第十六章 その後のダルマパーラ
・セイロン暴動
・日英同盟下のインド支援
・1915年セイロン暴動の背景について
・晩年 サルナートに拠る
・ダルマパーラの死
・追記
・注釈
▼セイロン暴動
ダルマパーラの最後の来日から二年後の一九一五年は、一八一五年にセイロン最後のキャンディ王朝がイギリスによって滅ぼされてから百周年にあたり、仏教雑誌である『マハ・ボディ』誌上にも獅子をあしらったランカの国旗、民族意識の覚醒を呼びかける論説や詩が掲載された。【*1】
この年にイスラム教徒とシンハラ仏教徒の衝突事件(後述)を発端として勃発した大暴動は、それを反英運動の一環とみなした英国官憲の介入を招くに到った。植民地当局は六月二日から三ヶ月間にわたり戒厳令を敷き、島に軍隊を派遣。ダルマパーラが育てあげたシンハラ・ナショナリズム勢力に徹底的な弾圧を加えた。
「(シンハラ人に)影響力を持つ人々は当局に反抗したみじんの証拠もなしに逮捕された。公務員は解雇され、市民は暴動の治まったあと軍事裁判所で審問された。…当時もしダルマパーラが幸いにインドにいなかったなら、彼は間違いなく、捕えられ射殺されたはずだ。彼の度重なる日本訪問やブッダガヤ大菩提寺を取り返すための活動は、すでに彼を嫌疑の対象としていたのだ。」【*2】
一九一二年の鉄道ストライキ以来、シンハラ・ナショナリズムは高揚期を迎えていた。しかし、この『セイロン暴動』によって、急進的な活動家や労働運動の指導者はほとんどが処刑されるか国外追放の憂き目にあった。セイロンで弾圧の嵐が吹き荒れていたとき、ダルマパーラはカルカッタの大菩提会本部にいた。当局による捜査のさなか書き記された日記の断片(六月九日)が残る。
「四時に起きて、パンニャーンダ宛ての手紙をタイプ。ボダージュが、警察が私を捕まえに来たと告げた。五時に三人の捜査員が来て、私の書類を取り調べた。彼らは日記帳や外の書類を持ち去った。不快になって落ち込んだが、午後には気分が落ち着いた。ナレシュは私と一緒に部屋にいたが、彼はすぐ(また)家宅捜査が始まるのではと恐れていた。」【*3】
同月十六日、当局はシンハラ人指導者の拘束に抗議する論陣を張った『シンハラ・バウッダヤ』(ダルマパーラが一九〇六年に創刊したシンハラ語新聞)の印刷を差し止め、新聞のバックナンバーを押収した。次いで当時の編集人も逮捕された。『バウッダヤ』は、イギリス統治下で発売禁止になった最初のシンハラ語新聞という栄誉を受けた…。
官憲の弾圧はダルマパーラの親族をも標的とした。弟エドムンドは、反乱罪で逮捕され、半年後にジャフナの監獄で腸チフスを発病し獄死した。彼は野口復堂に宛てた書簡のなかで、「弟は当局によって毒殺された」と書き記した。それが偽らざる実感であったろう。そして、ダルマパーラ自身も暴動から五年間カルカッタに軟禁され、当局の監視下に置かれた。
▼日英同盟下のインド支援
ちなみにそのほんの三ヵ月前には、シンガポールで起きたインド兵の反乱に対して、日本の軍隊が日英同盟に基づき鎮圧に一役買うという一幕があった。植民地支配者の側に立った日本軍の行動に対して、日本国内でも大川周明らによる批判が起こった。【*4】
また同末から翌年にかけて、英国の横やりによって在日インド人活動家、ビハリ・ボースとグプタの追放騒動が起こった。この際に大川周明らは『道』誌上などで、激烈なインド革命擁護の論説、日本は英国の走狗になるなかれ、というキャンペーンを展開し、グプタらの救援活動に奔走する。日露戦争後、日本が西欧列強に伍する強国としての地歩を固めたその象徴であった日英同盟。しかし日本の東アジアにおける権益を英国に認めさせたのと引き換えに、日本は英国のインド植民地支配を追認し、独立運動弾圧への片棒担ぎを余儀なくされた。この冷徹なパワーポリティクスは、日本の心ある人士にとっては許しがたい「取引」に写った。そして、大川や頭山満ら「日本の志士」たちによるインド独立運動家支援が、日英同盟下の民間の補完外交として、広い共感をかち得ていたのである。
野口復堂もまた同じ時期、『道』に「印度を憶ふ」という手記を寄せ、自分が30年前に訪れたインド・スリランカでの出会いを振り返り、幽囚のダルマパーラを気遣いつつ、南アジアの抑圧に深い同情を寄せていた。
「何ぞ料(はか)らん余が旧友ダンマパラは、カルカッタに在りし爲め、奇禍を免れしと云う大危険に遭い、弟二人は不孝にも捕われ其中一人は死刑に所せられたりと、嗚呼何等の惨事ぞ、余が曾遊(そゆう)の時、右の二弟は小学時代なりき、余は二弟の頭を撫(ぶ)し『兒(じ)等の将来は多望なり、自国の爲めに努力する事を忘るべからず』と訓誡せしに、幼少ながらも『盟(ちか)って貴客の垂訓に背かじ』と答えしが、果せる哉自国の爲めに死せり、余たる者豈に一滴の涙無からざるを得んや。」(『道』93号 大正五年一月)
▼1915年セイロン暴動の背景について
二十世紀初頭のアジアで起きた悲劇、または屈辱に悲憤慷慨したついでに、少々クールになって事件の背景を観察してみたい。
「1914年、ヨーロッパで戦争が勃発し、翌年の中頃、ハンバヤ(イスラム教徒)がますます尊大となり、ついにキャンディ近郊のガンポラで仏教徒の行進を攻撃するに到った。そして冷淡な警官の目前で、シンハラ人青年が殺害され、ムスリムと仏教徒との暴動をさらに促進した。興奮した群集が、聖なる仏歯寺を暴力から守るために、周囲の村々からキャンディにおしかけてきた。そしてこの騒動は直ちにこの島の他の部分にもひろまった。これを英国の支配に反対する暴動であると解釈して驚いた英国官憲は、六月二日に戒厳令をしいた。」(Flame in Darkness pp99-100)
1915年のセイロン暴動の原因を、ダルマパーラの伝記はかくも感情的な記述で説明している。もう少しクールにコメントすると、この大暴動の背景には、スリランカ海岸や内陸の商業を掌握していたイスラム教徒(Moors)と、新たに力をつけてきた低地シンハラ人プチ・ブルジュアジー階級との対立があった。 後者の理論的支柱となったのは、ダルマパーラが宣揚したシンハラ仏教ナショナリズムであった。ダルマパーラが牛車に乗ってセイロンの村々を巡杓し、熱狂的な「バーナ」を通じて排撃した二つの悪習、飲酒習慣と肉食(牛肉食)のうち、前者はヨーロッパ植民地支配への抵抗の隠蓑となったし、後者はセイロンにおいて精肉業を引き受けていたイスラム教徒たちへの民族的憎悪として増幅された。シンハラ人民族主義者が敵視したイスラム教徒は、「我々の宿怨の敵、ムーア人」とまで罵られ、高揚するシンハラ仏教ナショナリズムのかっこうの捌け口として絞り込まれていったのだ。
「ダルマパーラは回教徒の商人を シンハラ仏教徒に対する非倫理的な搾取者として描写した。たいてい回教徒によって経営されていた食肉店や、アヌラーダプラのような神聖な仏教都市の中のモスクの存在は、民族復興主義者によれば“仏教とシンハラ仏教文化への侮辱”と見なされた。この種の敵意はクリスチャンの教会に向かって同じく延長された。 禁酒主義の動きと食肉店に対する反対、教会と アヌラーダプラのような都市の周りにあるモスクは強い反少数派感情によって狙い撃ちされた。」("Communalisation of Muslims in Sri Lanka, An Historical Perspective" By F. Zackariya and N. Shanmugaratnam )【*5】
ダルマパーラが運営するシンハラ語新聞、『シンハラ・バウッダヤ』は反ムーア人感情を煽り立てる論説をたびたび掲載していた。植民地政府から発行停止処分を受けたのも、バウッダヤ紙がシンハラ人に対して暴動を扇動したとみなされたからである。当のダルマパーラは、セイロンで戒厳令が布告されてから約二週間後の六月十五日、英国の植民地担当大臣に宛てた書簡の中で、自らの言説の正当性をこう述べている。
「 イスラム教徒≪十九世紀の初頭には一般的な貿易業者であった異邦人たち≫は シャイロック的な方法によってユダヤ教徒のごとく繁栄しました。 シンハラ人≪その先祖が2358年間に渡って、祖国を外国の侵略者から守るために血の川を流し、何百万もの地所を灌漑するため巨大な溜池を造成し、現代の古美術愛好者や研究者が賞賛を寄せる芸術的な寺院を建設してきた≫『大地の子』らは、今日、イギリス人の目にはただの放浪者(vagabonds)としか映っていない…。 (シンハラ人同朋の)産業は破壊され、農業はおろそかにされました。先祖伝来の土地は政府によって隔離され、英国のシンジケートに売られました。2400年のあいだ小作農所有者として独立し、決して年季奉公の日雇い人夫(クーリー)として働くことなど知らなかった『大地の子』も、いまでは紅茶農場日雇い人夫(クーリー)なのです。 セイロンに上陸した南インドの異邦人、イスラム教徒は、そこで貿易の経験もなく、どんな種類の専門的な産業の知識も持たず、彼の言語、宗教と人種のために、アジアの全体から孤立した、怠惰で文盲の村人たちに出会う。その結果としてイスラム教徒は繁栄し、『大地の子』らは追い詰められているのです。 植民地政府であるところの政府は、もっぱら植民地の英国本国人の利害を注視しており、ネイティブはただの原住民(only an aborigine)扱いです。」(Return to Righteousness p540)
ダルマパーラはこの書簡で、「(戦争中の)イギリス人にとってドイツ人が異邦人であるのと同じように」、セイロンのイスラム教徒はスリランカの“大地の子”であるシンハラ人にとって、民族的ルーツも宗教も異なる、決して相容れない異邦人なのだと喝破した。
もちろん1915年、セイロン島で吹き荒れた悲劇的な暴力の原因を、宗教間の緊張にのみ帰する見方には異論もある。大英帝国による植民地支配体制と分断統治、二十世紀初頭の世相を支配した人種思想、といった歴史的な背景も充分勘案しなければならない。しかし、ダルマパーラが『大地の子』の生存権を訴えたアジテーションの残響は、スリランカ現代史を繰り返し揺さぶり続けている。
▼晩年 サルナートに拠る
カルカッタでの五年間の抑留生活の後は、病に臥せることが多かったとはいえ、ダルマパーラが植民地当局者にとって危険人物であることに変わりはなかった。【*6】一九二二年六月、セイロンに渡ったダルマパーラは、七年前の暴動以来、発行禁止にされていた『シンハラ・バウッダヤ』の再刊を、シンハラ人聴衆に訴えた。
「私はあなた方すべての助力を欲している。恐れを抱くな。我々が獅子の種族(the lion race)である事を忘れてはならない。」【*7】 老い傷ついたライオンは、なおも吼え続け、シンハラ同胞の民族意識を駆り立てていった。しかしその彼も、あえてもう一度日本に渡ろうとはしなかった。それどころか、彼はその晩年を故国スリランカで過ごすことさえ滅多になかった。一九二五年の初頭から、彼は持病の治療のため、ヨーロッパとアメリカに赴いたが、現地では常に当局の監視の目が光っていた。彼らは満身創痍のダルマパーラが、インド共産党の重鎮M.N.ロイ やアイルランド独立活動家との連絡を計ることを警戒していたのである。
名前のとおりのアナガーリカ(放浪者)として、彼は残された人生を欧州での仏教の普及、そして第二の故国インドでの仏教再生に捧げた。故国での反植民地運動は、彼が設立に携わった仏教学校から巣立った若者たちによる、政治運動や労働運動へと引き継がれていった。
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初轉法輪寺(根本香精舎)遠景 |
▼ダルマパーラの死
ダルマパーラは一九三一年の七月十三日に受戒し、「シュリ・デーヴァミッタ・ダンマパーラ」という僧名を受けた。【*9】近代アジアが生んだ「異形の仏教者」は、ありふれた一人の比丘・仏弟子としてその生を終えることを選んだ。一九三三年四月、比丘ダンマパーラは肺炎を発し、同月二十九日、客地インドでその生涯を閉じた。六十九歳であった。彼の死に臨んで、日本では『現代仏教』誌上にその葬儀の模様を写真で報道するとともに、高楠順次郎と野口復堂がそれぞれ追悼記事を寄せた。【*10】
「居士の最終の大事業は、仏教発祥の地たる鹿野苑に根本香殿初転法輪寺を創建することであった。…その落慶入仏の公式には日本は仏教連合会から大梵鐘を送った。今またその大壁画を畫く為に野生司香雪画伯を送った。その正面の第一壁は完成したとのことである。ダンマパーラ居士は果たしてその新壁画を見たか否か…」【*11】
高楠が案じていたその頃、はるかインドの鹿野苑(サルナート)では、一人の日本人画家が、初転法輪寺の壁面に向かって黙々と絵筆を動かしていた。
▼追記
一九一六年、前年のセイロン暴動の煽りを食ってダルマパーラがいまだカルカッタに抑留されていた頃、ブラヴァッキー&オルコットの後継者として神智学協会を率いていたベサント夫人は、インド国民会議派指導者のティラクとともにインド自治連盟(Home Rule League)を設立する。ベサントは翌年、インド国民会議派の議長にも選出され、その後しばらくインド自治権運動をリードすることになる。第一次世界大戦を通じて、植民地インドは大英帝国に多大な貢献をなした。この戦禍の後、インド独立を求める国民運動が勢いを増したことは周知の事実である。その過程で、国民会議派の主導権はベサントからガーンディーへと移った。
一九三三年九月二十日、アニー・ベサント没。一九三四年三月一日、C.W.リードビーター没。同年四月、アナガーリカ・ダルマパーラ没。偶然であろうが、一八八〇年五月、オルコットとブラヴァッキーのセイロン入りから始まった神智学協会とシンハラ仏教復興運動との関係史を語る上での重要人物が、この時期相次いでなくなった。ひとつの時代が、約半世紀で幕を閉じたことになる。合掌。
■注釈
【*1】 MBJ Vol.23.No.3. March,1915, No.4. April,1915.
【*2】 "Flame in Darkness" p100
【*3】 MBJ. 1897-1991 Centenary Volume, p105
【*4】 『日本とインド 交流の歴史』P.72. 参照
【*5】 Kumari, ibid.
【*6】 http://www.mnet.fr/aiindex/SL_communal.html
近代スリランカにおけるイスラム教徒のアイデンティティ形成プロセスについて詳述されている。シンハラ仏教ナショナリズムの勃興と期を同じくして、スリランカのイスラームのあいだでも人種的・宗教的アイデンティティの明確化を促す運動が起きる。1915年のセイロン暴動は、スリランカ社会の"Communalisation"を決定付けた事件でもあった。
【*7】 "Return to Righteousness" LXVIII
【*8】 "FLAME IN DARKNESS The Life and Saying of Anagarika Dharmapala" SANGHARAKSHITA, Triratna Granthamala, 1995, p128
【*9】 一九三一年七月十三日にサルナートで得度し沙弥に成り、Devamitta Dhammapala の僧名を受け、死の三ヵ月前、1933年一月十六日に具足戒の儀式(ウパサンパダー)を受けて正式な比丘となった。
【*10 野口復堂「這般死去せし『ダルマバラ』居士が始めて日本に入りし道筋」、高楠順次郎「ダンマパーラ居士の訃音」(ともに『現代仏教』No.106, 1933.8.)
【*11】 高楠順次郎「ダンマパーラ居士の訃音」