなされた。翌年タイ各地の寺院から送られた仏像五十余体と、タイ文字の三蔵(経典類)を携えて帰国した興然は、それらの仏像を仏陀の三十二相にちなんで神奈川県内の橘樹・都築・鎌倉にまたがる三十二ケ寺に安置した。いまではほとんど廃れているが、興然は三会寺の周囲を釈迦信仰の聖地に擬したのであった。
その晩年、興然は三会寺付近の丘に釈迦堂の建設を計画し、南方仏教移植の拠点としようとしたがこれも果たせず、大正十三(1924)年三月十五日、三会寺で死去した。臨終の床で、弟子の釈仁度を見上げた興然は、「わしのやった仕事はなにひとつ実らなかった」と枕を濡らした。「いいや和上さん、因果の理をお信じなさいませ。あなたのやられたことはきっとそれだけの果がございます。如来の説きたまうた因果の理は決して狂いはございません」釈仁度はそう言って興然を慰めるばかりだった。【*6】
▼ボダイジュの浮き彫り 釈迦牟尼ヘの追慕
JR横浜線小机駅から歩いてしばらくの場所にある三会寺は、寺域に幼稚園を併設した落ち着いた雰囲気の寺院だ。屋根の高々とした本堂には、本尊である弥勒菩薩の向かって左に、興然師がタイから招来した仏像が安置されている。恐らく銅製の諸仏は、中心にほそおもての涅槃像。他にも大きな仏像だけで三体ほど残っており、小さな金銅仏もあちこちに祀られていた。仏像に向かって右側を見上げると、佛足の画像と、黄衣をまとった興然の肖像画、師僧スマンガラ僧正の肖像画ともう一枚スリランカ僧の肖像画が飾られている。
急な葬儀の準備の最中、安藤尊仁住職に護摩壇の奥の内陣を見せていただいた。その時、筆者ははっと息を飲んだ。本尊の弥勒菩薩を収めた厨子には、菩提樹(ボダイジュ)の葉の文様が彫り込まれているではないか…。
この厨子はもともと興然がタイ王家から譲られた釈迦牟尼の座像を安置する目的でつくられた。三会寺の本尊は弥勒菩薩像である。興然はそれを押しのけ、敢然と釈迦像を本尊にすえようとしたのだ。
セイロン帰りの変わり者住職を支えてきた檀家の間も、さすがにこれには困惑した。結局、厨子にはもとどおり弥勒菩薩が安置されたが、釈迦座像向けにオーダーメイドされた厨子は弥勒様には少々狭かった。故に厨子の扉を開けても弥勒様のお顔は見えず、ギリギリ頭がつかえそうになっているのだと、住職は笑った。
「興然さんはよほど釈迦牟尼像に思い入れがあったんでしょうな」素早い手際で線香を本尊や脇侍に供えつつ、安藤住職の語った言葉が印象に残った。【*7】
▼墓碑
比丘興然の遺骨は、隣接する幼稚園の歓声が時折こだまする三会寺の境内の片隅、歴代住職の五輪塔中ひときわ目立つ南方風のストゥーパの下に、いまも静かに眠っている。
當山第三十五世
興然大和尚
大正十三年三月十五日寂
そして興然のストゥーパの脇には、『釈尊正風会』最後の伝法者、釈仁度の小さな碑が添えられている。
三会寺第三十七世渡錫留学受戒傳承
釋仁度和上の御遺骨は御遺言に從い
師釋興然大和上の墓石下前右寄に埋蔵し奉る
昭和二十六年八月四日示寂享年八十三歳
昭和五十一年二月十五日末資仁雲建立
あと一人。筆者は、興然がセイロンから連れ帰ったという従者、ヘンヅリ少年の消息を知りたいと思ったのだが、三会寺で彼の痕跡と出会うことはできなかった。
■注釈
【*1】 但し、興然が雲照と疎遠となった理由については、目白僧園の雲照のとりまき幹部連が、故意に二人を遠ざけたためだという複数の証言も残っている。(『雲照興然遺墨集』伊藤道海、石井亮定両氏への聞き書き。また『明治の仏教者(上)』常光浩然 S43.9.20 春秋社 p380を参照)ちなみに雲照の遺稿集である『釈雲照』( 草繁全宜編 全3冊 徳教会1913,1914.)には興然も寄稿しており、「…私が如来の正法律を鼓舞し真正出家の本懐を達せんものと希ふ様に成つたのも、和上が本気にやれと言はれた一言が染々と影響する所があつた様に思ふ。」と師への追憶の念を語っている。
【*2】 『チベット旅行記(一)』河口慧海 1978.6.10講談社学術文庫P26
【*3】 『時事新報』 時事新報社刊 明治22年4月25日より、三回にわたって連載
【*4】 『錫崘島誌』釈宗演 東京 弘教書院 1890
【*5】 いわゆるセンズリ(オナニー)のことをヘンズリとも云う。金関丈夫氏の「榻(しぢ)のはしがき」(『新編 木馬と石牛』岩波文庫1996.10.16収録)を読んで教えられた。ちなみに男性の性器を俗に「摩羅(まら)」と呼ぶが、これはサンスクリット語の“マーラ”(悪魔)という言葉から取られている。僧侶の修行の妨げとなる性欲が、あからさまに自己表現するその姿を「摩羅」と呼んで戒め、のちに親しんだのだろう。まったくの余談でした。
【*6】 「グナラタナ釈興然和上伝」
【*7】 後日再訪した三会寺で、興然が三会寺本尊に据えようとしたタイ伝来の釈迦座像を参拝させていただいた。東南アジアの仏像が日本人の美意識を打つことは残念ながら稀だ。三会寺の本堂脇に並べられたタイ招来仏像群の多くもその例外ではない。だから正直、たいして期待はしていなかった。しかしこの仏像はまるで違った。イメージしていたよりも小さな、黒ずんだ釈迦座像をひとめみて、筆者は息を呑んだ。そして仏像から放射される“慈悲の波動”に静かに心根を洗われてゆくようだった。興然が惚れ込んだのも無理はない。比丘興然。思えばどこまでも釈迦牟尼ヘの追慕に貫かれた生涯であった。
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