コラム『若き日のガンディー 《セックス・ギーター・ブラヴァッキー》』
 ・ガンディーの生い立ち
 ・早婚とセックス中毒
 ・父の死 深い罪の意識
 ・ロンドン留学 菜食主義サークルと出会う
 ・異国で知った『バガヴァット・ギーター』
 ・ブラヴァッキー夫人との会見
 ・インド帰国と新たなる旅立ち
 《注釈》
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ガンディーの生い立ち

イギリス留学時代のガンディー
イギリス留学時代のガンディー
 後の世に“マハトマ・ガンディー”として知られるモーハンダース・カラムチャーンド・ガンディーは、一八六九年十月二日、インド西海岸に面するカシュワール半島(カーティヤーワール、カーティアーワード。現在はグジャラート州に属する)の小藩王国ボバンダールにその生を受けた。

 彼が幼少期を過ごした十九世紀のカシュワール半島からは、神智学協会インド来訪のきっかけを作ったアーリア・サマージの創始者ダヤーナンダ・サラスヴァティー、パキスタン建国の父ジンナーといった人々が世に出でた。また歴史をさかのぼればスリランカを建国したウィジャヤ王の一行は、二千数百年前このカシュワールから船出したのだという伝説も残されている。

 ガンディー家はバラモン・クシャトリアに次ぐ第三階級のバイシャ(商人)カーストであったが家格は高く、モーハンダースの父は彼が七歳の時、ラージコート地方の宰相に就任する。家の宗旨はヒンドゥー教ヴィシュヌ派であったが、カシュワールはイスラム教やジャイナ教などの勢力も強い地域。のちにガンディが説いた宗教的寛容は、単なるスローガンというよりは、彼の生活体験を通じて自然に培われた振るまい方だったのだろう。
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早婚とセックス中毒

 硬骨漢の父、そして信心ぶかい母に育てられたモーハンダースは、十三歳のときに両親の選んだ同い年の少女と結婚した。それも次兄と従兄との合同結婚式。ヒンドゥー教の結婚式には非常に煩雑な儀式と莫大な費用がかかる。故に最近人気のあるインド映画でも、結婚式のシーンは必ずといって良いほどストーリーの山場となっているのであります…とまれ新妻を得たガンディ少年は毎晩のセックスに夢中だった。回想録に曰く、

「私はカストゥルバ(妻の名前)を溺愛していた。学校にいるときも始終彼女のことを考えていたし、夜になったらまた会うのだと思うと、じっとしていられなくなるのだった。……(無学な妻に)字を教えてやりたいと心から思っていたのだが、会うと必ず性欲の虜となり、とてもそんな余裕はなかった」

 ガンディー少年のセックス中毒(ってこの年代の男の子なら普通のことだけど…)に鉄槌が下される日が来た。一八八五年、インド国民会議が結成された年、モーハンダースの厳父は死の床についてしまったのである。
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父の死 深い罪の意識

「十時半か十一時ぐらいだったと思う。私は父の体をさすっていた。伯父が交替しようと言ってくれた。私は感謝してまっすぐ寝室へ行った。妻はぐっすり眠っていた。無理やり起こして抱こうとしたが、五分もたたないうちに召使がドアをノックした。」それは愛する父、カラムチャーンド・ガンディーの死を知らせるノックであった。

「妻を抱きたいという欲望さえ抑えれば、最期の瞬間に父のそばにいてあげられたのに。その欲望は消すことも忘れ去ることもできない汚点を私の上にのこした。両親を深く敬い、彼等のためなら全てを犠牲にしても厭わないはずだったのに、実際には親孝行より欲望を優先させてしまった私であった。父がまさに息をひきとろうとするその瞬間、私の頭の中にはセックスのことしかなかったのだから。」

 しかもこのとき、モーハンダースの妻は妊娠していた。産まれた子供が生後まもなく死んだとき、彼はそれが自らの犯した“罪”への当然の報いであると思った。ガンディー思想の顕著な特徴である禁欲主義の由来を説明するエピソードは他にいくつもある。正直言って筆者は、これまでガンディー翁を“コスプレ聖者の老獪な政治家”というくらいにしか考えていなかった。しかしこのあからさまな告白を目にしたとき、この人がインドの民から“マハトマ(偉大なる魂)”と呼ばれる理由を少しだけ垣間見た気がした。
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ロンドン留学 菜食主義サークルと出会う

 四年後の一八八八年、モーハンダースは法律学を学ぶためロンドン留学を決意する。一児の父となったばかりの彼にとって、この“洋行”は悲壮な決断だった。当時のヒンドゥー教社会において、“穢れた”西洋人の国々への渡航は、事実上カーストからの追放を意味していたからだ。未来のマハトマ・ガンディーが、イギリス行きの船に乗り込んだのは九月四日。奇しくも野口復堂青年が日本仏教の命運を賭けてインドへ発つ、ちょうど五日前のことでした。

 ロンドンに辿りついたモーハンダースがまず直面したのは、食事の問題だった。菜食主義者の彼は、肉食中心ヨーロッパのメニューに囲まれて、まともな食事にありつくこともできなかった。このシャイなインド人青年のロンドン生活は、ベジタリアン・レストランの噂を頼りに何時間も街を放浪し、結局は安食堂のパンで腹を充たす日々から始まったのだ。しかし彼は夏目漱石のように部屋に閉じこもらなかった。(そしたら確実に餓死したろうが)当時英国で科学理論に基づく?菜食実践を提唱していたヘンリー・ソルトの著書と出会ったことで、ガンディーはロンドンの菜食主義者サークルと接点を持つようになったのだ。

 現在でも多少そういう傾向はあるが、十九世紀末の西欧社会において、「菜食主義」運動は反体制的なカウンターカルチャーと密接な関係をもっていた。“野菜を美味しく食べる会”は、同時に社会主義や心霊主義、そして神智学といったヨーロッパにおける価値紊乱者のたまり場でもあった。とまれロンドンの不逞者との付合いは、ガンディー青年の運命をゆっくりと転回させはじめた。
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異国で知った『バガヴァット・ギーター』

 ロンドンに来て一年ほど経った頃、モーハンダースは神智学協会に属するあるイギリス人の兄弟と知り合いになった。二人はインド文化に強い興味を持っており、この内気なインド青年をヒンドゥー教聖典『バガヴァット・ギーター』の読書会に誘ったのである。この申し出はガンディーをひどく恥じ入らせた。なぜなら彼はこのときまでインドの古典中の古典といわれるバガヴァット・ギーターを読んだことがなかったのだから。

『…知識の剣により、無知から生じた、自己の心にある疑惑を断ち、 [行為の]ヨーガに依拠せよ。立ち上がれ、アルジュナ。』【*1】

 モーハンダースは自分の無知を正直に告白した上で、神智学徒の二人とギーターの読書会をはじめた。あらゆるギーターの英訳書を手当たり次第に読みふけり、特にエドウィン・アーノルド(1832-1904)の訳文に心酔したという。同じアーノルド“The Light of Asia”(アジアの光。釈迦の生涯をつづった無韻詩)を通じて、仏教にも影響を受けた。神智学関係者がいまも誇らしげに語るエピソードだが、彼のインド民族主義への目覚めは、皮肉なことに母国語ではなく英語の訳本によって、そして異国の神秘主義サークルのなかでもたらされたのだった。
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ブラヴァッキー夫人との会見

 一八八九年の末、ガンディーはロンドンのアヴェニュー街十九番地にある神智学協会ブラヴァッキー・ロッジに赴き、そこで“ご本尊”のブラヴァッキー夫人、入会したてのアニー・ベサント夫人らと出会う。晩年のブラヴァッキーは、水腫でさらに膨らんだ肥満体を持て余し、愛用の肘掛け椅子に腰掛けていた。

「彼女が指輪をはめたずんぐりした指でもって休みなく煙草を巻き、それをひっきりなしに吸うのをみつめていると、たぶんガーンディーは彼女は一体聖人なのだろうか、それとも山師なのだろうかと自問したことであろう。もっとも彼自身、自分がマハートマーとなった後で、同じような仕方で人が自分のことをあれこれ思慮することになろうとは、知らない上での話である。」【*2】

 モーハンダースはその頃、ブラヴァッキーの『神智学の鍵』【*3】を読んでもいる。当然の事ながら、神智学徒の友人は、彼に神智学協会への入会を勧めた。「宗教についての知識は皆無に等しいのです。ですから今のところ、どの宗派にも所属したいとは思いません。」そういって固辞したガンディーの判断は賢明なものだったろうか。いずれにせよ、彼がインド人としての誇りを持ったからって、いきなりボロまとって塩の行進をはじめたわけじゃない。弁護士になるためロンドンくんだりまで来たのだ。それ以上でもそれ以下でもない。
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インド帰国と新たなる旅立ち

 一八九一年六月十日、めでたく弁護士の資格試験に合格したモーハンダースは、翌々日には妻の待つインドへ向け船出していた。その直前の五月八日、ブラヴァッキーはロンドンで波乱の生涯を閉じている。母親パトリバイもまた、息子の留学中に亡くなっていた。ガンディーは母の死を帰国後に知る。両親とも死に目に会えずじまいの、親不孝な男であった。

 弁護士資格を得たとはいえ、インドへ帰ったガンディーに居場所はみつからない。法廷でしゃべることもままならぬ内気な青年弁護士は、それから二年後、ふたたびインドを離れ南アフリカに向けて旅だつのである。そこで直面した露骨な人種差別との闘いを経て、彼がインドを独立に導く“マハトマ”へと成長を遂げる波乱万丈の物語は皆さんもよくご存知でしょう。今回はそんな派手なエピソードにかき消されがちな、あるインド青年の精神遍歴をご紹介した次第。されば今宵はこの辺で。 (つづく)
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注釈

【*1】 『バガヴァット・ギーター』上村勝彦訳 岩波文庫 1992.3.16 p56

【*2】 『若き日のガーンディー マハートマーの生誕』チャンドラン・D・S・デェヴァネッセン 寺尾誠訳 未来社 1987.9.30 p257

【*3】 邦訳は田中恵美子訳 神智学協会ニッポンロッジ 1987.2
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