第十四章 野口復堂の印度旅行 〜明治人が見たインド〜
 ・分断されたインド社会
 ・百六歳の老翁との対話
←前章 次章→ 総目次


分断されたインド社会

 約一ヶ月のインド滞在中、講演や名所巡りにと多忙な日々を送った復堂センセイ。日本人初のスペシャル・デレゲートは、同じアジア人としての同情もあってか、比較的偏見のない眼差しで植民地インドの有様を観察していた。しかし当時のインド人のあいだで頑固に守られていた迷信じみた奇習や、宗教やカーストの違いにとらわれた頑なな排他主義・閉鎖性に対しては噺家らしいユーモアも交えつつ、これを非難している。ヒンドゥー教修行者(サドゥー)やマハラジャたちの奇行を描いた伝聞まじりの与太話も、べらぼうに面白いが今回は割愛するとして、ここでは彼がマドラス総督が主催する迎賓館でのパーティーに、オルコットと共に招かれた夜のエピソードを御紹介したい。

 十二月二十四日のクリスマスイヴ。つい三日前にもやはり総督主催でマドラス在住の白人を集めた舞踏会に招待され、夜を徹した毛唐の乱痴気騒ぎに怖気をなして逃げ帰ったばかりの復堂だったが…

「…今度はインド人ばかり、饗応は庭をはい回る花火を見せるだけでそれが済めばホールの舞踏場に来客残らず円陣を作らしめ総督夫妻が握手して廻るだけで、それが終われば湯茶一ツも与えず帰らしむるのである。単にこれだけ聞けば総督は英国人には厚くもてなし、異邦人には残酷に扱う様に見えるが、決してそうではない。現に復堂は英国人に非ざるも英国人以上の歓迎を受けて居る。これ何が故か。復堂は宗教上の偏見迷執を持たぬからである。

 インド人はこれに反し牛肉は食わぬ。何時より何時迄の間は湯茶一ッ飲まぬ。他人とは会食せぬ。何々宗の者とは同卓に座らぬ。この祈祷の出来ぬ席では物食わぬとか、実に馬鹿げた迷執を固守する故、総督も饗応の仕様がない。これインド人自ら求めてこの淋しき席を作るのである。しかしこの淋しき席も総督あればこそ一堂にこれだけ異宗の者を集め得たのである。政治を英国にして貰うのも当然であると言いたい。」(「四十年前の印度旅行」より)

 特に最後の一節など、少々一方的な見方のような気もしないではないが、時はまだ明治二十一年である。口当たりのよい文化相対主義など一顧だにされない厳しい世相であった。しかも野口青年がまのあたりにしたインドの根強い宗教対立、加えて陰湿なカースト差別による人心の分断は現在もなおインド社会の宿痾でありつづけている。四民平等を掲げ、若い国民国家として自前の憲法(大日本帝国憲法!)まで制定せんとしていた日本の代表選手としては、インドの体たらくにあきれ返ったとしても無理はなかろう。
↑index

百六歳の老翁との対話

 迎賓館でのパーティーからの帰路、復堂は暗闇で彼を待ち受けていたあるインド人老翁に声をかけられた。当年百六歳(復堂談)という老翁は、復堂に遠い極東の独立国の様を詳しく問うた後、遥かあなたに桃色の服を着た一インド人を指さして、こう嘆いた。

「時が時世が世なればあの方が、今夜総督や君が占めし上壇に座して、我々を見る印度の王様の末である。印度の土が産した糸や絹をマンチェスターへ送り、紡いで織ってもらって高い代償を払って形だけは印度風に仕立てて、王様も我々も着ているので、我々は結構な印度語もあるにも拘わらず之は家族だけの言葉となって公には英語を使わねばならぬのである。国は小さく人は少なくても、君の国は国として立派なものだ。俺の国は大きく人数は君の国の幾倍もあるが、どうしてイギリス(英吉利)の厄介にならねばならぬのであろうか」

復堂はこの老翁に応えて、

「日本は仏教をこの国から貰いしも、国家の為になるよう東方仏教となし、セイロン(錫蘭)島のような戒律に束縛されて動きの取れないような死仏教とは違う。またこの印度の如く、折角の仏教を亡ぼして、迷執深い宗教に因って、飲食物の端にまで争いを生じているような事では、とても一国民の資格は備えられない、やむをえず政治はイギリスの厄介とならねばならぬのである。

 予がチューチコリンとマドラズ間の汽車旅行中の所見に、車上の車掌とフォームの駅長が別れの挨拶をなすに、各自宗教が違う故、駅長は指を曲げて鼻の上に当てて胸を左右に振ると、車掌は右手で左の胸を打つと同時に左手を左方へ開く。これでも喧嘩なしに同じ鉄道の仕事に従事しているから宜しい。

 しかるに今夜のこの客を御覧なさい。同挨拶の者ばかり一団となって、他団を敵視している。遠くこの鉄道従事員に劣っている。位置低き鉄道員の方が国家の組織に近付きいるにも拘わらず、総督に招かるる程の有力者が互いに敵視して、国家組織に遠ざかりつつあるは実に貴国の為に惜しむ処なり」(同上)

 復堂の諄々と説く言葉に、インド人の老翁は深く溜息を吐き、「御忠告骨身に徹せり」と復堂の手を固く握って涙をしつつ、

「過日の新聞に、
Mr.Noguchi, special Delegate represanting Japanese Buddhism in the 13th Anniversary of the Theosophical Society, Madras and the guest of our Governor-General is making a circle of eminent friends in India. His wit and humour, his genial temper and the mystery playing in his eyes and lips, in fact Mr.Noguchi as he is, is sunshine to all. One feels in his presence the flow and radiation of Love and Light through his simple words and short episode of his own life and the way-side experiences.
の書き出しで、長々とあなたの御経歴を読み、是非今夜はお目にかゝりたしと思って居ったが、幸いお目にかゝる事が出来てこんなに嬉しい事はない。如何にもあなたは新聞の記事通りのお方で、此の老人にも大に得る処があった。お別に臨んで一言する、印度と同じ亜細亜の中にも、あなたの如き人を生ずる日本国のあることを知ったのは、死し行く百六翁の冥土へのよい土産である、何分とも今後の印度を頼む」
質実剛健
質実剛健 日本男児

 老翁は復堂と固い握手を交わして、また闇の中へ去っていったとか。さて、ホントかね。あまりにもできすぎたエピソードではあるにせよ、当時「国家の体をなさぬ」まで零落していたインドの知識人にとって、アジアで唯一近代化と独立維持に成功しつつあった日本人による率直な批判は、しごく身に滲みるものだったに違いない。ともかく、極東の独立国からはるばるインドまでやってきた復堂先生、行動は大胆不敵ながらも、その思想とまなざしは程良い身びいきに貫かれながら中庸にして常識の線を外れない、質実剛健な明治日本の侠(おとこ)でありました。
↑index

←前章 次章→ 総目次 メールマガジン窓口
著作権は佐藤哲朗に帰属します。
Copyright © 1999-2002 Sato Tetsuro. All rights reserved