▼岡倉天心の渡印について
アナガーリカ・ダルマパーラが三回目の来日を果たした明治三十五(1902)年、インドには天心・岡倉覚三(1863〜1913)がいた。天心(この号は生前ほとんど用いられなかったようであるが…)の伝記やインド旅行に至る経緯については、親切な解説書が数多く出ているのでここでは割愛する。九鬼隆一夫人・初子との不倫によって東京美術学校を追われ、日本美術院を新たに設立したもののまったく振るわず、要するに岡倉覚三は逆境にあった。
このインド行きの目的は仏教遺跡調査である。奈良の真言僧・堀至徳を伴った天心は、明治三十四(1901)年十一月二一日に日本を出港し、セイロンを経て十二月末インド入りし、カルカッタへと至った。ラーマ・クリシュナ・ミッションの指導者スワミ・ヴィヴェーカーナンダ【*1】を訪問した。彼は同地でスレンドラナート・タゴール(詩聖ラビーンドラナート・タゴールの甥)の許に滞在している。
翌十月までのインド滞在中、アジャンタ、エローラをはじめとして亜大陸各地の古代仏教遺跡を視察した。彼はブッダガヤも訪れており、驚くべきことに、ダルマパーラの“宿敵”ギリ・マハントとの間で大菩提寺の買い取りをめぐる交渉も行ったというのである。マハントと天心の会見については、スレンドラナート・タゴールによるおぼろげな回想録に記されている。
「(天心は)始めは仏陀の参詣のみが目的だったという。ところが、心の平安が得られるどころか、寺院の荒廃と環境の悪さに彼はひどく心を傷つけられた。その上彼は、世界中から小さなグループを作って集まった信徒たちが寺院周辺のそれぞれお国ぶり豊かな宿泊所に泊まり、釈尊成道の故地を目のあたりに見た感激から、色とりどりの衣服を供え儀式を行なって平和と善意の共通の理想に奉仕しているのではないかという幻想を抱いていた。何事もその核心に迫らずとはおかぬ性格から、岡倉はまずモハントから土地を譲り受け早速にこの聖地で活動を開始する以外に方策はないと判断したのだった。そして最初の巡礼団が派遣されるまで、差し当たって同伴の老僧にその管理を任せたいというのが彼の考えであった。
(中略)
やっとモハントとの会見がかなえられた。彼は隠棲者の姿にふさわしく僧院の屋上に作られた瓦葺きの小さな庵に住まっていたが、岡倉の贈物を恭々しく受け取って丁寧に深いお辞儀をし、偉大なる日本の著名な代表者を迎えて嬉しく思うと述べた。しかし、私が通訳して岡倉の願いを詳しく説明すると、モハントは自分にはその力が無いことを告白した。英国の地方官が同じ東洋の外国人に土地を移譲することを絶対に認めないであろう、また許可を得るため政府の上層部にどう接近したらよいかも自分には全くわからぬというのが、その理由であった。ブダ・ガヤをその聖地にふさわしく集団的参詣の場にしたいという高度に藝術的な岡倉の夢はかくて終りを告げたのである。」【*2】
この天心の行動が、ダルマパーラの活動となんらかの提携のもとに行われたのか、それとも気まぐれで熱しやすい彼の思いつきによるものだったのかは、はっきりしない。高楠順次郎によれば、ダルマパーラが天心にインドで土地を提供するなど二人の間に交流はあったらしいのだが、この当時、具体的にどのような関係があったかは分からない。
同じ時期、ヴィヴェーカーナンダらとの交流を通じてヴェーダーンタ教と大乗仏教の類似性を確信した天心は、真宗大谷派の学僧、織田得能をカルカッタに呼び寄せ、三人は日本で「東洋宗教会議」を開催することを画策した。しかし在印中にヴィヴェーカーナンダが急死したことで前途には早速、暗雲が立ちこめる。天心は帰国後も盛んに運動したものの、内外からの不可解な誹謗中傷や仏教各派の諸事情が重なり、「東洋宗教会議」計画はうやむやにかき消えてしまった。
天心の死後、昭和十三年(一九三八年)にようやく邦訳版が発表され、当時流行した反西欧アジア共同体思想の宣伝を担った著作『東洋の覚醒』もまた、この旅行中に書かれたものだ。ベンガルのインド愛国者たちのサロンで、天心は過激な言辞に彩られた自らの草稿を読み上げては批評を求め、彼らが返す荒々しい言葉、耳障りな警句を喜んで草稿に書き加えた。
後にダルマパーラが叫んだ反西欧的な激しいアジア・ナショナリズムの言辞にも、『東洋の覚醒』の語調とシンクロしている部分がないとはいえないだろう。ダルマパーラの後半生を彩ったアジア・ナショナリズム的な傾向もまた、天心と同じく、インドはベンガルの地で養われたものだったから。
天心がインドを去った翌年の明治三十六(1903)年、横山大観と菱田春草が天心の勧めによって渡印し、絵画技法の上でもベンガル派の近代美術運動に大きな影響を残した。その後も日本美術院関係者とベンガル派の交流は長く続いた。それから三十年後、日本人画家の野生司香雪がダルマパーラの招きに応じてサルナート初轉法輪寺の壁画を揮毫するに至るのであるが、そのエピソードはまた別の機会に譲ろう。
以上、アジ活に登場するのはこれで最期であらう天心・岡倉覚三と仏教復興運動の因縁話。頭の片隅にちょこっと置いといて欲しい。。
■注釈
【*1】ヴィヴェーカーナンダは1893年のシカゴ世界宗教会議に、ダルマパーラ とともに出席している。次の記事を参照のこと。http://homepage1.nifty.com/boddo/ajia/all/2chap6.html
【*2】「岡倉覚三 ある回想」スレンドラナート・タゴール 山口静一訳 (『岡倉天心 人と思想』橋川文三編 S57.10.15 平凡社 P31)。