十八章 世界仏教の中核センターを目指して
仏教ルネッサンスの時代
『海外仏教事情』誌における南北仏教対話
大東亜共栄圏と日本仏教 ひとつの事例
ジャヤワルダナの演説
注釈 2004.9.10 UPDATE

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仏教ルネッサンスの時代【*1】

 ダルマパーラの死の翌年、昭和九(1934年)年、日本では高楠順次郎らの提唱で『仏誕二千五百年』を祝う盛大な行事が行われた。ただしこの年がブッダ釈迦牟尼の誕生より2500年と云えるか否かは宗派によって異論が甚だしく、学問的にもいまだ確定していない。

 この高楠のキャンペーンは、日本仏教界の大事業である『大正新脩大蔵経』が同年に完成したことを期に通仏教的記念行事を開くという、便宜的色彩が強かった。ゆえに日蓮宗系の田中智学らから強い批判が出されたし、仏教徒挙げての祝祭とは言い難いものだった。

 しかし、昭和九(1934年)年はアジア仏教徒の国際交流という点では画期的な年になった。東京では『第二回汎太平洋仏教青年会大会』が開催され、ダルマパーラの後継者で大菩提会主事のデーヴァプリヤ・ヴァリシンハなど多くの国々の仏教徒が出席した。大会は同年七月十七日から十二日間に渡って、外国代表十二ケ国(中華民国、インド、マレー、シンガポール、タイ、ハワイ、カナダ、ビルマ、セイロン、ジャワ、満州、アメリカ合衆国) 三百二十余名、日本代表三百名余り、その他含めて千人以上が集結したのである。

 大会では世界平和促進運動に関する決議、人種平等に関する決議、聖地ブッダガヤ復興に関する決議、仏教青年会の本尊を釈迦仏とし礼拝形式を三歸依とする決議、仏教の本質を涅槃を理想として菩薩道の実践を期するものとする決議、汎太平洋仏教青年会連盟結成に関する決議などがなされた。

 長く停滞を強いられていた仏教が、太平洋諸国にまたがる世界宗教として、新たな雄飛を図ることを堂々と宣言したのである。【*2】それにしても、汎太平洋仏教青年会大会の決議は、 1891(明治24)年にオルコットが提唱した『十四々条の信仰条規』を想起させる内容ではなかろうか。一九世紀の末、『白い仏教徒』によって端緒をつけられた『ユナイテッド・ブッディスト・ワールド』の夢は、二〇世紀半ばのひととき、おぼろげなリアリティを纏いはじめていた。

 この気運に乗じて、日本仏教の国際的活動機関として『国際仏教協会』が設立され、仏教の海外伝道や西欧・アジア各国など世界仏教徒との連絡を図った。【*3】『大正新脩大蔵経』(大乗経・小乗経という旧来の区分を廃止した)がこの年に完成したのに続き、同年から昭和十六(1941)年にかけて、高楠順次郎の監修のもと、パーリ語三蔵のほぼ完全な邦訳である『南伝大蔵経』が刊行された。高楠はこの南伝大蔵経の翻訳に当たって次のように述べている。

「仏説に南北の別があるわけでなく、初めから大小を分って説かれたわけでもない。仏所説の内容は同じ処から出発したもので、一切の法門はその水源を同じくしているわけである。一方には仏の人間性に重きを置いて、仏が教えられたり、行われたりしたことを、そのままに守ってゆこうとする人々もある、言わば世尊の正風を残そうとする形式派である。また一方には仏の如来性に重きを置き、同じ仏が教えたり、行われたりしたことをも、そのままでなく、その心持ちを失わぬように守ってゆこうとする人々もある。言わば世尊の正意を掴もうとする精神派である。 …元来形式と精神とは別々のものではなく、形式を具した精神、精神を具した形式でなくてはならぬ。形式から精神も出で、精神から形式も出来るのであるから南北大小の経論もその内容から見るときには一脈通じたものがあるのである。そこで、真の研究の立場に立って見れば大小乗を区分すべきものではない。」【*4】

 いささか皮相的な見解ではあるが、高楠のマニフェストは従来の大乗仏教至上主義から脱却し、通仏教的な視点からパーリ仏教を日本へ紹介しようとしていた。

 このような日本仏教の積極的な活動の背景には、釈宗演の遺志を継いだ鈴木大拙の努力による『禅仏教』の欧米での評価の他、左翼勢力による激しい『反宗教運動』が一段落して『宗教復興』のムードが高まったこと、日本仏教運動の主体が在家のインテリ層に広まっていったことなどが挙げられるだろう。仏教研究家として、岡本かの子(岡本太郎の母)がもてはやされ、新しい大衆メディア、ラジオ放送を通じた経典講義も人気を博した。昭和の初頭、仏教ルネッサンスと呼ばれる言論界の仏教バブルが起きたのである。

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『海外仏教事情』誌における南北仏教対話

 日本仏教の外交窓口となった国際仏教協会の機関紙『海外仏教事情』には欧米仏教徒との通信のほか、スリランカなど上座仏教圏の僧侶による大乗仏教教理への批判や異議申し立てもそのまま掲載されていた。同誌上で世界の仏教徒の間での思想的な対話と相互理解をはかってゆく傾向が見られたことは、現在から振り返っても特筆すべきではなかろうか。

 例えば、スリランカのナーラダ長老は『海外仏教事情』に寄せた『上座部と大乗』という論文のなかで、「仏陀の真面目な信奉者として、筆者が浄土教徒に切望する点はゴータマ仏陀をその正常の位地に置くことで、その理由は正法を発見して我々に仏陀への道を教示した人こそゴータマだからである。」と日本の阿弥陀信仰への率直な疑問をぶつけている。

 また、ナーラダ長老は同論文のなかで南伝大蔵経の邦訳に触れ、「(これ)に依って日本仏教徒が今まで以上によく諒解するのは仏陀の根本教説だろう。なお筆者が欣快とする所は、日本仏教学者諸賢が小乗(Hinayana)という軽侮的名称を深甚なる考慮の結果削除して、パーリ聖典の翻訳に一層の友誼的かつ適切な言葉を採用したことである。」と積極的な評価をしている。【*5】

 また同じく『海外仏教事情』誌上には、鈴木大拙夫人・ビアトリス女史の論文【*6】への反論という形で次のような投稿も寄せられた。筆者のシリワルダーナはいわゆる“小乗”仏教への無理解と蔑視観にもとづく<南方仏教=小乗仏教=矮小な自利主義、日本仏教=大乗仏教=広い視野を持った利他主義>というレッテルを批判してこう語っている。

「鈴木夫人及び夫人と同類の人々に一つ訊きたい事がある。即ち大乗仏教のために大いに主張しているがこれらの慈悲深かるべき同胞は過ぎ来し世紀中、法の恵みを他にも与えたか、彼等仏教の基調は利他であると容易に言われるが、この利他ということはパーリ語経典には無いかの如く言っている。彼等は仏陀が弟子達に要求した精神に則って振る舞ったか、…故ダンマパーラの強烈な活動の結果として、仏教インドに如何なる事が起こりつつあったを見知するのに近代日本は四十年も要した。」【*7】

 この時期、日本仏教はようやく、ダルマパーラが望んだごとく世界仏教の核としての自覚をもって働きはじめたかに見えるが、それは単に日本の帝国主義的膨張指向への御追随に過ぎなかったという批判も成り立つ。しかし、その追従こそ、ダルマパーラが生前まじめに日本仏教に対して望んでいた進路だった。

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大東亜共栄圏と日本仏教 ひとつの事例

 いわゆる大東亜戦争と日本仏教との関わりについて、本格的な研究は少ない。日本叩きの材料を探す内外の物好きを相手にした「戦争責任告発」書籍の系譜に散見されるが、イデオロギーの偏向が激しいので資料として使うには精神衛生上とても骨が折れる。筆者も本格的な調査はしていないので、以下はアジ活調査の過程で拾った事例のメモ書きである。

 東南アジアのテーラワーダ仏教圈は、日本の大東亜共栄圈構想にすっぽりと組み入れられた地域であった。大東亜戦争突入前後の南アジア情勢を概観すれば、インドではガンディー、ネルーに率いられた『国民会議派』が満州事変以来、日本に批判的な姿勢を取ってきた。しかし、ラス・ビハリ・ボーズ等、日本を拠点にして、反英インド独立運動を続ける勢力も隠然と存在していた。

 また戦時中には国民会議派左派のカリスマ、スバス・チャンドラ・ボーズが日本との同盟を結び、自由インド仮政府を樹立した。ボーズの指揮するインド国民軍は、日本軍とともにインド本土への侵攻をはかり、インパール作戦に参加した。

 英領セイロンにおいても『大菩提会』のヴァリシンハが大東亜戦争の開戦後、一時英国当局に拘束された。仏教運動の一部には反英親日の傾向が見られ、潜在的な利敵組織として監視を受けていた。日本軍が破竹の進撃を続けていた昭和十七(1942)年四月五日には、コロンボとトリンコマリーのイギリス軍港が日本軍の爆撃を受け、航空母艦ハーミーズが撃沈された。スリランカ民衆の一部は、この攻撃をひそかに喝采したという。

 前述の国際仏教協会は、大東亜戦争突入後も、『海外仏教事情』で共栄圈内各地の仏教国の実情を紹介し、南方上座部仏教に関する知識の啓蒙に努めた。東京において昭和十六年から毎年『南方仏陀祭(ウエーサク祭,ウェーサーカ・プージャー)』の行事を執り行ったこともその一環である。【*8】

 腹の底はともかくとして、偏狭な「大乗仏教優位論」を振りかざすことなく南方仏教を理解しようとした彼らの姿勢は、価値相対主義の滲透した現代から見ても驚くほどに、徹底していた。昭和十九(1944)年6月には『釈興然追悼号』を発行して、日本仏教界で無視されてきた釈興然グナラタナ師の再評価を試みた。興然の弟子として、当時日本人ではただ一人、南方仏教の戒法を護持していた釈仁度はそのなかで曰く、

「日本の仏教徒は今日までみずからの仏教を大乗仏教と称し、南方のそれを小乗仏教とさげずんでいた。しかし立場を変えて南方仏教徒をして日本の仏教徒を批評せしめたならば何というであろう。かれらが日本仏教を真正なる仏教として認めることは困難であるらしい。これが現状である。このまま放置しておくときにはこの対立は共栄圈建設の癌ともなる危険を孕んでおる。日本仏教徒は南方仏教をたとえ信奉するには至らぬまでも理解しようとの努力を一日もゆるがせにすることはできない。これなくしては共栄圈建設に対する仏教徒の協力という言葉は空辞にすぎない。」【*9】 

 しかし、この時すでに日本の敗色は濃厚になっていた。約一年後、日本の敗戦によって大東亜共栄圈は崩壊し、自動的に日本仏教の海外活動も停止した。ダルマパーラが創設に関わった「日印協会」も、戦時中ラス・ビハリ・ボーズ、スバス・チャンドラ・ボーズらのインド独立運動を支援したかどで、GHQから政治文化面の活動を禁止された。【*10】

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ジャヤワルダナの演説

 一九四七年八月十五日、英領インドはインドとパキスタンの分割という形で独立を果たした。翌一九四八年二月、スリランカも英連邦内の自治領セイロンとして、事実上の独立を果たした。

 一九五一(昭和26)年、日本の国際社会復帰を決めたサンフランシスコ講話会議の席において、セイロンのJ・R・ジャヤマワダナ蔵相((Junius Richard Jayewardene のちの大統領)は、大東亜戦争のアジア解放のスローガンに一定の評価を示しつつ、ソ連によって提案された日本の主権制限案に反対し、インドとともに日本に対する賠償請求をいち早く放棄することを表明した。あえなく散った『仏教国日本』にむけて、南方の友人から寄せられた弁護の演説を以下に引く。

「アジアの諸国民が日本は自由でなければならないということに関心をもっているのは何故でありましょうか。それは日本とわれわれの長年の関係のためであり、そしてまた、アジアの諸国民の中で日本だけが強力で自由であり日本を保護者として盟友として見上げていた時に、アジア隷従人民が日本に対して抱いていた高い尊敬のためであります。私は、アジアに対する共栄のスローガンが隷従人民に魅力のあったこと、そしてビルマ、インド及びインドネシアの指導者のあるものがかくすることにより彼等の愛する国々が解放されるかもしれないという希望によって日本人と同調したという前大戦中に起った出来事を思い出すことができるのであります。
 セイロンにおけるわれわれは幸いにも侵略されませんでした。然しながら空襲や東南アジア軍の指揮下にあるぼう大な軍隊の駐とん(ママ)及びわれわれが連合国に対して天然ゴムの唯一の生産者であった時われわれの主要製品の一つであるゴムを枯渇せしめたことによってもたらされた損害はわれわれに対してその賠償を請求する権利を与えるものであります。 然しながらわれわれは、賠償を請求するつもりはありません。何故ならばわれわれは、そのメッセージがアジアの無数の人々の生命を高貴あらしめたある偉大な教師の言葉すなわち「憎悪は憎悪によって消え去るものではなく、ただ愛によってのみ消え去るものである」【*11】という言葉を信ずるからであります。それは偉大なる教師であり佛教の創始者である佛陀のメッセージであります。この佛教は人道主義の波を南アジア、ビルマ、ラオス、カンボディア、シャム、インドネシア及びセイロンを通して、更にまたヒマラヤ山脈を通じてチベット、中国そして最後に日本にまで拡め、幾百年にわたって共通の文化と遺産でわれわれを結合したのであります。
 この会議に出席するための途中、先週日本を訪問した際に私が見出したように、この共通の文化は、未だに存在しているのであります。そして日本の指導者達、すなわち民間人のみならず諸大臣からそしてまた寺院の僧侶から、私は一般の日本人は未だあの偉大な平和の教師の影の影響を受けており、更にそれに従おうと欲しているという印象を得たのであります。我々は彼等にその機会を與えなければなりません。」(『サン・フランシスコ会議議事録』外務省 昭和26年)

 この名演説が日本を世界的孤立の窮地から救ったのだと、少なからぬスリランカ人はいまも信じている。

 幕末の動乱以来、西欧化とナショナリズム(政治的・文化的・宗教的に様々な潮流をはらんだ)との混交のなかで葛藤しつづけた近代日本人。その意識のうちに細々と流れつづけていた「アジアはひとつ」という理想。そして「アジア解放」という世界史的な『大義』があった。その大義は、仏教という揺りかごの中で己の思想を研ぎ澄まし、やがて日本国の運命を危険な跳躍へと導いた。八紘一宇というスローガンを発明したのは田中智学である。大東亜共栄圏の構想もまた、仏教を軸にしたアジア連帯のビジョンなしには成立し得なかったはずだ。

 そして、失敗に終わった日本の挑戦の尻をぬぐったのも、やはり仏教の言葉であった。ジャヤワルダナ【*12】の演説は、「大東亜戦争」に敗北し、いまだその精神的痛手から完全に回復し得ないでいる日本人の心を慰撫してくれるだろう。ただ、筆者は近年も各方面で論議を呼んでいる歴史認識をめぐる争いのどちらかに荷担するためにこの一文を引いたのではない。

 近代日本の歩みは、確かに西欧列強の植民地支配にあえぐアジア諸国民の希望であった。そしてアジアを戦場とした大東亜戦争は、戦地の人民に数多くの禍根を残しつつ、結果としてインド独立をはじめとするアジア諸国の独立に寄与した。それを日本の政治的意図とは関係のない、単なる「結果的事実」として切り捨てることはできない。

 原因なくして結果が生ずることはありえない。スリランカの一政治家が残した演説は、南アジアの仏教国というパースペクティブから近代史を総括した時に立ち上る、日本という国家〜仏陀の祝福をうけた東アジアの島国〜へのひとつの評価であった。

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注釈 2002.9.6 UPDATE

【*1】 日本仏教徒のインドでの活動の代表的なものとして、日蓮宗の藤井日達による日本山妙法寺がある。藤井らのインド布教はガンディーとの関係を含めて良く知られているが、本書では触れなかった。

【*2】 第一回の大会は一九三〇年五月二十一日から六日間、ハワイ・ホノルルで開催されたが、総勢二百名ほど、日本・ハワイからの参加者がほとんどであった。第三回大会はアメリカ合衆国で開催されることとなっていたが、時局の緊迫から結局流産した。( 『仏教年鑑』昭和十年版 1935, P.58 参照。)

【*3】 日本仏教徒の海外宣伝活動は、明治二十年代の高楠等による「海外宣教会」以来途絶えていたが、大正末年頃から鈴木大拙の主催する" The Eastern Buddhist" と高楠順次郎・桜井義肇による "The Young East" が発行され、俄然活気づいた。『国際仏教協会』はその流れのなかで、仏教学と日本仏教の国際的な普及を目的として設立された。機関紙として邦文「海外仏教事情」英文の"The Young East"を発行し、欧米、アジアなど世界各国に支部を持った。( 「国際仏教協会設立趣旨」『海外仏教事情』No.4-2, 1937.2, 「国際仏教協会会則」同No.2-5, 1935.5.) 

【*4】 『雪頂・高楠順次郎の研究』P88.

【*5】 『海外仏教事情』No4-3, 1937.4,

【*6】 『大乗仏教に於ける利他思想』 国際仏教協会発行の英文誌"The Young East"に掲載された。未読。

【*7】 『大小乗優劣論 鈴木夫人に問ふ』(『海外仏教事情』no3-9, 1936.10, )

【*8】 釈尊風会では興然がセイロンより帰国した明治26年いらい、「伏舎(ニンベン+去)月満月会」と呼びウェーサーカ・プージャーを伝えていた。昭和16年7月、本来の暦からは随分と遅れて日比谷公会堂で「南方仏陀祭」が挙行された。しかし法要の導師は興然の直弟子である釈仁度師ではなく、ベンガル人比丘のラーストラパーラ師が勤めた。この南方仏陀際は戦況の悪化で「海外仏教事情」も停刊に追い込まれた昭和十九年まで毎年都内で開催された。全土への空襲が激化した昭和20年においもてなお、5月25日に三会寺でウェーサーカ祭がいとなまれた。敗戦後の昭和21年5月のウェーサーカ祭は鶴見の総持寺で開かれれ、東元慶喜と釈仁度師によって儀式が執り行われた。国際仏教協会はすでに大東亜省の補助を離れており、これを最後としてウェーサーカ祭(南方仏陀祭)は断絶した。以上、東元慶喜「わが国における上座部仏教研究の過去と将来」(『水野弘元博士米寿記念論集 パーリ文化学の世界』春秋社 H2.6.30 収録)p463-464に拠った。2002.09.06記

【*9】 『海外仏教事情』no10-3, 1944.6, 「釈興然特集号」

【*10】 「日印協会の生いたちと歩み」財団法人 日印協会より

【*11】UPDATE! 「怨みを持っている人に対して怨みを返すと恨みが増すのみです。怨まないこと(慈しみ)を返すことでのみ怨みが消える。これこそ、普遍的な真理なのです」(法句経Dhammapada 第5偈) スリランカの人に会ったら、相手が口にする前に、下のパーリ語でスラスラ暗誦してみましょう。

Nahi verena verani - sammanti'dha kudaacanam
ナヒ ヴェーレーナ ヴェーラーニ サンマンティーダ クダーチャナン
Averena ca sammanti - esa dhammo sanantano
アヴェーレーナ チャ サンマンティ エーサ ダンモー サナンタノー

【*12】UPDATE! 異表記:ジャヤワルデナ,ジャヤワルデネ。本稿の表記はジャヤワルデナから改めた。ブッダの言葉で日本を弁護し、死後日本人に角膜を与えたほどの親日家の温和な顔の向こうには、スリランカ大統領(1978-1988)時代に強権を行使して反対派を圧殺し、シンハラ民族左派JVPとのテロの連鎖を激化させ、1983年の反タミル暴動を契機としたLTTEとの本格的な内戦を勃発させ、ラジヴ・ガンディー(Rajiv Gandhi)首相の暗殺の原因となったインド平和維持軍進駐〜撤退にまで到ったという暗黒面の「顔」があることも記憶しておくべきであろう。彼の政治に異を称える者は、たとえ僧侶であっても容赦なく弾圧を受けたという。2004.09.10記

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