イントロダクション 普遍への窓としての仏教
 ・第二部を始めるにあたって
 ・福沢諭吉の“出家”未遂
 ・「魚屋の息子が大僧正」の終焉
 ・仏教という窓から吹き込んだ風
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第二部を始めるにあたって

「…仏教という偉大な精神文化は、近代という時代においてもなお、日本人が広大な世界へと自らを“開いてゆく”窓、普遍への回路であり続けていた。その窓を通じて世界と向かい合った先人たちの情熱と幻滅とを綴るマイナーな歴史の探索をこれから始めたいのである。」

 上に引いたのは、大アジア思想活劇を執筆するにあたって記した「イントロダクション」の一節です。筆者がだらだらとアジ活を書き続けているその動機を説明するために、いまだ上の文を越えて言挙げするほどの言葉を筆者はもっていません。日本人が広大な世界へと自らを“開いてゆく”窓としての仏教。普遍への回路としての仏教。近代日本において仏教が果たしてきた役割について、筆者の中には確信めいた思いがあるのです。ただその一端でも、このアジ活で伝えきれているだろうかと自問すると焦りともどかしさを感じるばかりなのですが。
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福沢諭吉の“出家”未遂

 このあいだ、たまたま山本七平氏の『日本人の人生観』(講談社学術文庫)という本を紐解いていると、そこで福沢諭吉の自伝『福翁自伝』について触れた一節がありました。といっても、山本氏の言葉ではなく、佐伯彰一氏の『日本人の自伝』を引用した下りなので、孫引きになるのが恐縮ですが、ちょっと引いてみたいと思います。

「天保六年(一八三五)生れの福沢は、まず完全に、明治維新以前の世代に属する。……福沢はその生涯の半ばをとっぷりと封建的なもののうちにひたした旧世代の一員に他ならなかった。その幼年時代の思い出のなかに、五番目の末っ子として生れた諭吉を、下級武士の父は、僧侶にするつもりであったらしいという話が出てくる。『アノ時阿父(おとつ)さんは何故坊主にすると仰ッしやつたか合点が行かぬが、今御存命なればお前はお寺の坊様になつてる筈ぢや』と母から聞かされたという。……後年の福沢が推察したように、『封建制度でチヤント物を箱の中に詰めたやうに秩序が立て居て、何百年経ても一寸とも動かぬと云ふ有様、……ソコデ私の父の身になつて考へて見れば、到底どんな事をしたつて名を成すことはできない。世間を見れば茲に坊主と云ふものが一つある、何でもない魚屋の息子が大僧正になつたと云ふやうな者が幾人(イクラ)もある話』を福沢の父は思い合せたに違いない」

 佐伯氏の本の出典となっているはずの『福翁自伝』さえ、本棚の奥で行方不明になっており、原典から数えれば曾孫引きなのですが…。がんじがらめの身分制社会だった(と謂われている)江戸時代においても、仏教の僧侶は<魚屋の息子が大僧正>ということもあり得るくらい、ある種身分社会の埒外にあるもうひとつの世界への回路であった(もちろん引用元の山本氏はそういう話をしているのではないけど)わけです。歴史にイフは禁物とはいえ、もし仮に諭吉が僧侶になっていたら日本の近代仏教史はどう変わっていただろう、と想像するになかなか楽しいものがあります。まぁそれはともかくとして…

 仏教を日本人は「出世間道」と呼んだ。これは漢訳仏典に基づく言葉ですが、阿部謹也氏の『「世間」とは何か』(講談社現代新書)を皮切りとして思想好きの間では「世間」という言葉が独特の言い回しと問題意識を付着させて語られています。仏教が堕落し知識人から眼の敵にされていた江戸時代末期にあって、うだつの上がらぬ小藩(中津)の武士であった福沢諭吉の父は諭吉を寺に委ねることを考えていました。そこには<魚屋の息子が大僧正>という、出世間への憧憬がいくばくか投影されていたことでしょう。(しかも、諭吉自身、維新前後の混乱期のなかで、自分の息子を「耶蘇教の坊主」にしようと悩んでいたというオチまであるのです。)
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「魚屋の息子が大僧正」の終焉

 上述の阿部謹也氏とゆかりの深い思想家に、浅羽通明氏がいますが、最近縁あって彼が法政大学で続けている「社会史」講義録をまとめて見る機会を得ました。公刊されていないテキストなので直接引用することは避けますが、そのなかで浅羽氏はこんなエピソードを紹介しています。

「私の友人に若い落語家がいるのですが、彼が落語家になる前に何をやっていたかというと、坊主になるための修行をしていた。このあいだ浄土宗の坊主の資格を得て、それで一段落済んだと思い落語家に弟子入りした。彼の坊主時代に、時々飲みながら愚痴を聞かされていたが、『坊主やってても未来がないっすよ。坊主をやるってのは、彼女をつくっちゃいけないということですからね。』これは仏教の坊さんだから禁欲的に彼女を作っちゃいけないのかというと、全然そうじゃない。何故かというと、彼女がいるなら別れることを覚悟しなければいけない職業だから。何故か。サラリーマン的な坊主というのはありえないんからです。僧侶というのは、いづれ寺を持たなければ食っていけない商売。(落語家の彼は)寺の息子じゃありません。ただのサラリーマンの息子です。ただのサラリーマンの息子が、坊主を職業として一生食って行くとしたら、当然ながら婿入りする以外にないのです。」

 僧侶という「職能」の変遷を、そのまま日本仏教の変遷と重ね合わせることには慎重であるべきでしょう。しかし江戸時代<魚屋の息子が大僧正>という身分制からの自由の夢をまとっていた仏教が、<坊主を職業としてゆくなら、婿入りする以外にない>という興醒めするようながんじがらめの世間稼業へと転落してしまった姿に、近代仏教が色あせた存在であることの、象徴性を見ないわけにもいかない気がするのです。

 近代仏教の歴史とは、<魚屋の息子が大僧正>から<世襲もしくは婿入り稼業>への転落の歴史だった。そう断言しても、業界関係者のブーイングさえ気にしなければ問題はないのかもしれないと思います。ただしかし、筆者がアジ活を通して描きたいのは、そんなみじめったらしい近代仏教史ではありません(だいいち寺族[僧侶の家系]でもない筆者がそんな事をダラダラ描くのは悪趣味というものです)。
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仏教という窓から吹き込んだ風

『仏教という偉大な精神文化は、近代という時代においてもなお、日本人が広大な世界へと自らを“開いてゆく”窓、普遍への回路であり続けていた。』この確信に導かれた『大アジア思想活劇』は、<魚屋の息子が大僧正>という生臭い出世間の夢が潰えたところから始まります。そんないかにも無理そうな物語が果して成立するのか?そういう疑問にいくばくかでも応えようと書き綴ってきたのが、いまHPに掲載しているアジ活の第一部だったと自負しています。

 これから物語は第二部へ。前半よりは幾分足早にそっけなく、徐々に建付けが悪くなるばかりの仏教という窓から、近代日本へと吹きこんだ風の記憶を辿っていきたいと思っています。

佐藤哲朗(2000/01/21)
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