第四章 蜜月の終わり オルコット二度目の来日とその挫折
 ・オルコットの日本再訪
 ・十四々条の信仰条規
 ・国際仏教徒連盟の設立を目指す 2002.9.13 UPDATE
 ・神智学協会の内紛 覚醒と憎悪のネットワーク
 ・日本で拒絶された“仏教十字軍”
 ・オルコット冷遇の真相とは?
 《注釈》
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オルコットの日本再訪

オルコット大佐
オルコット大佐
 最初の来日から二年後の明治二十四(1891)年十月末、神智学協会会長ヘンリー・スティール・オルコット大佐は再び日本を訪れた。しかし二年前、“十九世紀の菩薩”とまで称えられ、熱狂的な歓迎を受けた光景はそこに再現されることはなかった。【*1】

「かねてより風説ありし印度神智協会長オルコット氏今回の来朝ハ、恐らくハ便船の都合に由りしならん。何となれハ氏のごとき人物にして突然来朝するは理において有間敷しからざる所なれハなり…」(『浄土教報』no.32 M24.11.5)

 信じがたいことだが、セイロンの仏教関係者はオルコットの訪日について日本仏教界に連絡することを忘れていたという。また折悪しく仏教界は名古屋で起きた大震災の救援活動に忙殺されており、不意に来日した老大佐を歓待する体勢も整っていなかった。いやそんな理由は言い訳に過ぎないだろう。重要なのは、日本仏教のオルコットや神智学に対する信頼そのものが、この二年間で大きく揺らいでいた事だ…。
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十四々条の信仰条規

 しかし、日本側の戸惑いなど知るや知らずや、オルコット自身の意気込みは前回の訪日をはるかに上回っていた。彼は衆生への慈悲、八正道、五戒、輪廻転生の思想、因果の理(カルマ)など南北仏教を一貫する(と彼が考えた)『十四々条の信仰条規』【*2】なるものを携えていた。オルコットの意図に触れる前に、そのさわりの部分のみ見てみよう。

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一 仏教徒は各々が同じく忍耐と寛裕を保ち、彼我の念を離れ一視同仁をなし、動物界に対しても隔てなき慈愛を施すべきである。

二 宇宙(The universe)は(神の)創造によらず進化/展開(evolved)したものである。その働きは神々の気まぐれに依るのではなく(自然の)法則に依るものである。

三 仏教の真理は自然より見いだされたものである。「悟りを得たもの」を意味する「ブッダ」の真理は、連続的な世界周期(カルパ)において必ず出現したもうブッダたちによって指し示されたのだと我らは信ずる。

四 現在のカルパにおける第四の法教師は釈迦牟尼、即ちゴータマ・ブッダであり、彼は今より二千五百有余年の昔インドの王家に生れた。釈迦は歴史上の人物であり、もとの名をゴータマ・シッダールタと呼ぶ。

五 釈迦牟尼は教えを説いて曰く、無明(ignorance)は欲望を生ずる。これを満足させんとするに依って転生が起こり、転生はここにまた苦(sorrow)の縁となる。故に苦を退けようするならば転生を避けねばならない。転生を避けようとするならば欲望を消し去らねばならない。欲望の念を消し去ろうとするならば無明を滅ぼさねばならない。

(中略。ここから因果応報説、四諦八正道など比較的オーソドックスな仏教修行論が展開されている。そして最後の第十四条。述べられているのは伝統的なブッダの戒めであるが、そこはかとなく神智学徒の矜恃がダブっているようだ。)

十四 仏教徒は迷信的な信仰から遠ざからねばならない。ゴータマ・ブッダ曰く、父母たる者はその子弟を教え導くのに学問と文芸を用いなければならない。また曰く、何人を問わず、その言葉が道理に合わなければ、賢者の言葉であれ、どんな書籍に書かれた言葉であれ、或いは伝統的な格言であれ、決してこれを信じてはならない。
("OLD DIARY LEAVES" FOURTH SERIES 1887-92" H.S.OLCOTT, The Theosophical Publishing House, Adyar, 1910, p415)
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国際仏教徒連盟の設立を目指す

 オルコットはこの十四ヶ条に基づいて“International Buddhistic League”つまり『国際仏教徒連盟』を設立し、南北仏教合同の海外布教を開始しようと意気込んでいた。「相共に真理の大敵に当り普く完全なる信仰の回復を計るには此に偉大の十字軍を造出せざるべからず。而して我々の組織せる十字軍はマホメット教徒に向かって攻寄するものにあらず、ヤソの古墓を取返さんとして起こしたるものにあらず、正しく是れ真理を破らんとする大敵に向かって起こし既頽の信仰を回復せんと欲するの一大軍隊なり…」オルコットが日本の仏教徒を奮い立たせたアジテーションは、口先じゃなく大マジであった。

 そもそも彼の“International Buddhistic League”計画は明治二十二(1889)年の訪日を通じて構想されたものだったという。それは同年五月初頭、東本願寺との提携によって京都に神智学協会日本支部(らしきもの)が設立された晩のこと…

「私が幹部らを代表した本願寺公認による、神智学協会(T.S.)地方支部を立ち上げた(…いや立ち上げたとは到底言えないのだが、とまれ加盟の儀式をひととおり執り行った)日の晩のことである。その一派にはその種の実際的な仕事の前例が無いということと、いくつか提示された明白な理由に、私は納得しないわけではなかった。
 同派のもっとも悟道を究めた最高幹部達は、日本における神智学協会の布教活動の問題についての討議に際してこう述べた。「もし私(オルコット氏)が来日しこの地に居を定めるのなら、必要なだけの支部と希望するだけの何千という檀家を紹介しよう。しかしそうでなければ(オルコットが組織を指導しないならば)、この企てはあまり意味をなさないだろう。というのも派閥主義の精神があまりにも蔓延しているが故に、連中は誰かが幹部となり他のメンバーが平会員にならざるを得ないような組織に入ることを承諾しないし、もしも組織のリーダーが彼らの毛嫌いする対立宗派の人間でなかったとして、成功するかどうかは五分五分だろう」と。」

 ここでオルコットは、アジア仏教諸国における自らのユニークな立場を改めて認識した。そしてその認識は、彼にひとつの素晴らしい構想を閃かせたのである。

「あらゆる派閥と社会的な共同体と無縁の外国人として、唯一ひとりの白人だけが、この協会を首尾よく導くことができた。もちろんまず最低限、敬虔な仏教徒であることが必要であったし、誤った解釈を正しい方に導こうとする意志が必須ではあったが。そういうわけで、つまりこの私が、彼らの前にあってそれらの要請を満たす唯一の人間だったのであり、検討の余地ありとみなされたというわけである。
 このような情況についてよく知ることによって、シンハラ人やビルマ人の諸国についての私の造詣も深められ、結果として、神智学運動にもっとのめりこめば、そして、いわゆる仏教的観点から絞って思うさま専心すれば、ほどなくして仏の教えをあまねく世界に広めるための国際的仏教連盟を建設することができるであろうと思うに至った。このことが最高位を辞し、HPB(ブラヴァッキー夫人)に全権委任する即断の直接のきっかけとなった。」("OLD DIARY LEAVES" FOURTH SERIES 1887-92" H.S.OLCOTT, p149-150)
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神智学協会の内紛 覚醒と憎悪のネットワーク

 日本で仏教各宗派間のあくなき争いを目の当たりにしたオルコットは、アジア仏教徒の大同団結を成し遂げるこそが、「あらゆる派閥と社会的な共同体と無縁の外国人」である自らに課せられた歴史的・宗教的使命だと確信するようになったのだ。そして彼は“International Buddhistic League”構想のために、神智学協会会長の職もなげうとうとしていた。(オルコットを仏教復興運動の指導者として“独占”したいと考えていたダルマパーラにとっても、それは歓迎すべき選択だったろう。)

 ただしこのオルコットの言明は額面通りには受け取れない。ブラヴァッキーがインドから「追放」されて以来、アディヤールの神智学協会を仕切るオルコットと、ロンドンに居をかまえたブラヴァッキー、その周辺に蠢くヨーロッパ・アメリカの協会幹部の間では、泥沼の権力闘争が続いていたからだ。

 1889年五月、ダルマパーラは日本からセイロンに戻る途中、上海から乗り換えたカレドニア号の船長と親しくなった。船長は自分がブラヴァッキーの友人だと語り、HPBを「自然の奇跡」と賞賛した。その一方で彼は「オルコット大佐は彼女を嫉み、インドから追放させるように仕向けたのだ」とまことしやかなゴシップを持ちかけたという。そのころオルコット大佐に傾倒していたダルマパーラは当然反論し、それから両者は口も聞かなくなったというのだが…。

 神智学協会は知識人のあいだで世界的な“覚醒のネットワーク”を築いていたが、それは時として協会幹部の保身と自己顕示欲をブレンドした気まぐれな霊界メッセージに振りまわされる、相互不信と憎悪のネットワークにも変貌したのである。一見能天気なオルコットは、自らの会長辞任宣言がもたらした反響についてこう述べている。

「古くからの読者には、この彼女(ブラヴァッキー)への委任が呼んだ波紋を思い起こしていただけるであろう。彼女は、私があまりにも多くのものを押し付けていくと考え、公的な責任が一気に自分にのしかかることが脳裏に浮かんで混乱したようだ。それで、私が辞めるなら自分もただちに辞す、と書いた外電を打ったのである。とはいえ、彼女よりもはるかに高位の人物(訳注:つまりマハトマか?)が現れ、与えられた地位を全うするよう私に忠告したとしても、私の意志を変えることはできなかったであろう。」(同上)【*3】

 オルコットの辞任宣言は、結果的にブラヴァッキーを牽制する政治的ブラフの役割を果たすこととなった。そして結局、彼は自らの意志を変えたのだ。1891年五月八日にブラヴァッキー夫人が急死すると、神智学協会内のイニシアティブ争いは更に激化した。オルコットは最終的に、ブラヴァッキーの後継者であるアニー・ベサントを抱きこむことで事態を収拾し、神智学協会会長の地位を守るのであるが、その経緯をここで詳しく述べる必要もあるまい。【*4】
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日本で拒絶された“仏教十字軍”

 話を戻そう。突然の来日だったとはいえ、オルコットはこの年の春すでに“International Buddhistic League”(当時は万国佛教会と訳されている)の組織について日本の諸宗高僧に向けた打診文を送付していた。彼が南北仏教徒共通のプラットフォームとして制定した『十四々条の信仰条規』はセイロンのスマンガラ大長老らの協賛を得た他ビルマやチッタゴン(西ベンガルには仏教徒コミュニティが存在する)の高僧からも署名を集めていた。オルコットは当然、北伝大乗仏教を奉じる日本の仏教徒も、これに応じるものと考えていたようだ。甘い!甘すぎる。

オルコット大佐1891年二度目の来日時の写真
オルコット大佐1891年二度目の来日時の写真。
日本仏教の僧侶らと撮影
 彼が期待を寄せた両本願寺は『十四々条の信仰条規』への署名をにべもなく拒否した。阿弥陀仏への帰依と他力信仰を説く浄土真宗が、四諦八正道といった仏教のオーソドックスな修行論を踏襲したオルコットの信仰条規に賛同できるはずもなかった。結局オルコットの気宇壮大な仏教十字軍の呼びかけに、賛意を表したのはほんの一部の有志者にとどまった。“もし私(オルコット氏)が来日しこの地に居を定めるのなら、必要なだけの支部と希望するだけの何千という檀家を紹介しよう。”本願寺の幹部が口走ったという、盲目的なオルコット信奉はすでに過去のものとなっていた。いったい日本仏教がオルコットに求めたのは、耳障りの良いキリスト教批判と、教義内容には踏み込まない手放しの仏教賛美だけだったのだろうか。

 オルコット滞在中の待遇も頗る冷淡で前回に比べれば雲泥の差。さすがに一部の仏教新聞では仏教復興の恩人への不義理を憤慨する記事が掲載された。オルコットは真宗を除く日本仏教各宗派の僧侶によるなんの実効性もない『十四々条の信仰条規』への署名(浄土真宗の両本願寺は最後まで署名を拒否した)を手にしただけで、十二月十日、失意のうちに日本を発ったのである。(まぁ、彼の回想録を読むかぎりそれほど落ち込んでいるそぶりは感じられないが…)

 とまれオルコットが夢想した“International Buddhistic League”はなんら目立った活動も残すことなく雲散霧消した。彼の“国際仏教連盟”の理想が、形を変えてもう一度称揚されるにはオルコットの死後、更に数十年の時を待たねばならなかった。
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神智学は仏教なのか?揺れ動いた日本仏教

 オルコットを“十九世紀の菩薩”と持ち上げ、二年後には手のひらを返したように冷遇した日本の仏教徒。ここで彼らの不義理を嘆いたり、“白人”仏教徒のパブリック・イメージを利用して破邪顕正を気取った明治という時代の軽薄さに毒づいてみてもはじまらない。オルコット二度目の来日が寂しい結果となったのには、それなりの理由があった。要するに「西欧で流行している神智学は果たして“仏教”と言えるのか?」という大問題に、この頃までに一応の決着がついてしまっていたのだ。その経緯を説明するために、次章ではまたひとりの白人仏教徒にご登場願いたい。(つづく)
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注釈

【*1】 オルコット再来日の顛末と「十四ケ条の信仰条規」ついては"OLD DIARY LEAVES" FOURTH SERIES 1887-92" H.S.OLCOTT, The Theosophical Publishing House, Adyar, 1910, p397〜に詳しく記されている他、『仏教』No33, 1891, P.43. にも詳しい記事が載っている。オルコットが11月8日に京都懇親会で行った演説速記は『教報』No92, 1891.12/5に掲載。オルコットは十月二八日にアメリカから横浜に到着し、十一月十日には神戸からインドへの帰途に就いた。

【*2】 『仏教』No33に掲載された『十四々条の信仰条規』全文を以下のURLに掲載した。訳語が分かりにくい上、原文と照らし合わせると首をかしげる訳もあるが、そのままにしてある。ご参照下さい。
http://homepage1.nifty.com/boddo/ajia/all/14platform.html

【*3】 今回"OLD DIARY LEAVES"の下訳を知人のReiko OZAWAさんにお願いしました。慎んで御礼申し上げます。

【*4】 ブラヴァッキー死去前後の神智学協会の内紛とその背景については『神秘主義への扉 〜現代オカルティズムはどこから来たのか〜』ピーター・ワシントン著 白幡節子/門田俊夫訳(中央公論新社 1999.10)P124以降に詳しい。
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