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『大アジア思想活劇 仏教が結んだもうひとつの近代史〜』
【重要なお知らせ】『大アジア思想活劇』が大幅加筆訂正のうえ、オンブックから書籍化(オンデマンド出版)されました。くわしくはこちらをご覧下さい。(2006/9/7)
佛紀二五五〇年記念出版
『大アジア思想活劇 仏教が結んだもうひとつの近代史』
ISBN4-902950-35-9 C0014
価 格:4,200円(税抜) 仕 様:四六版、460ページ
発売日:2006年8月2日 発 行:オンブック



終章 『ダルマパーラと日本』再考
日本とスリランカ それぞれの近代仏教
ダルマパーラの日本礼賛と「アーリア主義」
日本仏教への挑発者
近代仏教史という問い
大アジアに花開いたビジョン
おわりに
注釈 2004/09/10更新

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日本とスリランカ それぞれの近代仏教

ダルマパーラの墓石
ダルマパーラの墓石
(初轉法輪寺境内)

 一九九九年の一月、筆者は北インドのサルナートを訪うていた。ムルガンダクティ・ビハーラ(初転法輪寺)の周囲に拡がる、よく手入れされた庭園の一角には、日焼けしたアナガーリカ・ダルマパーラの、否デーヴァミッタ・ダンマパーラのストゥーパが、巡礼を呼び止めるほどの威儀もなく、ぽつねんと建っていた。赤茶けた墓石に手を合わせると、インド人の巡礼がいぶかしげにその由来を尋ねた。「アナガーリカ・ダルマパーラの墓だ…」簡単な英語を解さぬその男性に、まして筆者の片言のヒンディーで、意を尽くすことはできなかった。もどかしさだけが残った。そしてこの稿を終えるにあたって、やはり最期までもどかしさに苛まれている。

 アナガーリカ・ダルマパーラの日本での発言を振り返ると、スリランカやインドにおける彼自身の立場の変化に係わらず、日本に対する信仰のような期待は生涯を通じて一貫していた事がわかる。彼は「日本の仏教に大きな期待をかけていた」というよりは、仏教をその指導原理とした(と彼は考えた)『仏教国日本』の発達にこそ、キリスト教国イギリスによる植民地支配に喘ぐ故国スリランカの未来のモデルを見いだそうとしていた。

 しかし、彼は時流に乗り遅れた日本仏教の停滞に失望を隠すことができなかった。日本は「仏教国」であるにも関わらず、その仏教は遂に近代日本をリードすることはなかったからだ。

 ダルマパーラは日本は『仏教国』であると信じていた。その認識は必ずしも間違いではない。しかし国民の多数が(形式的にであれ)仏教を信仰していることと、仏教を指導原理として国家が形成されることとはイコールではない。近代日本における仏教の地位はもっと限られたものだった。

 スリランカでは一八七三年のパーナドゥラ論戦を先駆とした「宗教復興」の運動が後にシンハラ人の民族的自覚に繋がったように、ナショナル・アイデンティテイの確立と仏教の復興とが不可分だった。

 それとは対照的に、近代日本ナショナリズムの母胎となった国学思想は、仏教批判を媒介として成長した。実際の政策上でも、天皇の権威を軸として近代化をもくろんだ明治維新の過程で、旧幕藩体制と癒着していた仏教はいわば精神的な生贄(廃仏毀釈)にされた。その後の歴史においても、日本仏教は近代ナショナリズムの熱狂のなかで自らの「身の証」を立てることに必死であった。仏教徒たちは、自らの懐に溜め込んだ観念体系のストックを近代ナショナリズムに捧げ、かえって己のアイデンティティを掘り崩すという際どいアクロバットを演じてきた。同じ「アジアの仏教国」といっても、日本とスリランカには、全く異なる経緯があったのだ。

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ダルマパーラの日本礼賛と「アーリア主義」

 とかく日本仏教の近代化は世俗社会の近代化のペースからは取り残され、主体性を失いがちに傍流に追いやられていた。客観的にみて、日本において仏教が社会の精神的イニシアティブを取ることなどついになかったのだ。その矛盾に苛立ちながらも、ダルマパーラの日本国への信仰にも似た期待は終生変わらなかった。そしてその背景には、ダルマパーラがインドを中心とした仏教復興運動のバックボーンとして鼓舞していた『汎アーリア主義的アジア復興思想』があった。曰く、

「私に代表されるようなインドのアーリア人種は、古代のアーリア文明が多くの恵まれた国の子孫たちによって保存されたことを喜んでいます。インドを故国とする偉大なアーリア化されたファミリーは日本人・朝鮮人・モンゴル人・中国人・タイ人・カンボジア人・ビルマ人・チベット人・シンハラ人に属し、八億人を数えます。偉大なアジアの兄弟関係(Brother Hood)は日本のリーダーシップの下で世界史のなかに再び失われた地位を回復することが可能なのです。」

 ダルマパーラにとって仏教とは同時に「アーリア精神」でもあった。ダルマパーラは日本とインドを、共に偉大なアーリア文明の伝統を継承した同胞と考えていた。日本はインド発祥の仏陀の教えによって「アーリア化」された国であり、偉大なるアーリア精神(=仏教)に導かれていると信じたが故に、彼は日本への狂信的とも取れる賛美を繰り返した。しかし、ダルマパーラと交流を持った日本人、とりわけ日本人仏教者のなかで、一体どれだけの人々が、彼とこのようなビジョンを共有し得たであろうか。

 彼が鼓舞した「仏教復興」運動はスリランカの内に向かってはシンハラ民族主義に精神的根拠を与え、その牽引車として役割を果たした。彼は第二の故郷インドにおいても、西欧列強によるアジア支配を打破する精神的な根拠として「仏教復興」を唱えた。

 そしてその文脈で彼が語る「仏教」とは『アーリア文明のエートス』であった。彼の仏教運動は汎アーリア主義運動でもあり、その汎アーリア主義は普遍性を持った「精神の論理」としてスリランカの小島を越え、長く停滞していた仏教の「世界布教」を促した。同時に彼の足跡は、排外的な「血の論理」としてシンハラ族の選民意識を駆り立てた、後のシンハラ・タミル民族紛争にまで続く暗い轍(わだち)でもある。

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日本仏教への挑発者

晩年のダルマパーラ
晩年のダルマパーラ
 ダルマパーラは彼自身の汎アーリア主義的な日本への思い入れから、実際の日本の国家政策・植民地政策に対してはまったく無批判だった。彼の目に映っていたのは箇々の政策ではなく、歴史のただなかで発現すべき「日本の業(カルマ)」の如きものだったから、これは当然だろう。にも関わらず、彼は日本の「仏教」に対して、ある時期から幻滅に近い厳しい意見を持つようになる。

 ダルマパーラの仏教運動は後世から『プロテスタント仏教』と呼ばれる。その師オルコットが、キリスト教の宣教システムをもとにスリランカ仏教を再編成したのを受け、彼は旧態依然とした仏教界を刷新し、アジア諸国の近代化の精神的支柱として復興させることを目指した。そのために彼は「アナガーリカ」という異形のスタイルを発明することも辞さなかった。

 ダルマパーラが思想形成の過程で大乗仏教、とりわけ“菩薩道”の理想に影響を受けたことは事実だ。しかし実際に日本に現存する「大乗仏教」なるものを礼賛していたわけではない。彼は仏教の形骸よりもその精神と運動を求めた。ダルマパーラは、むしろ日本仏教に対する外部からの辛辣な批判者であり挑発者だった。

 彼の激しいアジテーションは日本の仏教青年を刺激し、幾つかの新たな運動体の結成につながったこともあったにせよ、それらは必ずしも満足する成果を残さなかった。むしろ彼が自らの仏教復興運動をシンハラ民族主義の啓蒙とリンクさせはじめた後に取り組んだ日印協会の設立(これは現在まで存続している。)や彼の財団を通した日本への技術留学生派遣のほうが、目に見える具体的な成果を上げた。

 しかし仏教者ダルマパーラにとって「総て事物が太陽の登る国としての日本にあるに拘わらず、仏教のみが日の西山に没する様にだんだん衰えて行く」姿はなんとも歯がゆいものだったに違いない。

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近代仏教史という問い

 ダルマパーラの死の前後から、日本の仏教は高楠順次郎や鈴木大拙等のイニシアティブで世界的な展開を遂げる。本書でもラフなスケッチ程度にしか取り上げなかったが、戦前日本仏教の海外活動に関してはそのディテールもまだはっきりとは知られていない。

 上座部仏教圏とのかかわりで興味を引くのは、中国・朝鮮など東アジア諸国に対しては万世一系の天皇信仰を前面に打ち出し、夜郎自大的な同化政策(『八紘一宇』思想のいささか乱暴な表現)をもって臨んだ日本も、南方仏教圏に対してはあくまで「仏教国日本」という顔で接しつづけたかに見えることだ。戦時中も、実態はともかく言葉の上では、日本の仏教徒は南方仏教を「大東亜共栄圈」のパートナーとして、文化的差異を認めた上で理解しようとしていた。

 日本に深いかかわりを持ったダルマパーラは、故国では『スリランカ建国の父』という称号を一応与えられている。当然ながら、その事績への評価は両極に別れる。実際、彼には彼自身が語った様々なベクトルを持った言葉と同じく、光と影を伴った顔が存在していた。そして彼の接した近代日本もまた、「観察者の眼差し」というフィルターを通して屈折し、多様な像を結んで私たちの前に立ちのぼってくる。その意外な横顔はときに私たちを幻惑と微かな興奮へと導いてくれる。

 釈迦牟尼世尊の思惑とはまた違ったところで、仏教もまたそのようなものとして、私たちの面前に現れてきたのではないか。1500年の長きに渡って、日本人の精神を導いた仏教もまた時代と状況によって違った顔を覗かせながら、私たちを幻惑と興奮へと導いていった。近代という時代においても、それは変らなかった。むしろ激動の時代ゆえに、仏教には過剰なまで様々な意匠が求められた。

 大東亜戦争ののち、「近代仏教史」という括りで語られてきた貧困な言説のあり方を、いま一度トレースしなおす時期にきている。イデオロギーや偏った歴史観の呪縛を解き放ち、もっと虚心坦懐な心持で、先人の遺した言葉に耳を傾ける必要がある。そのような態度で過去に向かうときにだけ、我々はもっと多くの問いを、先人たちに投げかけることができるだろう。

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大アジアに花開いたビジョン

 本連載でも嫌になるくらい実証したとおり、日本の近代史において、仏教はおおむね傍流の役割に甘んじていた。しかし脇役は脇役なりに、近代日本の仏教徒は自らの物語、自らの「業(カルマ)」を模索し、それを必死に演じようとしてきた。そして日本仏教という不甲斐ない三文役者(あるいは「仏教国日本」という幻影)に、見当違いの期待をかけて励まし続けた、ひとりのスリランカ人仏教徒がいた。

 一八七三年、インド洋の小島で起こったパーナドゥラ論戦は、遥か北米大陸のオカルティストをインド世界へと導き、瀕死のアーリア・ブッダ・ダルマを再興させた。新大陸から漂着した救世主、『白い仏教徒』の出現は極東の仏教徒をも驚喜させた。アジア仏教世界の連帯という甘美なビジョンによって、衰退しゆく仏教世界に一瞬、希望の空華が花開いた。

 アナガーリカ・ダルマパーラのミッションは、北インドの仏蹟をかすがいに、実際に全世界の仏教徒の心をひとつに結びつけた。彼の活動は極東の仏教国をまどろみから呼び覚まし、一九三〇年代の一時期、仏教は『環太平洋』世界を結びつける、平和の紐帯にまでなりかけた。

 彼は信じていた。オルコット招聘のため単身インドに乗り込み、『仏教復興』の熱弁を振るった日本人仏教徒の情熱を。あるいは凍てつく異境の仏教国で生死の境をさまよったとき、幾人かの青年仏教徒と分かち合った『仏教統一』の理想を。

 一九三三(昭和8)年四月二十九日、ダルマパーラは比丘デーヴァミッタ・ダンマパーラとして死んだ。追悼手記を寄せた野口復堂と高楠順次郎は、彼とその青臭い理想を共有した二人であった。十九世紀末の一瞬の夢を、『ユナイテッド・ブッディスト・ワールド』の幻を愚直に抱き続け、あるいはそこから一歩も踏み外すことなく、彼らは老い果てたのかもしれぬ。[2002年6月27日]

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おわりに

 高楠順次郎は一九四五(昭和20)年六月二十八日、大東亜共栄圏の崩壊を目前に死んだ。野口復堂にいたっては、いまだ、その没年もはっきりしない。そういう基本的な事柄もはっきりしないまま、連載を終えるところまで来てしまった。

 昨年十二月、匿名の方から「復堂氏は晩年東京の麹町で生涯を過ごした。亡くなったのは昭和16年ごろでしよう。」というメールを戴いた。詳細を知りたいと返事を送ったのが、その後の連絡は途絶えている。今年の二月には、大阪府茨木市まで野口復堂の足跡を探しに行った。野口家があった旧溝咋村の鎮守、溝咋神社(みぞくいじんじゃ 日本書紀にも登場する古い社)の宮司さんに話を聞くことができたが、結局詳しいことは分からなかった。帰路、京都へ寄って、復堂(婿入り前は貫名善四郎)が幼少期よく遊んだという上御霊神社周辺を散策し、護摩木を奉納して家路についた。

 野口復堂の息子に野口亀之助(龜之助)という軍人がいた。昭和十二年に陸軍大学校第49期卒業(陸士38期)しており、陸軍戦車第二連隊付だったようだ。アジア歴史資料センターのデータベースに、野口亀之助が陸軍戦車学校へ派遣された記録が残っている。経歴から推測すれば、かなりのエリートコースを歩んだ軍人らしい。まぁ、そんなところで現在も折をみては、細々と調べている。【*1】

 おもえばオウム真理教事件が起こる二年前、アナガーリカ・ダルマパーラや野口復堂と出会ってから二十代いっぱいかけて、大アジア思想活劇のテーマに拘ってきた。資料を通して語りかけてきた『アジ活』の登場人物たち、そしてメルマガを読んで様々なアドヴァイスを寄せてくれた人々に導かれながら、個人的にも仏教との縁を深めていった。気がつけば、三十代になっていた。

 執筆当時、仏教の門前でウロウロしていた著者は、いまスリランカやミャンマー出身の比丘方が指導する日本テーラワーダ仏教協会という小さな団体に参加している。自己の向上はもとより、釈興然師が果たせなかったテーラワーダ仏教(上座仏教)の日本東漸に微力を尽したいと願っている。大げさにいえば、百年越しの宿題に取り組むことになろうか。それは千数百年の日本仏教史にささやかだが重要な一頁を記すことであり、極東の島国に住まう仏教徒として、いま成すべき仕事だという確信はある。

 特定の仏教宗派に関わる筆者が、これから『アジ活』のような奔放なスタンスで仏教を語ることはないだろうが、学生時代からの宿願に、とりあえずの区切りをつけることが出来た。こんなに嬉しいことはない。お仕舞いまで読んでくれて、ありがとう。読者のみなさんが幸福でありますように。[2002年8月7日]

sabbe sattâ bhavantu sukhitattâ.
生きとし生けるものが幸せでありますように

注釈

【*1】復堂の記録として筆者が把握しているもっとも晩年のものは、『中央佛教』誌に掲載された昭和15年9月の消息、「満州から引き揚げて世田谷区北澤に寓居」というものである。復堂がどのような経緯で満州に渡ったのか、そして何故引き揚げてきたのか、臨終の時期と場所はいつなのか、まだ分からない。2004/09/10記

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