第七章 ダルマパーラ二度目の来日
  ・フォスター夫人との出会い
  ・二度目の来日 日印交流を訴える
  ・日本仏教徒からの贈り物
  ・足早の帰国
  ・ブッダガヤ復興運動への疑念
  ・土宜法龍のレポートより
  ・幻の仏教国
  ≪注釈≫

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フォスター夫人との出会い

フォスター夫人
メアリー・E・フォスター夫人
 ダルマパーラはシカゴ万国宗教会議の日程を終え、アメリカ各地を講演旅行ののち日本へ向かう船上の人となった。十月十八日、寄港地にあたったハワイはホノルルで、彼はメアリー・E・フォスター夫人(1844-1930)と出会う。神智学協会の会員だったこの中年婦人は、カメハメハ大王につらなるハワイ王家の血を引いていた。船上での会見で、彼女は「私は気性の激しい発作に悩まされており、これは私自身にとっても親族のものにとっても悲劇の原因になっているのです。この欠点をいかにして克服すればよいでしょうか」と問いかけた。ダルマパーラはフォスター夫人に「私は良くあろう。わたしは起りくる怒りを抑えよう“I will be good, will Control the rising anger”」という決まり文句を教えて、強い意志を養うようにと助言した。

 わずか数分の会見で授けられた簡潔な実践法(一種のサマタ瞑想法であろう…)によって、フォスター夫人はやがて精神の安寧を得た。それ以降、彼女は生涯パトロンとして、ダルマパーラの孤独なミッションを影で支え続けるのである。

 奇しくもダルマパーラとフォスター夫人が出会った1893年の一月十七日、ハワイではアメリカ人植民者勢力によるクーデターが起きた。この政変によってリリウオカラニ王朝は滅ぼされ、アメリカの傀儡共和政府が成立。1898年にはアメリカとの合併条約が締結され、独立国ハワイは消滅する。アメリカの圧迫に抗したカラカウア王は、日本の皇室との縁組によって、独立ハワイを守ろうとしたことでも知られる。そのハワイ王朝の血を受け継いだフォスター夫人は日本仏教諸派によるハワイ日本人移民への布教活動にも資金援助や土地の提供を惜しまなかった。いまでは忘れられているが、彼女は『環太平洋』の仏教徒の恩人ともいうべき人物なのだ。

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二度目の来日 日印交流を訴える

 船は西へ西へと航海を続けた。十月末、ダルマパーラは日本からの大会出席者に伴われ二度目の来日を果たす。彼は帰国したての釈宗演・八淵番竜・野口復堂らと並んでシカゴ万国宗教会議の報告会を催した。宗教会議の成功は日本にも伝えられていたから、まことよいタイミングで来日したといえる。

 ダルマパーラは来日中、野口復堂の通訳を得て「印度に就て」と題した講演を行い、両国の親善を訴えている。おりしも同年、日本の神戸とインドのボンベイを結ぶ定期航路が結ばれ、日印関係は新たな発展を遂げようとしていたところだった。【*1】

「どの道から論じましてもインドは最も日本に近く最も日本に関係のある国でございます。インドの文学インドの宗教は取りも直さずこの日本国の文学、日本国の宗教となって居る…インドの人民が信じるには東洋…日本なり支那なり共に此の二国を指します、日本の助けなく支那の助けなくはとてもインドは一国の体面を存することは出来ぬとインド人は信じて居ります。そこでインド人民は右の手を差し延べてどうか支那よ、どうか日本よ、出て来て助けてくれ出て来て我に友誼を尽してくれと渇望して居ります。昔時にありましてはインドは外の国々の助けを借りませぬ、自分自らの力を以て外国人と貿易をして居りました。さて今日になりましては商法の権力というものは、悉く皆ヨーロッパ人の手に掌握されてしまった。

 …宗教上なり、文学上なり、日々の生活の上の習慣に致しましても、インドと日本とは誠によく似て合同の点が沢山ございます、私が今切に日本の方々に望みまするは、どうかインドにお出で下されてインドの教育ある人と一緒に仲間をお組み下されまして、共々に計られまして下されたならば、日本の方々がどの位インドの中から利益を得らるるに至るか計られぬことと存じます。」

 ダルマパーラの説く「日印親善」は、あくまでも“仏教”というファクターを中心に据えたものだった。彼は欧米の宣教師が植民地支配の尖兵としてアジアに進出したことを引き合いに出して、いささか挑発的な言辞も述べている。

「…アメリカの布教会社が千人の伝道師をば支那に派出し、それと同様の人数をばインドに派出して居ります。その伝道師達の先導で商法が、インドに向けて段々持ち込まれます。それと同じく日本も力ある国でございますから、仏教の伝教師をばインドに派出し、それと同時に日本の商業もインドに向けて派出されんことを希望いたします。」【*2】
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日本仏教徒からの贈り物

ダルマパーラとブッダガヤ出土の仏像
ダルマパーラとブッダガヤ出土の仏像(シカゴ万国宗教会議にて)
 ダルマパーラはシカゴ万国宗教会議の席上、ブッダガヤから出土したグプタ朝時代の小さな仏像をインドより持参し、ブッダガヤ復興運動への助力をアピールしていた。この仏像はそのまま日本に持ち込まれ、東京芝区西久保の天徳寺で仰々しく開帳された。天徳寺には土方久元・榎本武揚・佐野常民など朝野の名士も足を運び、参拝者が引きも切らぬ大盛況となったという。

 “天竺渡来の仏像”といっても、ダルマパーラが持参したのは仏塔の周りにレリーフとして飾られる貧弱な石像でしかなかった。しかし、イスラム教徒の蹂躙によって破壊し尽くされたブダガヤには、もはや安置すべき仏像さえ残されていなかったのだ。ダルマパーラからインド仏蹟の惨状を聞いた天徳寺の朝日秀宏和尚は、「ブダガヤ霊塔の中に安置すべき仏像を寄進せんことを発願」する。和尚は神奈川県大和田の信徒、浅葉仁右衛門氏に謀ると、浅葉氏より定朝作頼朝公勧進の阿弥陀仏の坐像が寄進せられ、ダルマパーラに託してこれをブッダガヤに送致することとあいなった。【*3】

 日本仏教徒からダルマパーラに贈られたこの仏像は、極東に伝わった仏教が故国インドへ里帰りを果たす、その象徴となった。次章で少しくふれるがダルマパーラはインド帰国後、この日本の仏像をブッダガヤ大菩提寺に安置する運動を大々的に展開し、領主マハントとの対立を先鋭化させてゆく。鎌倉時代作といわれる仏像は、慈悲とやすらぎを湛えた表情とは裏腹に、ブッダガヤの所有権を巡る争いのシンボルに祭り上げられてゆくのである。
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足早の帰国

 東京滞在中、ダルマパーラは芝の金地院に滞在して日本におけるブッダガヤ復興運動の旗振り役である釈雲照を何度か訪れたほか、各地で仏教演説会を行った。特に十一月三十日に本郷の真浄寺で開かれた「南北仏教に関する対話会」では、村上専精・織田得能・堀内静宇・釈興然・小栗栖香頂・黒田真洞(&野口復堂)といった面々と、仏陀の涅槃及び経典の結集、大小乗の区別や涅槃の定義などについて突っ込んだ宗教対話と質疑応答がなされた。この日の集いについて当時の仏教新聞は「南北仏教徒の相会し斯く教義上の対話を為せしは未曾有の事なるべし…」(『浄土教報』No164)と伝えている。

 しかし各宗の管長や日本の名士達の興味にもかかわらず、かんじんの大菩提寺買収を訴えるダルマパーラの努力は、資金的には充分な成功を収めなかった。ダルマパーラは日本滞在によって時間を空費していると考えた。伝記によれば「グプタ朝時代の仏像の管理に関する僧侶間の言い争いや、仏像の複製の製造・販売を独占しようという陰謀」が、さらに彼の日本滞在を難しくしていたという。まぁ、容易に想像のつく話ではある。

 東京を離れたダルマパーラは中部京阪各地で講演活動をしたのち、茨木の野口復堂宅に立ちより、十二月十五日、六週間の滞在の後に足早に日本を去った。中国とタイを経てセイロンに凱旋し、故国の英雄として熱狂的な歓迎を受けたあと、彼はふたたびインド・ブッダガヤ返還運動の渦中に戻っていった。
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ブッダガヤ復興運動への疑念

 ダルマパーラの伝記には、ブッダガヤ問題に関する日本側の消極性を批判する記述ばかりが目立つ。しかし日本の仏教徒の間では、「聖地奪回(というより買い戻し)」という威勢のいいスローガンのもとに展開されている運動への不信感が次第に高まっていた。ダルマパーラ来日の前年にあたる一八九二年に来日し、六月二十六日やはり芝の青松寺で「印度仏跡興復に関する意見」と題し講演を行ったサー・エドウィン・アーノルドに対して、聴衆からはこんな困惑気味の声が投げかけられた。

「これまで再三我々の代理者をインドへ派遣して、この霊蹟買収のことを計画しましたが、彼らの事情甚だ曖昧であって何時も時日の遷延されるのみで、やむを得ずその局を結ばずに帰ってきた有様であります、最初昨年一月頃の話では、一万円ならば譲ろうと云う申し出でありましたが、その後八月頃に至りて五百円でも千円でも宜しいと云うような話になりましたから、早速譲受人を遣わしましてその談判に取り掛かった処が、またまた十万円でも二十万円でも手放すことは出来ないと云うのであります…また英国の知事につき尽力と求めた事もありましたが政府に於いてはこれらの事に関係しないと云う故を以て、拒絶せられ、空しく帰ってきた始末であります。」【*4】

 日本の仏教界を長年に渡って翻弄したブッダガヤ復興のキャンペーンは、釈雲照がインドに弟子の興然を派遣した結果として生まれたものであるとも言える。だからこの時点では、日本仏教界は資金を供出する受け身の立場というより、ダルマパーラ“大菩提会”との「ブッダガヤ復興」共同主催者だったといってもよい。しかし当の雲照は、この年に帰国した興然が真言密教を奉じる師に背を向けて上座仏教の戒律を守りつづけ、『小乗仏教』の日本移植を試み始めたこともあってか、次第に仏蹟復興運動から離れてゆく。

 当初は日本人の「仏教の故郷」への想いを駆り立てた「ブッダガヤ復興運動」だが、遠く離れたインドでの宗教間のメンツもかかった一進一退の政治的駆け引きに、その情熱が長く耐えられるはずもなかった。「極東の仏教国」日本の仏教徒は、次第に、遠く離れた印度の遠縁にあたるダルマパーラから「仏跡復興」にかこつけて詳細な実状を知らされないまま金の無心をされているのではないか、という疑念を抱くようになっていった。
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土宜法龍のレポートより

 真言宗の土宜法龍(1854-1922)は、万国宗教会議に出席ののち通訳の野村洋三とともに欧州へ渡り、ロンドンとパリに滞在した。南方熊楠との生涯にわたる友情は、このとき結ばれたもの。法龍はロンドン滞在中、前述のアーノルドから、ダルマパーラのブッダガヤでの運動への苦言を聞かされた。曰く、

「インド佛蹟の興復は最初は容易なる如くなりしも、後に到りて至極困難となれり。そは彼のカルカッタにある大菩提会に関してなり。彼れは佛蹟興復というもインドに佛教を普遍するを以て大主眼(主要目的)とせり。これインド婆羅門徒(ヒンドゥー教徒)の甚だ恐怖するところにして、佛蹟興復のためにはこれが第一の障り(障害)となれり…」【*5】

 法龍はアーノルドの苦言を日本に伝えると同時に、日本から持ちかえった仏像のブッダガヤ安置問題を前面に打ち出すダルマパーラの運動方針に懸念と不信をあらわにした。また同じ外遊中にスマンガラ長老の弟子と会見した法龍は、その比丘がインドでの仏教復興に対してあからさまに冷淡な態度を取っていた事も報告している。

 一八九四年、セイロンを経てインドに入ると、カルカッタの大菩提会においてダルマパーラとも再開した。法龍はダルマパーラの人物について、アーノルドから聞いた風評も併せ「大言壮語癖のあるウサン臭い人物」という否定的な印象を拭えなかったようだ。【*6】まぁ、実際そういう傾向もあっただろう。法龍はこれより先、コロンボで釈興然も学んだヴィジョーダヤ学院を訪うた際にも、上座部仏教の名門教育機関というふれこみとはあまりにかけ離れた貧弱なありさまに憤慨してもいる。アメリカ・ヨーロッパのきらびやかな近代社会を見聞してきた法龍にとって、一事が万事貧しく不潔であやふやなアジア社会のありさまは、ただでさえ苛立たしいものだったのかもしれぬ。
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幻の仏教国

 貧しいアジア仏教国のありさまを、ただ貧しいというだけの理由で非難しているような法龍の口ぶりは、現代人の良識からすると少々嫌な感じがする。それを日本人のアジア蔑視だとか、大国意識の顕われだとか指摘することも容易かもしれない。しかし同じ“アジアの仏教国”とはいえ、富国強兵政策のもと帝国主義レースへの参入を視野に入れ始めていた新興日本と、いまだ植民地支配の収奪にあえいでいたインド・スリランカの間では、次第に意識の齟齬が生じ始めていたとしても不思議ではない。

 ダルマパーラの想念のなかで勝手に膨らみ始めていた「アジア仏教国の星」という日本の国家イメージ。それがただ手放しの賛辞として寄せられるうちは、日本仏教徒にとって心地よく響いた。しかし同じ期待感が具体的、実質的な支援の要請、要するに“金”の話になった途端、わずらわしい重荷に変わったのである。近代日本は対外的には“仏教国”であったとしても、仏教という宗教的なファクターによって国家政策を決定しようという意志も、余裕もついぞ持つことはなかった。これから約半世紀ののち、“大アジア主義”というさらに茫洋とした理念のもと、日本がインドという“幻”の世界に引き寄せられ国運を傾ける時代が到来するのであるが、ダルマパーラがその顛末を目撃することは叶わなかった。
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注釈

【*1】 ボンベイ行路の開設に至る経緯については『日本とインド 交流の歴史』P.50. に詳しい。

【*2】 「印度に就て」ダルマパーラ演説 野口善四郎( 復堂) 通訳 臼井喜代速記(『教報』12/5 ・164.)

【*3】 『教報』No.164

【*4】 『佛教』第四十九号 1892年

【*5】 『仏教』No.88「佛蹟興復は望みなきか」より。他に『仏教』No.87, No.90, 1894. 参照のこと。

【*6】 法竜はイギリスで生涯の友となる南方熊楠と出会った他、神智学協会のベサントとも会見した。ロンドンの神智学協会(ブラヴァッキー・ロッジ)を訪問した際、「此に予が尤も感ぜしは、彼の秘密室に釈興然上人の写真のありしことなり。是はオルゴット氏等と一所に撮りしものにて、多人数なれば上人の儼として天竺風の偏袒右肩にて居らるるの状を龍動(ロンドン)にて見るとは、亦意外の事に覚えたり…」(「神智学会談」『佛教』第八十七号 1894年)

 神智学協会について、彼は宗教家として比較的偏見のない眼差しで観察を行っていたが、次のような私見を示し、日本仏教の「宗教外交」に見受けられる軽挙妄動を戒めた。「…神智会は元より宗教に関せず。道の異同を云わずと雖も先ず、変則の佛教と云わざるを得ず。而して其出所即ち神智会の慈母は、雪山及び西蔵の佛教ならんは必せり、然らば大乗に近し。然るにヲルコット氏多年在印度の結果は、印度の佛教即ち小乗教は頗る此れと異なるを見る。故に亦小乗の信徒となりてエッチ・スマンガラ和上を戴だき遂に小乗教を大乗教と一致融通せしめんとす。而して其大乗と一致せしむるは、是れ或は神智会と一致せしむるの階梯の用たるにあらざるなきか、是れ大いに吾人がヲ氏の所為に対し調査講究を要すべきなり。」(同上)彼の欧州〜セイロン〜インド旅行については「木母堂全集 伝記土宜法竜」(1994.4 大空社)に詳細なレポートが掲載されている。
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