第十五章 野口復堂の印度旅行 〜凱旋帰国まで〜
・パッチャパス・ホールでの大演説
・野口復堂は日印交流の先駆け
・南北仏教徒を結んだミッション
・スマンガラ僧正の公式書簡
・ついに凱旋帰国!
《注釈》
▼パッチャパス・ホールでの大演説
アディヤールで開かれた神智学協会大会でも、野口は特別待遇であり、百六歳の老爺が読んだ如く、現地の新聞にも大きく取り上げられた。「彼は素晴らしい男だった。記念式典における彼の感動的なスピーチは、ノグチを協会本部や一般のヒンドゥーコミュニティーの人気者にした。」オルコットは、その回想録で野口復堂のことを一貫して好意的に記している。【*1】野口の講演活動は、インド人の極東の未知の国日本に対する関心を大いに盛り上げた。
「さて(神智学協会大会の)会期中マドラス市内で時々公開演説会を開催した。その広告ポスタァに麗々と姓名を大きく印刷されてあるのは会長オルコットと復堂の二人で、他は世界各国よりの諸デレゲートとあるだけである。復堂たるもの大に喋らざるべからずで…」(「四十年前の印度旅行」より)
なかでもマドラスのパッチャパス・ホールで行われた講演は反響が大きかったようだ。オルコットは回想録にその演説の大部分を紹介している。野口はこのとき日本語で演説し、次いで英語の翻訳が読み上げられた。
「神智学徒の同志諸君、そしてヒンドゥーの友人達よ、私は最初のインド滞在の機に、日本人と他のすべての仏教徒が心から親愛をよせる神聖な国、我々の宗教の創始者が生まれ、彼の尊い教えが雄弁な声で発せられた国の皆さんに演説できることに、たいへんな幸福と名誉を感じます。
私は「日出づる処の国」から、最速の汽船で二十日間太平洋を航海しここにやってきました。しかし私たちに共通する兄弟愛が、まさに我々を黄金の鎖で束ねている事実を悟るとき、我々の間は一ヨジャナ(インドの距離単位 一ヨジャナは約七km)ほども、否このホールの幅ほども、隔たっているとは思えないのです。私たちを結びつけるものは、宗教復興へ向けた偉大なムーブメントにおける共通の関心事、すなわち我々の父祖たちによって教え説かれ、彼ら自身の生き方によって厳格に示されてきたモラリティの復興なのであります。」【*2】
彼はインドと日本との精神的な絆の太さを説き、聴衆のこころをがっちりと捕らえた。そのうえで復堂は、日本の仏教が置かれた現状について、オルコット来訪以前のインド・セイロンの状況と重ね合わせながら熱弁を振るう。そしてインド人聴衆にこう哀願したのである。
「私たち日本人仏教徒は、あなた方にかの社会的な奇蹟の働き手、宗教の守護者、寛容精神の教師を、少しの時間お貸し願いたいのです。彼は、自らと彼の同僚とがインドの宗教のために成し遂げた仕事を我々の国の宗教のためにも成してくれるでしょう。我々はオルコット大佐が我々を助けるために来てくださることを祈っております。どうか来て、我々の老人の希望をよみがえらせてください。我々のカレッジや大学の卒業生たち、また教育のために米欧に留学した人々に、欧米の科学は宗教の自然の姉妹であるにせよ、それは絶対確実でも、宗教の代用品でもないことを分からせてくださいと。」【*3】
ついで復堂センセイは日本の仏教僧侶の堕落ぶりについてもコテンパンにこき下ろし(さすがにその部分はオルコットも引用していない…)日本の宗教復興のためにはもはや外部からの清新な風を吹き込むしかないこと、日本の仏教徒がオルコットを『十九世紀の菩薩』と崇め、その来訪を心待ちにしていることまで付け加えた。(こりゃリップサービスが過ぎる気もするが…)たとえそこにどんな誇張やはったりが混ざり込んでいたにせよ、多くのインド人にとって、二十三歳の野口善四郎の言葉こそが有史以来はじめて耳にする日本人の公式メッセージであった。
「ミスター野口のまじめな話しぶりは、インド人の琴線を打ったように見えた。そして彼はホールに集まった人々の祝福をひとり占めにした。1584年の歴史的イベント以来、日本が外国に宗教的な助力を求めるアピールを発したのはこれが初めてであった…」【*4】
会場にいたオルコット大佐の回想だ。野口復堂のインド訪問を、戦国時代にはるばるローマを訪うた天正少年使節団になぞらえているわけで、これは恐れ入る。オルコットはさしづめローマ法王の役回りであるが、オルコットと日本仏教の関係の推移をみてゆくと、このたとえもあながち的外れではないような気もする。
▼野口復堂は日印交流の先駆け
ところで、復堂の回想によれば、彼はこのパッチャパス・ホールの講演で日本国の商業や工業・農業についても言及したという。その講演を聞き、新たな商機を悟ったインドの綿業業者は日本の農商務省に生綿の見本を続々と送り込む。その結果として、翌明治二十二年七月の日本政府による『印度綿業視察団』派遣、インドへの本格的なアプローチのが実現したというのが復堂本人の主張である。【*5】
「…その結果は日本郵船会社が始めての海外航路をインド「ボンベイ」へ開き、又同地に日本政府がインドに領事館の置き始めをなし、インド生綿の輸入よりして、紡績会社の勃興は此時から始まる。【*6】…従来英のマンチェスタァより外にゆかざりし印度綿が、同じ亜細亜の特に佛教関係のある日本へ来て、綿そのものも大喜び、茲に鐘ヶ淵紡績会社の如き今日日本が世界に誇り得る大紡績会社が出来たのである。【*7】…いささか誇るようだが日印を結びしは単に宗教の関係ばかりでなく、斯く物質上にも及ぼしたは、復堂お手柄と謂つべきである。」【*8】
まあ事実はそれほど単純ではないにせよ、実際の年代的経緯を見れば、そのように解釈できなくもない。野口善四郎の来印は新聞などを通じて広く報道されたというから、それをきっかけに日本への関心を高めたインド人士も決して少なくはなかったはずだ。キリスト教の浸透に危機感を抱き発憤した日本仏教による一人の宗教使節が、インドと日本の直接的な経済関係への呼び水ともなった…。復堂センセイの我田引水の仮説には、どこまでも抗い難い魅力があると思う。
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1888年アディヤール神智学協会にて |
インドにおける野口復堂の活躍を裏付ける資料を求めて、筆者はたった数日間ではあるがマドラス(チェンナイ)市内うろうろ歩き回った。神智学協会本部での資料購入を除けばほとんど収穫もなかったが、これからもできる範囲で調査を続けたい。わずかな手がかりといえば前号の「長名話」でもちょっと触れた写真(右側画像をクリック!)がある。復堂本人による解説は、リンク先のページに載せてあるが、この写真は明治二十一年十二月二十八日、アディヤールの神智学協会メインホールで行われた野口復堂送別会で撮られたものだ。
▼南北仏教徒を結んだミッション
さてアディヤールで年越しした復堂センセイ。正月明け早々の1889年一月十日、群衆に見送られながらマドラス港を出航しセイロンに戻った。「此時復堂の喜びは恐くは爾前爾後全生涯中の最大なるものである。何んとなれば日本出発前、京都栂の尾の送別会席上『復堂神戸に上陸せりと聞かば、オ氏は必らず来り居るなり、オ氏神戸に上陸せりと聞かば、復堂は必らず同道帰朝し居るなり、オ氏終に来らずとあれば、復堂は再び日本の土は踏まざるべし』と陳べ置いたからである」(「四十年前の印度旅行」より)
オルコットの日本旅行には、若きダルマパーラも同行することとなった。復堂みづから、「彼こそ究極の人物だ」とダルマパーラを随行員に強く推した際、しかしオルコットは「彼は富者の子で、しかも体に障害があり病弱。両親はとても日本行きを許さないだろう」と難色を示したという。またオルコットは、南方仏教の代表としてスリランカの高僧を同行したいと考えていた。しかし戒律に抵触する行いを極端に忌諱する保守的な僧侶たちは、日本が遠方であること等を理由にして誰ひとり彼の要請に応じなかった。結局、復堂の口添えにダルマパーラの両親も納得し「この時期において、大佐への特別な献身が彼の人生のおもな情熱の一つであった」ダルマパーラ青年だけが、このミッションにつき従ったのである。
出発前日の一月十七日、オルコット訪日を記念した盛大な出発式が行われた。スマンガラ僧正はオルコットを仏弟子アーナンダになぞらえた感動的な演説をなし、歴史的なミッションを祝した。【*9】恐らくこの時に撮影されたと思われるのが、『アジ活』講読窓口のページ冒頭に掲載している写真。紋付き袴姿の野口復堂の隣に見える日本人僧侶は、復堂がアディヤール滞在中にセイロン入りした東温讓師だろう。オルコットの右で訝しげな表情を見せているのは第八号で紹介した吉連法彦師である。(コレ)
オルコットはスマンガラ僧正(上述の写真ではオルコットからリードビーターの稚児扱いだったシンハラ人少年一人を挟んで中央に座している)よりサンスクリットで書かれた親書を託された。それは数百年の歴史的空白を経て、南方上座仏教の代表から北方大乗仏教の代表に向けられた最初の公式文書だった。その古い翻訳が残っているので、ここに引用したい。
▼スマンガラ僧正の公式書簡
《衆知の聖釈尊の祈念》
余はこの書簡を有名なる大日本の同縁の諸師および仏教信者たる我が同胞のために草せり
親愛なる同胞よ諸佛はこの現世に降りて無常の理を顕示せり
最後の仏なる釈尊はこの理に従って無常生死病苦の法を示し衆生を救う事を説けり
諸仏に従って往きし道は訓誨と究理を教えこれに従うて往く衆生は救わる可し
釈尊の楞迦山に三回降臨したまいその聖趾にてこれを潔め真理を吾等に明らかにしたまえり
釈尊入定後二百十四年においてダマリーカ王の子マハマヒンダラは六羅漢とこの楞迦山に来たり古えの仏道を説いてこれを国教とし以てその人民の救われたるを示せり
吾等はこの仏教の経文その注解等を釈尊の銘したまいしパーリ語にて現今なおこれを存せり
また仏教に尊守する僧侶ありて即ち潔白にその道を持せり
このゆえに日本同胞にしてパーリ語を学ばんとする人には尤も便益なる機会なり
この書を携える大佐オルコットと称する人は仏教の最も熱心なる信徒にして余は氏の日本同胞に大なる助力をなすを信じまた氏の日本国に滞在中は厚待を受くるをこいねがうなり
釈尊涅槃後五千三百三十四年ボッシ月の満月日楞迦山に於いてスウイバタノ大法師 スマンガラ書す
善良なる目的は成功するなるべし
世の善良なる人士は左の事を記せよ
高得なるコロネル・オルコットと名くる人は聖釈尊の忠節なる門弟にしてよくその訓誨を尊守せり故に下名等はいずれの国民にても三帰五戒を受け仏教拡張のため教会を組織する申請をなすときはこれを仏教信徒として承認記名することを依任す
この証として下名等セイロンに在るシャムラ宗及びアマラプラ宗の法師等は連書同人に渡すものなり
第一 スマンガラ・ナヤナ 第二 レリ・スマンガラ
第三 タッマランカリ・ナヤカ 第四 ザヒユチ
第五 アマラモリ 第六 グナラタナ 第七 デワーミッタ【*10】
書簡の内容はセイロン仏教の伝説上の由来と現状とを簡単に述べ、日本人のパーリ語習得のための留学を勧め、オルコットの紹介をしたうえで、氏の日本滞在中の厚待遇を望んでいる。またオルコットはスマンガラ僧正はじめセイロンの高僧達から日本での仏教徒の組織・宣教のための委任を受けていた。
これは考えてみれば異様なことだ。上座仏教の教理において、在家信者に三帰依・五戒を授ける権限を持っているのは出家した僧侶だけなのだから。
『世界仏教徒の団結』(ユナイテッド・ブッディスト・ワールド)を目指す前代未聞のミッションに当たって、セイロン仏教の指導者スマンガラ僧正は『白い仏教徒』オルコットに僧侶の特権の一部まで手渡し、全面的な代表権をゆだねたのである。オルコットとその従者ダルマパーラは、セイロン仏教界から日本仏教界に向けた、史上初の正式な使節(ミッション)として訪日した。その事実は、何度でも強調しておきたい。
復堂・オルコット・ダルマパーラの一行は、コロンボでフランス船S.S.Djeninah号に乗り込むと、いよいよ同月一八日に日本への帰還の途に就いた。
▼ついに凱旋帰国!
日本を発った翌年の明治二十二年二月九日、野口善四郎はオルコット大佐とダルマパーラを伴い、凱旋帰国した。神戸港の小野濱桟橋には僧侶七十人余りが待ちかまえていた。復堂曰く、「神戸に着くや波止場は丸い頭の山、この間より毛のある頭が二つ来て復堂を抱えて泣いたのは平井金三氏と佐野正道氏であった。」(「四十年前の印度旅行」より)
これが明治における南北仏教交流の最初の成果であり、世界史の視座から眺めるならば、長く出会うことのなかった南北の仏教徒が、数千年のときを隔て、仏陀の名のもとに再会を果たした歴史的瞬間であった。
南国育ちのダルマパーラ青年はセイロンからの船旅の途上、上海で初めて雪を体験して縮みあがり、途端に体調を崩した。(オルコットや両親の心配は、杞憂に終わらなかったのだ。)彼は寒さから来る強度のリュウマチ神経痛に苦しみ、日本に着くとまもなく、京都東山病院に入院する羽目となった。
ちなみに夫の帰国七日前、野口復堂の妻は無事女の子を出産した。その娘は、復堂に「三人迄も孫を拵えて」くれるのだが、それはまだまだ後の話になる。(つづく)
■注釈
【*1】 "OLD DIARY LEAVES" FOURTH SERIES 1887-92 H.S.OLCOTT p76
【*2】 同上 p81
【*3】 同上 p83
【*4】 同上 p86
【*5】 日本とインドの綿貿易の始まりと経緯については 山崎利男・高橋満編『日本とインド 交流の歴史』三省堂新書173,1993.2, P.43. に詳しい記述がある。当然、復堂の名前などでてこない。
【*6】 「這般死去せし『ダルマバラ』居士が始めて日本に入りし道筋」
【*7】 「四十年前の印度旅行」
【*8】 「這般死去せし『ダルマバラ』居士が始めて日本に入りし道筋」
【*9】 『浄土教報』No.1889,3/25.及び『仏教』No.2, 1889.にスマンガラ大長老の演説翻訳が掲載されている。
【*10】 『浄土教報』No.4, 3/25
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