第六章 シカゴ万国宗教会議 仏教のアメリカ東漸
 ・“ランカーの獅子”カルカッタに拠る
 ・“The Maha Bodhi Journal”の創刊
 ・シカゴ万国宗教会議
 ・テーラヴァーダ仏教の代表として
 ・万国宗教会議と日本仏教
 ・アメリカ“初転法輪”の誓い
 ・オセロとキリスト
 ・宗教面での『国威掲揚』

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“ランカーの獅子”カルカッタに拠る

 インド・日本・イギリスとあちこちへ行きつ戻りつして恐縮のきわみの『大アジア思想活劇』ですが、ここからは“ランカーの獅子”ダルマパーラと日本の関係に向けて少しづつポイントを絞りながらお話を進めていきたいと思います。

 さて、第二部第三章「ブッダガヤ復興運動と日本」で触れたように、明治二十四(1891)年十月三十一日、ダルマパーラはブッダガヤで『国際仏教会議』を開催し、ガヤーの神権領主マハントからの大菩提寺奪還に向けて気勢をあげた。しかし会議の当日ブッダガヤを訪問していたベンガル副知事は仏教徒との面会を拒否したばかりか、「寺院はマハントに属しており、インド政庁に仏教徒を支援しマハントとの交渉を仲介する意志はない」と冷や水をぶっかけたのである。その背景には、ダルマパーラが大菩提寺の金剛座に五色の仏教旗とともに日本の国旗を掲げ、植民地当局に「日本人がブッダガヤをインド及び、アジア全域における、野望の槍の穂先として用いるかも知れない」というあらぬ警戒感を抱かせたことも影を落としていた。

 ダルマパーラの意図はどうであれ、ブッダガヤ問題はインドの“仏教復興”運動がまとっていた微妙な政治性をうきぼりにしつつ長い迷走を続けることになる。

 『国際仏教会議』直前の十月二十五日、ダルマパーラはカルカッタのアルバート・ホールで“Indian Mirror”紙の編集者ナレンドラ・ナート・センの司会のもとインドではじめて公式の講演会を催した。演題は「ヒンドゥー教との関係における仏教(Buddhism in Its Relation to Hinduism)」。講演を主催したセンは神智学協会員で、インドの近代的ルネッサンスには仏教の復興が欠かせないとの持論の持ち主だった。ダルマパーラはブッダガヤ返還闘争に取り組むなかで当時インドの政治的・文化的首都であったベンガル州カルカッタに集うインド・ナショナリスト(その多くは神智学協会に属していた)との交流を深めてゆく。生涯のうち四十一年ものあいだインドとりわけベンガルの地で過ごしたダルマパーラは、植民地支配下のインドが次第に「独立闘争の最終段階」に突入してゆくうねりを身をもって体験した。

「…ダルマパーラが青年であるかのように見なしたベンガル人はこの変化の原動力であり、彼らが反英的気運を導いていったのである。ダルマパーラは「若きベンガル人」の勃興、分裂、そして歴史的な闘争を経てその地方が統一されるのを目撃し、最後の段階で民族的抵抗の中心がベンガル人の組織から全インド民族会議に移っていったのを見た。…近代のセイロン人指導者のなかでも珍しいこの経験が、すでに神智学協会や彼自身の心理的傾向によって萌芽的に形成されていた彼の政治的抵抗の特徴と本質を決定づけた。」(Amunugama sarath,“A Sinhara Buddhist Babu Anagarika Dharmalpala and the Bengal Connection”)

 単なる仏教活動家の枠に納まりきらない、ダルマパーラの戦闘的な言行の背景に、彼が生涯にわたってインド亜大陸の革命の声揺り動かされ続けた事実を見逃すことはできない。カルカッタに拠ったダルマパーラは“獅子”の爪を鋭く伸ばし始めたのである。
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“The Maha Bodhi Journal”の創刊

 ダルマパーラはカルカッタでベンガル人神智学者ニール・コマール・ムッカージーの邸宅に寄宿した。ニールをはじめとするムッカージー一族は孤高の仏教者ダルマパーラと親しく交わり、彼を生涯にわたって外護しつづけた。チベット旅行者として河口慧海とのコネクションでも知られるサラト・チャンドラ・ダース(彼はイギリス当局のエージェントであったという説もある)と会見したのもこの頃である。

 1892年のはじめ、ダルマパーラは「大菩提会」の事務所をカルカッタに移した。同年五月にはアジア諸国に散らばる仏教徒のネットワークを確固たるものとすべく、機関紙“The Maha Bodhi Journal”を刊行しはじめる。当初は四折判8ページの小冊子に過ぎなかった“The Maha Bodhi Journal”は、現在まで100年以上にわたってほぼ休みなく刊行されつづける世界随一の仏教雑誌として存続している。同誌の巻頭には、釈迦牟尼が最初の弟子に向かって説いたといわれる訓戒、

「行け、なんじら比丘よ、衆生に齎(もたら)すために行け、衆生の幸福のために、世に対する慈悲をもって、善のために、齎すために、諸天や人々の福祉のために。宣言せよ おぉ、比丘たちよ、栄光ある教えを。説き広めよ、なんじらの神聖にして完全の、清浄な生活を。」(Vinaya Pitaka, Mahavagga)

 が掲げられていた。ほどなくアジアのみならずヨーロッパ・アメリカにまで読者を得た“The Maha Bodhi Journal”だったが、ダルマパーラは雑誌を郵送するための切手代を得るか、その日の夕食を得るか、しばしば悩まねばならぬほどに窮乏していた。「苦しむ“自己”など存在しないのだから、また苦しみも存在しないのだ」あまりにもカッコ良すぎるが、若きアナガーリカ(宿無し修行者)は嬉々としてその苦難をやりすごした。

 大菩提会のための雑務を忙しくこなしつつ、彼はビルマ(ミャンマー)仏教徒の支援を仰ぐ旅行、チベット仏教徒との関係を確立するためのダージリン訪問、アディヤールの神智学協会年次総会への旅行と、駆けずりまわった。その間にも、ブッダガヤに詰めていたセイロン比丘がマハントの手下のテロルに遭い負傷するなど、ブッダガヤを巡る情勢は一進一退を続けるばかりだったのだが…
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シカゴ万国宗教会議

 一八九三年、コロンブスのアメリカ大陸“発見”から四〇〇年を期し、シカゴでコロンブス記念万国博覧会(The Columbian Exposition)が開催された。この能天気なお祭り騒ぎに合わせ、J・H・バローズを中心としたアメリカ自由神学者・知識人を発起人として、シカゴ万国宗教会議(The World's Parliament of Religions)が企画される。会期は同年九月十一日より二十七日まで。世界中の異なった宗教的指導者が、史上初めて、平等の立場で一堂に会し討議を行うという、前代未聞のイベントであった。

「それより五〇年前だったら、キリスト教ドグマの影響と、東洋の偉大な諸宗教のことなど存在すら知らない一般的な無知とが、このような集いを不可能にしただろう。じっさい宗教会議の主催者たちは、シナにいる一宣教師によって「エセ宗教に媚態を呈している」とか「キリストへの反逆を目論んでいる」とか非難されたのだ。もし五〇年後だったら、政情不安や宗教への無関心の広まりは、会議の失敗を覚悟するなり、文化人類学的な好奇心の範囲まで、その意義を貶めるなりの結果をもたらしただろう。しかし前世紀の最後の一〇年期には、学者によるのではなく実際に信仰心を持った人々が、共通の基盤に乗って、世界の異なった諸宗教を紹介する機会が熟していた…」("Flame in Darkness" p73)

 宗教会議の趣旨を列記した項目のなかには「世界の偉大な歴史的宗教の指導的な代表者たちを、史上はじめて一堂に会合せしめること。」「おのおのの宗教が、世界の他の諸宗教に対して、いかなる照明を与えうるかを探求すること。」という穏当な表現と並んで、「有神論の確乎たる根拠と人類の不死の信仰のゆえん、および宇宙の唯物論哲学に反対する力を一致させ、強化させる必要を示すこと。」といったキリスト教的な宗教観がにじみでた個所も見うけられる。ただ、結果としてこの「シカゴ万国宗教会議」は植民地支配下で貶められていた東洋の精神文明を、西欧社会に宣揚する一大イベントと化してしまったのだ。
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テーラヴァーダ仏教の代表として

 ダルマパーラは、この『万国宗教会議』に、南方テーラヴァーダ(テーラワーダ,上座部)仏教徒のただ一人の代表として出席することとなった。“The Maha Bodhi Journal”を読んだバローズが、彼を招待したのだが、当時ダルマパーラはまだ二〇代の青年である。オルコットの日本行きの際と同じく、セイロン仏教界の要人があれこれと理由を付けて出席を拒否したためのシカゴ行きではあった。ダルマパーラの師であるオルコット大佐は、「インドにおいてなすべきことが山積しているのに、このような旅行に出かけるのは時間の浪費だ」とあちこちで吹聴してまわったが、さいごにはロンドンにいるベサント夫人への紹介状を渡してダルマパーラを送り出した。オルコットにしてみれば、ダルマパーラがアメリカへの往路立ち寄るロンドンで、神智学協会の内紛に巻きこまれるのはいろいろな意味で困るという不安もあったのだろう。

 七月のはじめ、ダルマパーラは“The Maha Bodhi Journal”を前述のサラト・チャンドラ・ダースに託してカルカッタを発った。船が立ち寄ったコロンボでセイロン神智学協会から財布を託され、スマンガラ長老は彼の旅路に諸天善神の祝福を祈り、セイロン仏教徒を代表してダルマパーラにバローズ博士への委任状を与えた。厳父ムダリヤルは気前よく、新調の服と旅費を送った。七月二十日、両親や親族、友人たち、仏教徒や神智学徒に見送られ、ブリタニカ号は抜錨して港を離れた。1889年の日本行きに引き続いて、ダルマパーラの運命にとってはそれよりもさらに深い意味を持つ、大旅行がはじまった。

 アメリカに齎されるため託された仏舎利と、ブッダガヤ出土の古い仏像と、二万枚の五戒の文だけを携えて、彼はインド洋をただよっていた。1889年のオルコットがそうであったように、ダルマパーラにはアメリカで、人々に仏教の在家の戒律を授ける権利も委任されていたのである。

うっふーん
アニー・ベサント女史
 はじめて訪うたロンドンで、ダルマパーラは「英国人の師(グル)」と呼び尊敬していたエドウィン・アーノルド卿、パーリ語学者リス・デヴィス博士、神智学協会のベサント夫人、リードビーター(そして彼がかどわかして連れてきたシンハラ人のジナラジャダーサ少年…)らに歓待された。特に神智学連の歓迎ぶりは異様なほどで、ベサントは「私は“マスター(マハトマ)”のためにも、貴方を世話してあげなければ。ブラヴァッキー夫人も生前同じことを述べていました。」と語り、リードビーターは「ダルマパーラのために費やすべき金をマスターから受け取った」とまで語った。まだあまり疑うことを知らない彼は、日記に「ベサント夫人は私にとって母のようだ」と記している。

 ロンドンからシティ・オブ・パリス号に乗りこんだダルマパーラはベサント夫人らシカゴの会議に出席する数人の神智学徒とともに、旅を続けた。九月二日にニューヨーク、六日にはシカゴに到着した。
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万国宗教会議と日本仏教

 このシカゴ世界宗教会議には、日本からも釈宗演(臨済宗円覚寺派管長)土宜法竜(真言宗高野山派)芦津実全(天台宗)八淵蟠竜(浄土真宗本願寺派)の四人の僧侶が仏教界を代表して参加した。

日本仏教代表団の勇姿
日本仏教代表団の勇姿 前列左から土宜法竜・八淵蟠竜・釈宗演・芦津実全 後列左から野村洋三・野口復堂
 マドラスでの「長名話の縁」かどうかは知らぬが野口復堂と、釈宗演や鈴木大拙と縁の深い貿易商の野村洋三も通訳として渡米している。これとは別に、オルコット招聘の立役者、平井金三は思うところあって前年からアメリカに乗り込み、巧みな英語で仏教講演活動を繰り広げていた所だったので、シカゴで日本仏教代表団と合流している。日本のキリスト教会を代表して小崎弘道、神道を代表して柴田礼一(実行教)が出席したことも付記しておく。

 日本国内の仏教界の保守派や、仏教ジャーナリズムのなかにもシカゴ宗教会議の性格に不信を抱くむきは多かった。

「この万国宗教大会は、欧米ヤソ教徒が、他教徒を威嚇するための示威運動である。かれらは必ず多数の勢力をもって他教の出席者を屈服するの手段を講じ、事によりては、「上帝(唯一絶対神)の存在」というような、ヤソ教の極めて肝腎な問題を持ち出して議案とし、多数決をもってこれを議決し、われら仏教の出席者をも無理やりに屈服せしめて、もってその勢力を張ろうとするかも知れぬ。うかうか出席せぬが賢明だ。」(八淵蟠竜「宗教大会報道」『日本佛教渡米史』常光浩然 s39.5 佛教タイムスより)

 このような反対論が強固に主張されたもので、バローズ委員長より招待のあった島地黙雷、南条文雄の両氏はことに託して出席を辞退したほどだった。一方で日本仏教の海外布教への期待も大きく、多くの仏教信徒の浄財を集めて日本仏教の教義を解説した複数の英文パンフレットが作成され、代表団によってアメリカにもたらされた。宗教会議期間中に配布された数万部に及ぶ英文「日本仏教解説書」のなかには、若き清沢満之(1863-1903)が執筆し野口復堂が英訳した『宗教哲学骸骨(The skelton of a philosophy religion)』も含まれていた。また釈宗演の演説草稿を英訳したのは鈴木貞太郎、のちの大拙である。
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アメリカ“初転法輪”の誓い

 八月四日に横浜より出航した日本仏教代表団は、十六日バンクーバー島ビクトリアに上陸し、二十一日にはシカゴに到達した。翌日、野口復堂が宗教会議委員長J・H・バローズに一行の到来を報じ、持参した縮刷蔵経全巻を贈呈。その後一行はシカゴ万国博覧会を見学したりシカゴ市街を散策するなどして宗教大会の開会までの時を過す。ちなみに宗教会議への反対論が根強かったのは日本のみならずアメリカ本土でも同様で、会議をめぐって骨肉の内紛をしていたキリスト教会が、日本から大挙して訪れた仏教代表団をみて急遽、開催の方向でまとまったという逸話も残っている。頭を剃り、(西洋人から見れば)異様ないでだちでシカゴの地を闊歩する日本仏教代表団の姿は、当時のシカゴ市民にも強いインパクトを与えたようだ。

 釈宗演によれば一行が遅れてシカゴ入りしたダルマパーラと対面したのは九月五日(ダルマパーラの伝記には彼のシカゴ入りは六日となっているが…)ダルマパーラ寄宿先のバートネット邸で巡りあった南北仏教徒の俊英たち。その時の記録を釈宗演の手記(「渡米紀程二」)から引用すると…

「暫くにしてパ氏来る。黒面長髪白衣をまとひ、金ぶちの眼鏡を通して炯々たる両眼、余(宗演)かつて彼とセーロン島に相知る。先づ合掌三拝、双方の健康を祝し、一別この異域に相見るの奇遇を喜ぶ。彼まづ口を開きて印度仏蹟復興を説き、大会後、日本に赴き諸賢の賛助を求めんと述ぶ。……諸君今回の大会議たるや千にあまる外教徒(異教徒)の前に立ち我が仏教を説くは歴史上空前の事、コロンビヤホールの一室諸君と余等仏徒の拠るところ、希(ねがわ)くば仏陀ガヤの霊地に仏世尊の説きたまひし昔を再演せんことを。」(『釈宗演伝』井上禅定 禅文化研究所 2000.1.20 p77)

 異国の地に集い、アメリカにおける仏教“初転法輪”を誓い合った仏教徒一行。十一日の開会当日、シカゴ万国宗教会議の会場となったレークフロント・アートパレスには各国の代表二百数十名、聴衆五千七、八百名があふれていた。
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オセロとキリスト

ダルマパーラとヴィヴェーカーナンダ
ダルマパーラとヴィヴェーカーナンダ(中央の二人)
 “万国博覧会”の関連イベントに相応しく世界各地の宗教が勢ぞろいしたこのお祭りのなかでも、ひときわ注目を浴びた人物はインドから出席したヒンドゥー教改革指導者のスワミ・ヴィヴェーカーナンダ(1863-1902)であった。“大聖”ラーマクリシュナの弟子として頭角をあらわしたヴィヴェーカーナンダは、このシカゴ会議のあと世界中にヒンドゥー教(ヴェーダーンタ)の福音を広めた。インドの民族宗教として扱われていたヒンドゥー教が、“世界宗教”として敬意を持って遇されるようになった最初にして最大の功労者はヴィヴェーカーナンダである。のちに岡倉天心との交流を通じて日本でも知られることになるのだが、奇しくも彼はダルマパーラとは反対の航路を辿って、日本の大阪・京都・東京・横浜にも立ち寄っている。岡倉天心はヴィヴェーカーナンダを日本に招聘せんとしたが、スワミの急死によって果たせなかったので、これが彼の最初で最後の訪日でもあった。

 がっしりした体格に煌煌とした大きな瞳、見るからにエネルギッシュなヴィヴェーカーナンダと、痩身でストイックな印象を与えるダルマパーラは好対照をなしていた。ヴィヴェーカーナンダはシェークスピア悲劇に登場するムーア人将軍オセロにたとえられたが、黒髪を湛え白いローブをまとったダルマパーラの姿は仏教使節というより、皮肉なことにむしろイエス・キリストをイメージさせ、クリスチャンが大部分の観衆に人気を博したのだ。宗教会議の議事堂にがん首並べたキリスト教会代表の誰一人として、このような賛辞を捧げられたものはいなかった。当時の新聞報道に曰く、

ちょっとやりすぎ…?
イエス・キリスト風のダルマパーラ
「ダルマパーラ氏は、宗教会議に集った面々のなかでもっとも興味深い人物の一人でした。いつも汚れない白衣をまとい、真ん中に分けてバックにまとめられたカールした黒髪、紳士的で洗練された顔つき。まるで彼は、私たちになじみ深い、イエス・キリストのポートレイトのように思えたのです。」(New York World,9.19.93, Woman's Tribune,Washington,10.9.93)

「黒くカールした髪(カーリー・ロックス))を広い額から後ろへかきあげ、鋭く澄んだ瞳で聴衆をじっと見すえ、長い褐色の指で響きわたる演説を強調する。彼には、まさしく伝道者(プロパガンディスト)のおもむきがあった。かかる人物が、すべての仏教徒を結集せしめ、文明化した世界のいたるところに“アジアの光”を広める運動の先頭に立っていることを知って、人々は恐れおののいた。」(St. Louis Observer,september 21. 1893)

 彼は宗教会議の席上、ブッダガヤから出土したグプタ朝時代の小さな仏像をインドより持参し、インドの仏教復興運動への助力をアピールした。下世話な推測だが、シカゴ万国宗教会議に上座部仏教を代表してダルマパーラではなく、袈裟をまとって頭を丸めた坊さんが出席していたとしたら、仏教復興の呼びかけが米国でこれほどまでの反響を呼ぶことはなかったであろう。ダルマパーラの講演に感動したC.T.ストラウスは、シカゴ神智学協会の主催で彼から仏教徒の五戒を授けられた。二人のアメリカ人オカルティストがセイロンで仏教に帰依してから十三年目にして、仏教はほんとうにアメリカに上陸したのである。

「偏見なしに考えることを学び、すべてのものを愛そのために愛し、汝の確信を恐れることなくあらわし、清廉なる生活をつづけよ。されば真理の日光は汝を照らすであろう。もしも神学やドグマが汝の真理探求の道に立ちふさがるなら、それらを横においておけ。熱心にそして勤勉に汝の救いのために働け、されば聖なる結果は汝のものとならん。」

 西欧社会におけるブッダ・ダルマの布教に自信を抱いたダルマパーラは、九月二十七日の宗教会議しめくくりを、仏陀そのひとの言葉を引用して言祝いだ。オークランドやサンフランシスコで引き続いて講演活動を行ったのち、彼はアメリカでの短いミッションを終え、大日本帝国への二度目の訪問に向けて船出した。
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宗教面での『国威掲揚』

 一方、日本仏教を代表した僧侶のなかで、英語を自由に操れるのは平井金三(龍華)のみだった。平井が繰り出すキングス・イングリッシュの激烈なキリスト教批判は会期中そうとう物議をかもしたそうだ。しかし通訳係と漫談に徹した野口復堂の話芸、言葉は通じずとも温厚なあるいは峻烈な人格力をもって仏教の玄妙を説く釈宗演や土宜法竜の講演もまた、アメリカ人に強い印象を与えた。日本仏教代表団は、宗教会議の閉会の辞を述べる栄誉にも与った。

 臨済宗の釈宗演は、宗教大会の書記官長を務めたポール・ケーラスと親交を結び、このコネクションを通じて鈴木大拙などの門下生をアメリカに送り込んだ。大拙らの活動が禅仏教の欧米普及に大きく貢献したのは周知の通りだが、大拙はアメリカでダルマパーラとも会っている。その経緯はアジ活でも後日また触れることになると思うのでお楽しみに。また真言宗の土宜法竜は宗教会議の閉会後、野村洋三を伴ってヨーロッパに渡り、ロンドンで南方熊楠との友情を結ぶことになる…。さて、釈宗演は成功裏に終った万国宗教会議を総括して、このように述べている。

「特に吾等が今回の大会に於いて、少くとも内外の注意を惹き起こせしものは、日本帝国民が、尊皇愛国の精気に富めること。仏教が如何なる程度まで、日本国民の精神を支配して、古今の国主に関係を及ぼしたること。仏教は世界的宗教にして而も現在の科学、哲学と蜜合せること。大乗仏教は、非仏説なりという妄想を打破せしこと。ニューヨークの豪商ストロー氏(上述のC.T.ストラウス)が大会場に於いて仏教の帰敬式を行いしこと、在米日本の有力家が、衲等のために、二回の仏教演説を博覧会場内に開きしこと等なりとす」(「万国宗教大会一覧」『大拙と幾多郎』森清 朝日選書417 1991.1 p99 より)

 明治初頭の廃仏毀釈から立ち直った日本仏教は、このシカゴ万博を契機として、ようやく日本の精神文化の一翼を担う存在として宗教面での『国威掲揚』を果たした。それ以上にダルマパーラ、釈宗演、土宜法竜といった個々の仏教者にとって、世紀末シカゴで花咲いた能天気な夢の祭典は、その後の半生の方向づける大きなターニングポイントになったのである。<
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