第十六章 釈興然 〜日本に上座部仏教を伝えた留学僧(一)〜
・日本スリランカ仏教交流の始まり 釈雲照の祈願
・釈興然をセイロンに導いた人々
・森鴎外より漢詩を送られる
・日本人初の上座部仏教僧侶の誕生
《注釈》
▼日本スリランカ仏教交流の始まり 釈雲照の祈願
野口復堂がインドに向かう途上に滞在したセイロン(現スリランカ)には釈興然、吉連法彦、釈宗演の三人の日本人僧が留学し、スマンガラ僧正らのもとで、パーリ語と上座部仏教教義を学んでいた。【*1】復堂が「日出づる国からの特別使節」としてインドを涌かせた明治二十一年には、日本からセイロンへの留学僧の派遣にまで到る仏教国際交流のルートが確立していたのだ。
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釈雲照 七十三歳頃 |
釈興然(1849〜1924)のセイロン留学のキーマンは師匠の釈雲照だった。雲照(1827〜1909 高野山真言宗)は幕末から明治にかけ、十善戒と呼ばれる戒律を弘め、荒廃した仏教の復興に奔走し、自身も戒律堅固な名僧として世人の尊敬を集めていた。雲照は明治十九年の三月頃、東京駒込において、渡来したインド人の講演を通じてインド仏跡の現状を知ったという。「インドには仏陀成道の霊地が今なお保存されている。すなわちブッダガヤがこれである」講師のひとことに、雲照は強く惹きつけられた。
また、こののち雲照は横浜神戸間の船中で、浄土真宗の赤松連城と偶然に出会った。雑談中に赤松は「…渡英の途中、セイロンに立ち寄ってスマナティッサという仏僧と面会したのですが、この方の法服はいわゆる三衣で、その色合はあなたの彼は衣と同じ木蘭色。私のような身なり(洋装であろう。註)で行きますと、先方では僧侶としてあつかってくれませんので、わたくしも俗人として対談しました。貴僧のような真言宗の僧侶がかの地にわたれば、非常に歓迎されることでしょう」と語ったという。この言葉もまた、雲照の心を大いに動かした。雲照は仏跡巡礼のため自らの渡印を望んだが、当時すでに還暦近かったために、甥の釈興然にその望みを託し援助したのである。
▼釈興然をセイロンに導いた人々
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釈興然 |
雲照と興然は親類という事もあって、ラッキョウを逆さにしたような頭蓋と高い頬骨、愚直な信念を宿した厳しい瞳がよく似ている。甥の方はそれに加え、出っ歯が甚だしい。釈興然(1849〜1924)は横浜の三会寺(高野山真言宗)住職を務めていた。明治十六(1883)年頃、インド渡航を志すようになったという。彼は同年八月と翌十七年十一月の二回、宗務当局に「印度游学之事」と題した渡航・留学費用の請願書【*2】を出しており、早くから仏教の故国での修行研究の熱意を抱いていたことが伺える。
雲照の命を受けた興然は、赤松連城に海外渡航手続きを問い合わせるとともに、インド入りを前に土宜法龍の紹介で南條文雄に師事し、サンスクリットの手ほどきを受けた。
このような動きと重なって興然の留学を促したエピソードがもうひとつある。明治十六年の五月、後に外相も務めた外交官の林董(次章を参照のこと)は有栖川宮威仁親王の英国留学からの帰路に随行してセイロンに立ち寄った。歓迎の席上で、林が「わが日本もセイロンと同じく仏教国である。」と述べると、同席していたマハームダリ官(セイロン植民地総督の秘書官。現地人が就任した)は非常に驚いた。
野口復堂が語った如く、アジアの東端に「日本国」が存在することすら知らぬものが少なくなかった時代である。後にこのマハームダリ官は甥のグナラタナ氏【*3】に命じて南條文雄に宛てた書簡を送り、「日本人僧侶がスリランカに留学し当地の仏教を学ぶにあたっては出来るかぎりの便宜を図る」旨の申し出をした。【*4】
もうひとつ。明治九年から浄土真宗の留学僧としてイギリスに修学していた笠原研寿は、ロンドンで肺結核を悪化させ帰国を余儀なくされた。治療のために明治十五年に帰国の途についた笠原は、船の乗り継ぎのために約二週間セイロンに滞在し、コロンボの神智学協会支部で講演したほか、スマンガラ僧正とも会見したのだ。
その際、笠原は「日本には南方仏教はいまだ全く伝わっていないので、もし今後日本からセイロンに僧を派遣することがあれば、パーリ語を教授して欲しい」と要請し、スマンガラから「当方では受け入れの体勢は整っている」との言質を得た。【*5】笠原は帰国後まもなく死去するが、グナラタナの書簡が笠原の親友で共に英国に留学していた南条文雄のもとに届いたのはそんな経緯があったためだろう。とにかく、このセイロンからの呼びかけは興然にとって渡りに船だった。
▼森鴎外より漢詩を送られる
林董や雲照のバックアップを得た興然は、明治十九年九月十九日、横浜港からフランス郵船に乗り込み、単身セイロンに向かった。その目的はセイロンにおける南方仏教の戒律研究とインド仏教遺跡の視察。【*6】彼は外国語会話の素養がなかったため、話し相手もいない寂しい船旅であった。十月、興然はコロンボに到着し、グナラタナ居士の援助のもとセイロン南部ゴール近郊の寺院でパーリ語学習と仏道修行に励んだ。
野口復堂が興然を訪ねた年、明治二十一(1888)年の八月十六日には、四年間のドイツ留学を終え帰国途上コロンボに立寄った森鴎外(林太郎)が興然に面会している。思わぬ客人に、興然は南方のフルーツ茘枝(れいし)を振る舞った。興然と同じ出雲人で、仏典の素養もあった鴎外は、遠いセイロンの地で根本仏教の研鑽を続ける興然の姿に感激し、その求道精神を讃える三編の賦詩を贈った。そのひとつを私訳とともに以下に示す。
錫を天涯に飛ばすこと 意 太だ雄なり
苦修何れの日にか 神通に到らん
疊花樹葉 渾て無用
眞法を海東に傳うるを 君に期す【*7】
「貴僧はただ一人、雄々しき理想を抱きセイロンに旅立った。苦しい修行は尊い悟りとなって実を結ぶだろう。そのあかつきには、数知れぬ経典(疊花樹葉)などすべて無用だ。(貴僧こそが仏法の体現者となるのだから!)願わくば、貴僧によって真の仏教が日本(海東)に伝えられんことを望む。」
▼日本人初の上座部仏教僧侶の誕生
明治の文豪から力強いエールを送られた興然。彼は明治二十三年六月九日、キャンディのシャム派総本山マルワッタ寺において、スマンガラ僧正を戒師として南方仏教の具足戒を受け。晴れて僧名グナラタナを授けられた。それは日本人としては仏教史上初めての、上座部仏教僧侶誕生の瞬間だった。後述するが、彼は翌年ダルマパーラとともに聖地ブッダガヤを訪れ、仏蹟復興運動をオーガナイズすることになる。興然に遅れて釈宗演(明治二十年 臨済宗) と吉連法彦(明治二十一年二月 浄土真宗仏光寺派)の二名も同じルートでセイロンに渡った。同国と日本とのあいだの宗教的な交流は、インドとのそれよりも更に二年も、先行していた。
■注釈
【*1】 野口復堂「四十年前の印度旅行」
【*2】 『雲照興然遺墨集』伊藤宏見(文化書房博文社 S49.3.10)P344に明治十七年十一月十七日付け請願が採録されている。そのなかで興然は、真言宗において重視されているマントラの発音は、本来サンスクリット語の正確な知識に準拠すべきものだして、「名実全ク乖ルカニシテ真言ノ尊教ナルモ終ニ妄言ニ属ス。嗚呼予の甚恐ルゝ処ノ最モ急ナリ。」と印度(及びセイロン)での正確なサンスクリット習得の必要性を訴えている。
【*3】 興然のスリランカにおける施主となったグナラタナ(グーネラトネ)について詳しい事は分からないが"MBJ" vol.10. no.10(1902年)には、興然のセイロン留学を勧めた人物としてゴール在住のE.R.Gooneratne氏の名前が挙げられている。『佛教』第壹号(M22.3.25)には、グーネラトネから林董に宛てた書簡が掲載されている。書簡は雲照の弟子らがグーネラトネに日本僧への厚遇を感謝して送った絹一函への謝辞であるが、この中でグーネラトネは、僧侶から俗人に対して贈り物を届けられた事に「佛宗徒は僧侶より物品の贈物を受るを好まず」と困惑している。本来僧侶とは俗人の布施によって支えられる立場であり、俗人にとっては僧侶への布施が功徳を積む宗教的行為であって、その反対はむしろ宗教的罪を犯すことになるからだ。グーネラトネは雲照の厚意には感謝しつつ「余はこの贈品について自から心に安んせざる所ありて、よってこの絹布はこれを僧に贈って雲照師と余との功徳となさんと欲するなり」と林董につげている。僧俗が厳密に分かたれた上座部仏教圏と日本との、文化的なギャップが面白い。
【*4】 ここまでの記述は、東元多郎「グナラタナ釈興然和上伝」( 「釈興然追悼号」『海外仏教事情』・10-3, 1944.6.)による。ちなみに同記事は、野口復堂が大正八年九月二十四日に三会寺で行った口演筆記『釈興然と釈尊正風会』(筆者は未見)などを基にして書かれている。
【*5】 『笠原遺文集』南条文雄編纂 東京 博文堂 M32.7.13
【*6】 東元多郎「グナラタナ釈興然和上伝」及び 杉本良男編「もっと知りたい
スリランカ」P278
【*7】 鴎外は同行の石黒忠悳軍医監とともに興然と会見した。鴎外がこの時残した漢詩についての解題は『森鴎外の漢詩 上』陳生保(H5.6.10 明治書院)P271及び「森鴎外と釈興然」林量三(山陰中央新報 1995.1.10)を参照のこと。原文は『森鴎外全集』第三十五巻(S50.1.22岩波書店)P233に依った。
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