第十章 野口復堂の印度旅行〜セイロン珍談集1〜
 ・スマンガラとの会見
 ・コロンボで出会った日本人僧侶
 ・スリランカ仏教のあらまし
 ・スリランカのカースト制
 ・スポーテーの戒律珍問答
 ・1999年のインド旅行より〜非時食戒〜
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スマンガラとの会見

スマンガラ大長老
スマンガラ大長老
 もう二席ばかり、野口復堂のセイロン滞在記にお付合いのほど御辛抱願います。さて、アラブの英傑アフマド・アラービーとの印象深き邂逅の、後か先かは定かではありませんが、復堂の口上に依ればその次にあたる訪問先は。セイロン仏教界の重鎮にして仏教復興運動の大イデオローグ、シャム派(貴族派 由来は後述)のスマンガラ大長老でございます。日本仏教の使者としてセイロンを訪れた復堂センセイ。当然ながら島の仏教関係者への表敬訪問に忙しかった。

 二人の会見がなされたのは、スマンガラ大長老が学長をつとめるコロンボはマーリガーカンダのヴィジョーダヤ学院。いまも、上座部僧侶の教育機関として名門の誉れ高い。筆者は今年(執筆当時:1999年)の二月にスリランカを旅行した際、このヴィジョーダヤ学院も見学した。

 広い中庭を囲む学院の敷地内にはスマンガラの遺灰を納めたストゥーパと、いかめしき面魂のスマンガラ像が鎮座まします。寄宿舎にかかる物干しにオレンジ色の僧衣がたなびいてるあたりはお坊さん学校ならではの風景。ひょいとぶしつけに教室を覗けば、スリランカ各地やタイ・ミャンマーなどから留学してきた小僧さんたちが、算数の授業を受けている最中で。照れ臭そうに、はにかんだ笑顔を返してくれたものでした。さて、お話は111年前。

 曰く“一見生ける羅漢像”。大長老の肩書きにふさわしい貫録をただよわすスマンガラにまみえた復堂。挨拶もそこそこにマハーヤーナ・ヒーナヤーヤつまり大乗仏教・小乗仏教の教理問答にしばし花を咲かせた。大長老がごそごそと取りだしましたるは、以前もちょっと触れたパーリ語経典をしるした貝多羅葉の束。「この葉を記録用に供せしは紙の発明以前よりの旧習で、之れに経文を書する否刻するのは長き針を以てし、刻し終ればアクラ樹の灰を馴鹿の油で煉りしものを擦り込み、米の糠を以て葉面を拭い去れば、刻まれし文字のみ黒くのこり、他は糠と共に去って字形は明瞭となる」若きデヴィット青年がブラヴァッキーの助言でパーリ語学習を始めた際、この貝多羅葉の経文を用いた事は読者も御記憶でしょうか。
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コロンボで出会った日本人僧侶

ヴィジョーダヤ学院で学ぶ世界各国の小僧さん
ヴィジョーダヤ学院で学ぶ世界各国の小僧さん。算数の授業中をお邪魔した。1999年著者撮影
 スマンガラとの教義問答はいささか退屈だったのか、復堂センセイ、自らのインド旅行記ではあっさりすっとばしている。その代わり彼を感動させたのはヴィジョーダヤ学院に留学していた一人の日本人僧侶との出会いであった。極東から遠く離れたセイロンの地。ひとり根本仏教の奥義を究めんと修行する日本人。面会はかなわぬものかと請う復堂に、大長老は「ならばどうぞ」と彼を学院の中庭へ導いた。すると「周囲の森林中よりナモタサー・バカバトウ・アラハトウ・サンマサン・ボダッサーと哀れな声は蟲のすだくが如く、これは生徒が経文諳記の実習をやって居るので、それ等が大僧正の庭に出られたを見て、バサバサと背よりも高き草を分けて、こゝやかしこより現われ来り…」

 復堂一行を中心に、たちまち褐色坊主の円陣ができた。野口の訪ねし日本人僧の名は釈興然(しゃくこうねん 1849-1924)。真言宗に属し、横浜は三会寺住職を務めていた。彼は帰国後、日本における上座仏教の開祖となるのですが、その経緯に触れるのはまだ少し先として。「この中に興然も居るから御面会下さい」スマンガラの言葉に復堂は戸惑った。なにせ、

「興然師の容貌は顴骨高く口は大きく出歯であると云う事だけは元より聞いて居ったが、未だ面会した事はないので、今面前に数十の圓顱を列べられた所で、いづれも色黒々頭髪は元より眉迄も剃落し、偏袒右肩で五百羅漢の蟲干の様、どうして興然師が見出されようや。復堂は大声に日本語で、『斯く申すは日本野口復堂であります。この中に釈の興然師が居らるゝ筈、どうか私の前迄お進み下さい』の声に応じて、素跣足の興然師は列を離れて進んで見えたが、なるほど顴骨高く反歯の大口、復堂の眼には訳もなく涙が流れた。」

 野口復堂が決死の覚悟でインドを目指した明治二十一年、なんのことはない。セイロンには既に日本人僧侶が留学していたのだ。しかも留学僧は興然の他にもう二人。ひとりは興然師とおなじくヴィジョーダヤ学院の留学生の吉連法彦師。浄土真宗仏光寺派の僧侶で「この人は興然師の如く印度僧にならずして、俗服で下宿より学校へ通学したもの、却々の才物でオルコット氏二度目の来朝には通弁の労を取ってくれた人。惜しい事には才子多病、若死致しました。」そして「道が遠いのと何時電報が来てマドラスへ出発せねばならぬか分らぬので、本意を達しかねたは、当時ゴール港に独学して居られ、後に鎌倉円覚寺派の管長となられ、復堂と一緒に米国に往った釈の宗演禅師である。」

 なんと釈宗演(しゃくそうえん 1859-1919)の名が挙がった。宗演は明治時代の財界人や知識人に対して幅広く感化を与え、夏目漱石の葬儀で導師をつとめた禅僧である。『日本的霊性』などで日本近代思想界に異色の地位を占める鈴木大拙の師匠にあたる。明治日本を代表する高僧が、このときセイロンくんだりで修行していたとは!

 鎌倉円覚寺の俊英として、早くから将来を嘱望されていた宗演。彼は沈滞する仏教界を憂い上京、慶応義塾に入学した。近代化の奔流を目の当たりにして自信喪失し、還俗までを考えた宗演に、励ましの言葉をかけたのは塾長の福沢諭吉。「志を変更してはいかぬ。むしろセイロンに渡って、仏教の源流を研究せよ」若者たらし諭吉翁のひとことで発憤した宗演は単身渡錫。オルコットが受戒した地、ゴールにて貧苦にあえぎつつ仏教教理研鑽の真っ最中だったのである。

 時は明治二十一年。セイロンと日本を結びつけた僧侶の留学ネットワーク。その成立のいきさつと、釈興然らセイロン留学僧が辿った苦難の数々については章を改めて詳しく触れたい。今回はもっぱらお笑いネタで。
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スリランカ仏教のあらまし

 話は前後する。スマンガラを表敬訪問した復堂は、次に「平民的佛教の主脳」カルタラのスポーテー(スブーティ)大長老との会見に臨んだ。スリランカの仏教教団は、いづれも上座部仏教(いわゆる小乗仏教)を信仰し、同じパーリ語三蔵を奉じているが、大きくわけて二つの流れと三つの宗派に分かれている。宗派が違うといはいえ、端的にいえば創設にまつわるシガラミの違いであり、「御本尊が違う」だの「自力だ他力だ」という日本仏教の如き支離滅裂な対立はない。

 上述のスマンガラ大長老が属したのは「シャム派」と呼ばれる多数派。シンハラ王朝の内乱や西欧列強の侵略によって、スリランカでいっとき仏教サンガが滅びた際、シャム(現在のタイ王国)に渡り受戒した僧侶が創設した経緯から「シャム派」を名乗る。この派はスリランカの高位カーストであるゴイカマ(農民)カーストの連中のみ出家を認めているエリート派でもある。カースト差別を否定した仏陀の弟子が、こともあろうに出家教団内にカースト差別を持ち込むとはおかしな話だが、宗教的伝統というのは往々にしておかしな成り行きで出来あがっている。

 復堂がいまから会見しようとしているのは、貴族派のシャム派に対する“庶民派”アマラプラ派の大長老であった。こちらは排他的なシャム派の姿勢に反発したゴイカマ・カースト以外の人々が、ビルマ(現在のミャンマー)から招いた僧侶の指導を受け十九世紀初頭に立ち上げた新興教団。現存するスリランカの仏教教団は大きくわけてこの二つの流れに分類される。そのアマラプラ派から後に別れたのがラーマンニャ派で。大きなくくりの教団としては三つ。現在はさらに細かく分派が起っているのだが、そこまでフォローしていてはきりがない。
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スリランカのカースト制

 不用意にカーストという言葉を使ったので、スリランカのカースト制度についても触れて置こう。カーストといってもスリランカの場合、インド大陸に見られる如き峻烈な差別制度として存在しているわけではない。だいいちカーストの最上位でたびたび名前の挙がる「ゴイカマ」はシンハラ人の約半数を占める多数派なのである。元来は農業に従事していたゴイカマ・カーストの周辺には様々な職能カーストが配置されており、シンハラ王朝時代の土地所有制にもとづいた純然たる職能的棲み分けに近かった。

 もちろんゴイカマのなかにも様々なサブ・カーストが存在したが、インドのように少数のバラモン・カーストがヒンドゥー経典の知識を独占し、よりよき転生への切符を未来永劫握っているというような重苦しいシステムは存在しない。それでも各カースト間の排他意識は厳然と存在するし、それが故に「出世間道」にカーストを持ち込んだシャム派の排他性に反発して、他の少数派カーストの人々は“おらが仏教教団”を立ち上げねばならなかった。

 ちなみに、彼等が拠り所としたタイ・ミャンマーの教団にしても、もとはといえばスリランカから各国に移植された教団なのである。南アジアから東南アジアに拡がる上座部仏教の伝統は、社会情勢の変化に伴う消長をくぐり抜け、絶え間ない国際交流によって維持されてきた。中国・朝鮮から一方通行で仏教がもたらされてきた日本とはあまりに対照的ではないか。
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スポーテーの戒律珍問答

 ウンチクはそこそこに野口復堂の口上に戻しましょう。汽車と例によって牛車を乗り継いでカルタラの寺院へ向かった。「特に牛車と言えば、御大葬の御轜車の如く、悠々緩々たるものかと思えば間違いで、却々能く走るのである。さきに波戸場から霊智會支會に乗りし車の牛よりも今度の牛は小形でよく走る。鞭の代わりに馭者が梶に手をかけ、体を前に屈して、牛の臀を噛むのである。実に驚いた。坂道を上る時などは噛みづめである。…

 さてお寺へ着したが、寺はいづれも同じく境内の最も清浄なる地点にダゴバと称し、仏舎利を納めたる塔を有し、これが日本仏寺の本堂に相当して居る。説教も法事も皆野天でやる。土地の小学校も皆野天であって、木の枝に黒板をつるし、教員も生徒も皆裸体で、日本も近頃これを真似て森林学校を始めたが、これは夏季だけで、印度は常夏の国故、学校も年中常夏森林学校である。仏教では今でこそ俗風を学んで何々大学何々宗中学なんて言って居るが、昔は壇林と言って居った。即ち印度の林間学校の意味である。

 さてスポーテー大僧正に会って見れば、『あなたはスマンガラ僧正にお会いなされたそうだが、あの方は私を破戒僧だと言われるそうで、其理由は私が黒皮の手提カバンを携帯するからであって、仏具の中にカバンはない。僧侶の持つべきものでない。我々僧侶は金銭に生涯手を触れぬ。若し止むを得ぬ場合には、紙で手を包み之に触れる。それと同じく若しカバンを持たねばならぬ場合に際会した時は、手を紙で包むべきである。然るにスポーテーが手を紙で包みし事を聞いた事がない。全く破戒僧だと云うのだそうですが然うなると私も一言したくなる。仏僧が英語を使うのも破戒の一つである。なんとなれば英語で書かれた経文はない。然るにスマンガラは英語を巧みに話さるゝ、あなたは何うお考えですか』とこんな事を考える暇が僧侶の間にあるので、気軽に長生して世に遅れて行くのである。」
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1999年のインド旅行より〜非時食戒〜

 復堂センセイの話を聞いているうちに、ふと今年の一月、インドはデリーからバラナシーに至る車中光景を思い出した。ニューデリー駅から乗り込んだ二等寝台。筆者のボックスはドイツ人のカップル、ミャンマーの坊さん二人連れ、他二名という構成で。そこで出会ったミャンマーの坊さん、ひとりはチャリッタ師。若くて精悍な御仁で、腕に入れ墨入っていた。若気のいたりか、それとも軍事政権の悪口ばかり言ってたので、政治犯だったのかもしれぬ。彼がエスコートするのは“ハイ・プリースト”のソービタ長老。英語はまったく話せない、骨と皮みたくやせており、かなり御高齢と思われる。このたびは師弟連れ立っての仏蹟巡礼ということでした。

 チャリッタ師とは隣り合わせだったこともあり、車中ずっと話し込んでいた。お互いブロークン英語。(緬甸人の方が語彙豊富だったけど)発音が分からず聞き返しが多かったが、彼らは緬甸でも少数派のモン族の出身だそうで、「ミャンマーに最初に仏教をもたらしたのはモン族なのだ」としきりに地域ナショナリズムを強調していた。そんな事いわれても、筆者にはミャンマーの民族構成などわからぬので、「へーそーなの」と相づち打つしかなかったんだけど、帰国後にものの本を調べると確かに、緬甸仏教はモン族から広まったようである。

 そのチャリッタ師、風邪気味らしく、夜になってちょいと咳込んでいた。するとソービタ長老から「温かいコーヒーでも買って薬を飲みなされ」と言われ、ちょっと嬉しそうな顔をして、コーヒー売り(カッフィ〜、ネス・カッフィ〜と謡いながら車両をまわる)から照れ臭そうにコーヒーを買って飲んでいた。上座仏教の坊さんには、『非時食戒(ひじしょくかい)』という戒律があって、正午過ぎてからは食べ物は一切とってはいけないし、宗派によって違いはあるが基本的に水以外の飲み物も御法度なのだ。長老は風邪気味の弟子をみて、「薬を飲む」名目で戒律を曲げるのを許してやったわけ。阿呆らしいけど、なんとも心温まる光景でありました。

 野口復堂が聞かされる羽目となった、戒律をめぐるつまらぬ論争も、筆者のみた車中光景と同じ類のお話である。しかし翻れば上座部僧侶の戒律論争は、戒定慧(戒律・禅定・智慧)を修業の根本に据えているはずの仏教教団において、「戒律」という要素がきれいさっぱり蒸発している日本の特殊性を思い起こさせるエピソードでもある。煩瑣でバカバカしい戒律でも、それを厳守せんとする構えのなかには、出家者としての気概と、数千年にわたって受け継がれた仏教思想の裏付けがあるはずなのだ。
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