第三章 ブッダガヤ復興運動と日本
・日本でも燃え上がった仏蹟復興運動
・『国際仏教会議』の開催
・ブッダガヤに「日本の野望」を見た植民地当局
《注釈》
▼日本でも燃え上がった仏蹟復興運動
ダルマパーラと釈興然の呼びかけに応える形で、日本でもブッダガヤ仏蹟復興の機運が高まった。興然の師僧であり、当時は仏教界の長老格の地位にあった釈雲照はその中心で活動していた。雲照はブダガヤにいる興然から送られた、「…インド大陸は已(すで)に婆羅門徒のみとなり、全く仏教は絶えたり。然れども此「仏陀伽耶」の四周に於て甚だ秘密曼陀羅及び秘密の尊体三形等累多あるを見出せり。然らばインドに於て秘密仏教(真言密教)を再起せんとするの感は、予真に希望に耐えず。」【*1】との報告に強く惹かれたのだ。
釈雲照
仏教ジャーナリズムの紙上においてもブッダガヤ復興運動はセンセーショナルに扱われ、「釈尊の故郷への報恩」を訴える論説が日本人のインド天竺への遠い憧れをかきたてていった。オルコットの来日時、彼と仏教をめぐって“論争”をした川合清丸は、『印度佛蹟興復会に賛成を請ふ書』と題した論説のなかで次のように檄を飛ばしている。
「我が仏教は宇宙の真理なり。世界の文明なり。人天の模範。賢聖の神髄なり。一念以て極楽国に往生すべく。一超以て如来地に直入すべし。かくの如き大恩大徳をこうむりながら。此の仏蹟興復に粉砕せざらば。異教徒に蔑笑せられん。外邦人に唾棄せられん。語を寄す本邦十万の僧侶諸師よ。熱血滴々を絞り出して。以て生死を救われし仏恩に報いられよ。また四千万の信徒諸君よ。赤心片々を掴み出だして。以て未来を助けられし仏徳に答えられよ。根本の仏蹟を興復して。正法の中心を確定するの日に至らば。必ずや南北の仏法を円融して。東洋の中心を合同する端緒を開かん。南北の仏法を円融して。東洋の人心を合同するの節に至らば。必ずや藹々たる法雲を起こして。アジア全州を覆育するの機軸を立てん。藹々たる法雲を起こして。アジア全州を覆育するの運に至らば。必ずや赫々たる仏日を掲げて。欧米諸州を普照するの基礎を定めん。」【*2】
大菩提寺の金剛座を囲むダルマパーラと釈興然(1891年 背広の人物は徳沢智恵藏の可能性も)
▼『国際仏教会議』の開催
明治二十四(1891)年九月には、日本でも正式に『印度仏蹟興復会』が設立された。そして真言宗僧の阿刀宥乗が興復会の使者として大菩提寺買収資金一千円の浄財を託され、八月末にセイロンへと旅立った。十月三十一日、ダルマパーラはブッダガヤで『国際仏教会議』を開催し、セイロン・中国・日本・チッタゴンの代表が出席した。日本の代表は興然と上述の阿刀宥乗、徳沢智恵藏であった。彼らは会議の席上、「日本の仏教徒には大菩提寺をマハントから買い取る意志がある」旨を表明した。【*3】
現在のブッダガヤ大菩提寺金剛座(1999年1月撮影 佐藤哲朗)
この会議ではマハントからの寺院買い取りのほか、仏教僧院の建設のための寄附金募集、仏教の宣伝の確立、聖典のインド地方語翻訳といった事項が決議された。会議の当日、ブッダガヤにはちょうどベンガル副知事が訪れていた。だが副知事は会見を求める仏教徒の要請を拒否したばかりか、大菩提寺買い取りに関する仏教徒の決議に対しても、ガヤーの地方長官G・A・グリルゾンを通じて否定的なメッセージを伝えてきた。
▼ブッダガヤに「日本の野望」を見た植民地当局
明治二十二(1889)年の最初の訪日以来、大日本帝国の熱心な称賛者となったダルマパーラは、金剛座(釈迦が悟りを開いたと伝えられる場所。かつてオウムの麻原某が上り込んで現地仏教徒の激怒を買った)脇の菩提樹の下に五色の仏教旗と並んで日章旗を掲げていたという。そんななか、イギリス植民地当局を代表するベンガル副知事とその一行がブッダガヤを訪問したのだから、「その光景は彼らに日露問題のみならず、日本人がブッダガヤをインド及び、アジア全域における、野望の槍の穂先として用いるかも知れない事を…」【*4】疑わせたとしても、決して不思議ではなかったろう。
ダルマパーラは当初、大菩提寺敷地の買収に楽観的な見通しを立てていたが、実際に英国当局の仲介でマハントとの交渉にあたると見解を改めざるを得なかった。ブッダガヤの聖地を巡っては、英国当局、マハント、運動内で主導権を狙う輩などの入り乱れたドロドロとした思惑が渦巻き、ダルマパーラの周囲にもその後様々なトラブルが絶えなかった。ブッダガヤ復興運動はダルマパーラがその活動の初期に取りかかった運動だったが、ついに彼の死に至るまで達成されることはなかったのである。【*5】
さて、日本においてインド仏蹟復興運動が盛り上がりを見せていた明治二十四(1891)年十月末、“白い仏教徒”オルコット大佐は再び日本を訪れた。熱狂的な歓迎を受けた二年前の日本訪問に比して、オルコット二度目の来日に関する資料はほどんど残されていない。この二年の間に、日本仏教のオルコットへの評価は驚くほどに変化していたのだ。(つづく)
■注釈
【*1】 『教報』・74, 1891.6/5
【*2】 『教報』・94, 1891.12/25.
【*3】 『上座仏教』P.482.によれば具体的には浄土真宗の西本願寺当局が大菩提寺とその周辺をマハントから買い取る意思を表明したという。さすがお金持ち教団である。
【*4】 "Flame in Darkness" p67
【*5】 ブッダガヤの管理をめぐる宗教紛争は、二〇世紀も終わりを迎える現在、なお燻っている。大菩提寺の仏教徒への管理移管問題はガンディー等ヒンドゥー教徒による支持も得ていたが、結局インド独立後まで持ち越された。一九四九年五月には仏教とマハント双方の代表からなる『ブッダガヤ大菩提寺管理委員会』が組織され、妥協的に解決した。しかし戦後インドの被差別民アウト・カースト(不可触民)の指導者アンベードカル博士の指導の下でヒンドゥー教から仏教に改宗した人々、いわゆる『ネオ・ブッディスト』の間では、ブダカヤを完全に仏教徒の手に奪還しようという運動が続いており、数年来ブッダガヤに向けた大規模なデモも行われた。その運動の中心にいたのは、なんと日本出身の僧侶、佐々井秀嶺師なのである。
ブッダガヤ奪還運動と佐々井秀嶺師については、以下のHPに詳しい。
Sasai-G The Home Page(http://sasai-g.cyrus.org/top-j.html)